第3話 誰だ、こいつ
翌朝。
テレビの中で、Kは何度も百六十キロを投げていた。
七回百四球を投げた男は、朝の情報番組では三回の一球だけを投げ続けていた。
どの局に変えても、その一球だった。
『球界騒然! 突然現れた謎の覆面投手』
紅い覆面の横に、大きな疑問符。
「これ、本当に公式戦なんですよね?」
「はい。先発して七回三失点、勝利投手です」
「この格好で?」
「この格好で」
スタジオが笑った。
プロフィールが映る。
読み終わるまで、十秒もかからなかった。
「……これだけ?」
「球団が公表している情報は、こちらだけです」
ゲストの一人が肩をすくめた。
「隠す方が難しくないですか。野球って、一人で練習してプロになれるものじゃないでしょう」
隣の元プロ選手は、笑わなかった。
「誰かは知ってるはずですよ。この球を投げるんですから。どこかで一緒にやった人間はいるでしょう」
画面では、また百六十キロが出た。
*
東西スポーツの編集部でも、同じ映像が流れていた。
音は消してある。
榊原遼介は、コンビニの袋をまだ開けていなかった。
「榊原。来て」
デスクがモニターの前で手招きした。
各社の記事が並んでいる。
見出しは、どこも同じだった。
「今は横一線だ。映像も数字も、監督の『知らん』も、みんな持ってる」
デスクは画面の中のKを指さした。
「ここから先だよ。誰なんだ、こいつ」
「まだ分かりません」
「だから調べてくれって言ってる」
デスクは椅子を引き、肘をついた。
「来週、年齢だけ発表。次に国。最後にマスクを取る。そういう売り方かもしれないだろ。東条が連れてきて、あの格好で、資料は五行だ」
「そういう情報が?」
「ない。可能性の話だ」
「今は、なにもわかりません」
「今すぐ書けとは言ってない。時間があると思うなって言ってる」
デスクは画面を顎で指した。
「球団が名前を出したら、各社同時だ。それまでこっちが何時間調べてようが、公式サイトを見た奴と同じになる」
「分かりました」
「前所属でも年齢でも。何でもいい。分かったところから持ってきて」
「裏が取れたところから、ですね」
「頼むぞ」
席に戻り、球団の選手紹介を更新する。
K。
89。
昨夜から、何も変わっていなかった。
*
ネットには、球団より詳しいプロフィールがあった。
三十二歳。
元メジャーリーガー。
肘の故障で一度引退。
出典は、どこにもなかった。
別の投稿では、二十七歳。
さらに下では、東条グループが海外で育てた極秘選手。
〈普通に考えて企業の実験だろ〉
〈サイボーグとか遺伝子操作?〉
〈検査どうすんだよ〉
〈東条グループだからな〉
榊原はスクロールを止めた。
東条グループだから。
その一言で、説明が終わっていた。
国内の現役投手の名前も並んでいた。
故障で登録を外れている。
背が同じくらい。
右投げ。
その程度で、候補になっている。
〈昨日こいつ何してた?〉
〈地元の番組出てる〉
〈収録の可能性ある〉
〈窓の外明るいだろ〉
訂正されるたびに、条件の方が変わっていく。
覆面の色から、紅と黒と金のユニフォームを着た選手を探す者もいた。
背番号の八と九を足して、十七番の投手を並べる者もいた。
八十九年生まれ。
八月九日生まれ。
通算八十九勝。
榊原は、メモに書きかけた数字を消した。
何を探しているのか、分からなくなりかけていた。
画面の隅に、赤い文字の動画が出た。
【正体判明?】覆面投手Kの中身、絞れました。
投稿は、午前三時十八分だった。
*
榊原はイヤホンをつけた。
野球帽の男が喋っている。
背後の棚に、グラブが並んでいた。
『公開情報からの考察です。ただ、かなり絞れます』
候補者の表に、十数人の名前が出た。
身長が三センチ違う選手は、計測した時期が違うから。
体重が十キロ違う選手は、増減があるから。
左打ちでない選手は、登録情報が古いかもしれないから。
条件が、一つずつ緩んでいった。
『僕が一番気になってるのが、この人です』
榊原も知っている、元プロの投手だった。
『ここ二年くらい、情報が少ないんですよね』
情報が少ないことが、一番の根拠だった。
次の動画は、もっと再生されていた。
【映像比較】Kは途中で交代していた?
三回の百六十キロ。
四回の一四九キロ。
二つが横に並ぶ。
『急に十一キロ落ちてるんです。しかも、その後の方が抑えてる』
二つのフォームが止まる。
片方は足を上げきる直前で。
片方は、踏み出した後で。
『これ、同じ人に見えますか?』
「同じところで止めろよ」
声に出ていた。
隣の席の記者が、こちらを見た。
榊原は手を上げて謝り、映像を戻した。
カメラの角度も違う。
三回は斜め前から。
四回はセンター方向から。
それでも、コメント欄には賛同が並んでいた。
〈途中から別人みたいだと思った〉
〈監督も別の投手みたいって言ってた〉
〈中に二人いるは草〉
〈ルールどうなってんだ〉
昨夜の伊丹の言葉まで、証拠にされていた。
イヤホンを外す。
デスクが後ろに立っていた。
「何か出た?」
「四回から中身が入れ替わったそうです」
「それ、もう十万近く回ってるやつか」
「この説は無理です」
「分かってる。何か出たら、記録担当にも回して。全部お前一人でやらなくていい」
デスクは戻りかけて、振り返った。
「ネットの後追いで終わるなよ」
動画の再生数は、開いたときより増えていた。
*
球団広報の声は、朝から同じ質問に答え続けている声だった。
『経歴については、非公表となっております』
「今後、段階的に公表する予定は」
一拍、間があった。
『現時点で、お伝えする予定はございません』
榊原は、そのまま書き留めた。
公表しない、とは言っていない。
公表する、とも言っていない。
契約と本人確認の手続きは済んでいる。
それは記事にできる。
電話を切ると、デスクからメッセージが来ていた。
〈どう?〉
広報の回答を短くまとめて送る。
〈昨日と同じだな。外を当たって。候補でもいい〉
コンビニの袋は、口だけ開いていた。
*
フェニックスのロッカー。
若手投手が、竹田にスマートフォンを突き出した。
「竹田さん、これ見ました? 四回から中身が違うんですって」
画面の中で、Kが左右に並んでいる。
「二人で投げてる説」
隣の選手が笑った。
「三回で交代なら、勝ちどっちにつくんだよ」
「知らねえよ」
少し離れた椅子で、Kが靴ひもを結んでいた。
竹田はロッカーを開けながら言った。
「本人の横で見るなよ」
「三回の後に入れ替わったらしいですよ」
「じゃあ昨日、俺はどっちと話してたんだよ。ずっと同じベンチにいたんだぞ」
竹田はKを見た。
「お前、今日はどっちだ?」
Kは靴ひもから顔を上げ、竹田を見た。
何も答えなかった。
「どっちも喋んねえのかよ」
周りが笑った。
若手が別の画面を出す。
「Kさん。じゃあ、この人ですか?」
元プロ投手の写真だった。
Kは画面を見た。
差し出した若手を見る。
また、靴ひもに戻った。
「違うってこと?」
「答える気ねえんだろ」
「せめて違う人だけ、消してほしいんですけど。この動画だと候補、十二人いるんで」
別の若手が口を挟んだ。
「俺、外国人だと思うんですよね。日本にいたら、誰か知ってるじゃないですか」
「外国でも知ってるだろ」
「だから、すごい下のリーグとか」
「あんな球投げる奴が?」
「知らないですけど」
大島が、手袋を出しながら通りかかった。
「ネットなんて、候補が減ったら、また違う候補が増えるだけだぞ」
「確かに」
入口からスタッフが顔を出し、竹田を呼んだ。
真壁が、映像を見ながら話を聞きたいという。
竹田は立ち上がり、Kの前で足を止めた。
「昨日の後、痛いとこは」
Kが首を横に振る。
「肩も肘も?」
うなずく。
「何かあったら、ちゃんと言え。黙ってたら分かんねえから」
また、うなずいた。
竹田が出ていくと、若手がつぶやいた。
「野球のことは答えるんですね」
「じゃあ、野球のこと聞けばいいじゃん」
大島が言った。
「年俸いくらなんですかね」
「そこか」
*
真壁が止めていたのは、二回の映像だった。
一塁走者がリードを取っている。
Kは、セットに入ったまま動かない。
「ここ、何て言った」
「長いって。セット入ってから長え、って」
真壁が四回へ送る。
死球で出た走者。
Kは一度だけ一塁を見て、すぐに投げていた。
「変えましたね」
「普通は、言われてもできないんだよ。昨日の今日じゃない。同じ試合の、次の回だ」
真壁は椅子の背にもたれた。
「投げる動作はできてる。あの落ちる球も、たまたま投げられるようになる球じゃない。なのに、ここだけ妙に危なっかしい」
「三回の後、全部全力で投げるなって言いました。あと、打者を見ろって」
真壁が、三回と四回を続けて流す。
一五九。
百六十。
一四九。
竹田は少し笑った。
「今、ネットでここから別人って言われてますよ」
「入れ替わった奴にも、セット長いって話は引き継ぎがあるのか」
「そうなりますね」
「準備がいいな」
真壁は笑わず、もう一度再生した。
「捕っててどうだった。四回から」
「球速ほど、遅くなった感じはしなかったです。それと、後半は何か見てるんですよ。サインを断るときの感じが、一回と違う。こっちに分からないことを」
「何かって」
「分からないから、困るんです」
真壁は腕を組んだ。
「……どこで野球覚えたんだ」
ドアが開いて、伊丹が入ってきた。
「何か分かったか」
「あいつ、竹田の話はちゃんと聞いてます」
「うなずくからな」
「投球に出てる、って意味です」
「分かってるよ」
伊丹は、七回の滝川の打席まで送らせた。
最後の一球が沈む。
空振り。
「次は、簡単には振らんぞ」
「下、捨ててくると思います」
竹田が言った。
伊丹はうなずき、真壁を見た。
「もう一回、投げさせる。体を確かめてから日を決める。今日は肩を休ませろ」
「はい」
伊丹はドアに手をかけた。
「なんにせよ、次も投げるのは、うちのマウンドだ。投げられるようにするのは、お前の仕事だ」
ドアが閉まる。
「次、あるんですね」
竹田が言った。
「あるぞ。お前も捕るんだ」
「分かってますよ」
真壁は、映像を一回へ戻した。
*
球場の取材エリアには、普段見ない顔が増えていた。
情報番組のカメラ。
週刊誌。
野球担当ではない記者。
「K選手はどこを通りますか」
「動線については、ご案内しておりません」
球団職員が、同じ説明を繰り返していた。
榊原は、大島から短く話を聞けた。
「K投手の今日の様子は」
「普通」
「ロッカーで、マスクは外していましたか」
「いや。外してるのは見てないな」
「え?」
別の記者が声を上げた。
「誰も見てないんですか」
「少なくとも俺は見てない。たぶん、みんなも見てない」
榊原はノートから顔を上げた。
チームメートにも、素顔を見せていない。
「以前対戦した投手に似ている、という印象は」
大島は少し考えてから、榊原を見た。
「誰かを言わせたいの?」
「心当たりがあれば」
「俺が誰かの名前出したら、その人に聞きに行くだろ。今んとこないよ」
大島は、グラウンドへ戻っていった。
竹田にも、同じことを聞いた。
「分かんないです」
「受けた感じでは」
「速いです」
「落ちる球は」
「落ちます」
周りの記者が笑った。
竹田は笑っていなかった。
「昨日、三回の後にベンチで話していましたね」
竹田の目が、少し動いた。
「俺が一方的に喋ってただけです」
「K投手は?」
「喋ってないですよ」
「……あのときだけですか」
竹田は少し考えた。
「いや。俺、あいつの声まだ聞いたことないです」
榊原のペンが止まった。
周りの記者がざわついた。
「一度も?」
「一度も。ロッカーでも喋んないですね。聞かれたことには、うなずいたり首振ったりしますけど」
「では三回の後は、竹田選手が一方的に?」
「そうです。全力で投げるなって。七回まで投げるなら考えろって」
「それで四回から球速を落とした?」
「本人に聞いてないんで、そこまでは」
少し間を置いて、竹田が付け足した。
「でも、こっちの話は聞いてますよ。聞いてないように見えるけど」
榊原は、その言葉まで書き留めた。
隣の記者が、録音していたスマートフォンを下ろす。
別の一人は、もう輪を離れて電話をかけていた。
榊原も礼を言い、取材エリアを出た。
竹田の一言は、もう取材エリアの外へ出始めていた。




