第10話 三つ目
売れた。
球団の予想を、かなり上回って売れた。
東条フェニックスがKの公式グッズを出したのは、三日前だった。
背番号89を大きく入れたタオル。
深紅と黒のTシャツ。
覆面を図案化したキーホルダー。
オンラインストアには、発売直後から注文が集まった。
タオルとTシャツの一部は、その日のうちに売り切れた。
追加の生産が決まった。
その一枚が、ロッカーにあった。
「これ、すごいぞ。昨日また売り切れたって」
竹田哲平が、深紅のタオルを広げた。
中央に、大きく89。
Kは、タオルを見た。
「ネットも在庫ないらしいぞ」
Kは、まだ見ていた。
「お前、全然うれしくなさそうだな」
Kが竹田を見る。
「いや、顔見えないけど」
横から、大島がタオルを取った。
「いいじゃねえか。売れるうちに売っとけ」
裏返す。
「俺のも、ついでに売れねえかな」
「大島さんのは、普通に売ってるでしょ」
「普通じゃダメだ。完売しろ」
「無茶言わんでください」
Kは立ち上がって、グラウンドへ出ていった。
*
敵地、千葉の球場だった。
スタンドは、まだ埋まりきっていない。
それでも三塁側のビジター席に、赤いものが目についた。
89。
また89。
その中に、小さな手があった。
少年が、買ったばかりらしいタオルを両手で広げている。
父親に何か言われて、慌てて上下を直した。
68が、89になった。
*
相手は千葉オーシャンズ。
リーグ二位のチームだった。
派手さはない。
投手と守備で、少ない点を守り切る。
その中心にいるのが、倉橋直哉だった。
二十八歳の右腕。
昨季十四勝。
今季も九勝三敗、防御率は一点台。
最速は、百五十四キロ。
百六十は出ない。
リーグで倉橋より勝てる先発を何人挙げられるかと聞かれれば、そう多くはない。
一方のKは、二勝だった。
〈倉橋相手でもKなのか〉
〈人気優先じゃないの〉
試合前、伊丹は記者に聞かれた。
「今日、相手は倉橋ですが、予定通りKですか」
「先発なんだから、投げる」
それだけだった。
ブルペンで、竹田がKの球を受けていた。
直球。
スプリット。
スイーパー。
竹田は、もう一球ごとにKの様子をうかがわなかった。
Kも、必要がなければ首を振らなかった。
少し離れたところで、真壁がそれを見ていた。
*
先に試合を支配したのは、倉橋だった。
一回表、フェニックスの一番から三番まで、打球が一度も外野へ飛ばない。
「速くは見えないんだけどな」
ベンチへ戻ってきた打者が言った。
「来ない?」
「いや。来る。来るんだけど、欲しいところには来ない」
真壁は、マウンドの倉橋を見た。
直球は、Kより遅い。
変化球の落差も、Kのスプリットほどではない。
それでも、打者が嫌がるところへ投げてくる。
カウントを作り、走者がいれば、投げる以外の時間まで使う。
先発投手として、穴が少なかった。
その裏、Kも三人で終えた。
桑島を空振り三振。
小松を二ゴロ。
北浦を左飛。
十二球。
ゼロが二つ並んだ。
球だけなら、Kの方が強い。
だが、先発投手という仕事は、強い球を投げることだけではない。
二回裏、四番の皆川壮介が打席に入った。
百八十八センチ、九十八キロ。
大きな身体だが、滝川のように威圧して構える打者ではなかった。
バットを、大きく揺らさない。
静かだった。
初球を見る。
二球目をファウル。
三球目の直球を振って、中堅へ伸びる飛球。
中堅手が、数歩下がって捕った。
皆川は、もうベンチへ歩き出していた。
*
三回表、竹田が中前へ打ち、岩瀬が右翼線へ運んだ。
一死二、三塁。
倉橋が、初めて二人の走者を背負った。
早川の二ゴロの間に、竹田が還る。
1対0。
倉橋は、日下部を三振に取って、それ以上は与えなかった。
「一点が重そうだな」
大島の予想は、外れなかった。
四回裏。
北浦が、左中間へ二塁打。
無死二塁で、皆川。
カウントを整えてから、竹田は外角に構えた。
直球。
皆川のバットが出る。
速い打球が、Kの横を抜けた。
中前。
北浦が還る。
1対1。
一塁に立った皆川は、拳も上げなかった。
Kは、新しいボールを受け取った。
皆川を見る。
それから、竹田を見た。
後続を三人で断ち、同点で止めた。
*
倉橋は崩れなかった。
Kも崩れなかった。
五回、スコアボードに、またゼロが二つ並ぶ。
六回表。
早川が中前へ運び、日下部が送った。
一死二塁。
片瀬が、倉橋の球を左中間へ弾き返す。
早川が還る。
2対1。
倉橋は、そこで切った。
大島を三ゴロ、黒田を歩かせて、成瀬を三振。
二点目まで、それ以上は渡さなかった。
六回裏。
北浦を中飛に打ち取り、また皆川。
竹田が低く構える。
外れる。
もう一球。
皆川は振らない。
追わせにいった球にも、手を出さなかった。
四球。
この試合、Kが初めて出した四球だった。
Kは皆川を追わず、次の安西を遊ゴロ併殺に取った。
皆川の三打席は、中飛、適時打、四球。
まだ一度も、三振を取っていなかった。
*
七回、倉橋は三人で仕事を終えた。
七回、百四球、二失点。
その裏、Kも三人で終えた。
九十二球。
ベンチに戻ったKに、竹田が水のボトルを渡した。
真壁が、Kを見る。
息は上がっている。
だが、腕の振りは落ちていない。
伊丹は、何も言わなかった。
八回表、フェニックスは追加点を取れなかった。
チェンジになる。
Kが立った。
グラブを持つ。
そのまま、マウンドへ向かった。
止めなかった。
*
八回裏。
2対1。
宇野を遊ゴロに取って、一死。
桑島に、左中間を破られた。
小松の詰まった当たりが、内野安打になる。
一死一、二塁。
北浦の左飛で、桑島がタッチアップして三塁へ。
二死一、三塁。
そして、皆川が出てきた。
竹田は、マスクの奥から皆川を見た。
今日、一番嫌な打者だった。
初球、外。
ボール。
二球目、直球。
ファウル。
三球目。
低め。
皆川は振らない。
ボール。
竹田が捕った瞬間、一塁走者の小松が動いた。
三塁の桑島を、一瞬見る。
投げられない。
小松が、二塁へ滑り込んだ。
二死二、三塁。
一打で、逆転。
四球目、直球。
皆川が振る。
後ろへ飛ぶファウル。
二ボール二ストライク。
竹田は、皆川の構えを見た。
足。
腰。
手。
低い球には、手を出していない。
直球にも、備えている。
五球目。
竹田は、低く構えた。
スプリット。
落ちる。
皆川のバットは、止まった。
ボール。
竹田には、そう見えなかった。
バットが、わずかに回ったように見えた。
竹田は、一塁塁審を見た。
塁審の両腕が、横に開く。
ノースイング。
三ボール二ストライク。
満塁にしてもいい。
次は安西だ。
それも、選択肢だった。
竹田は、Kを見た。
Kも、皆川を見ていた。
(低いのは、全部見てる)
目が合った。
長くはなかった。
竹田がサインを出す。
Kは、首を振らなかった。
竹田は、立ち上がるほどではなく、ミットだけを上げた。
高め。
Kが、足を上げた。
百十一球目。
皆川のバットが出た。
振り遅れては、いない。
それでも、ボールはバットの上を通った。
ミットが鳴る。
球審の右腕が上がった。
一瞬遅れて、センター後方の表示が切り替わった。
160 km/h。
球場が、揺れた。
竹田はミットを下ろして、表示を見た。
もう一度、Kを見る。
「……まだ出んのかよ」
Kは何も答えず、マウンドを降りた。
九回裏、柴崎が三人で締めた。
2対1。
倉橋、七回二失点。
K、八回百十一球一失点。
勝利投手、K。
三勝目だった。
*
その夜、Kの名前はまた並んだ。
百六十キロ。
百十一球目。
倉橋に投げ勝つ。
三勝目。
最初は、ただの書き込みだった。
〈K、三勝目か〉
〈広瀬の残りと同じじゃん〉
〈何が?〉
〈197。あと3勝で200だった〉
〈足し算で200勝投手作るな〉
話は、それで終わるはずだった。
「……くだらない」
榊原遼介も、そう口にした。
三つ足したから、何だというのか。
Kが勝っても、広瀬の勝ち星が増えるわけではない。
広瀬和巳は、死んでいる。
球は似ている。
だが、フォームのすべてが同じではない。
本人説は、成立しない。
榊原は、開いていた広瀬の経歴を閉じようとした。
指が止まった。
プロ入り。
海を渡った年。
百九十七勝目。
故障。
手術。
引退。
死亡。
引退と死亡の日付は、同じ年ではなかった。
当たり前のことだった。
広瀬本人の可能性は、死を確かめたところで外した。
球の比較は、その後も続けていた。
けれど、引退してから死ぬまでの間を、追ったことはなかった。
榊原は、椅子に座り直した。
広瀬和巳が、Kであるはずはない。
その結論は、何も変わっていない。
ただ、問いの方が間違っていたとしたら。
Kは、広瀬和巳なのか。
ではなく。
なぜKの球に、広瀬和巳がいるのか。
榊原は、検索欄に文字を入れた。
「広瀬和巳 引退後」
検索キーを押した。




