第11話 197
検索結果の一行目に、「少年野球教室」という文字が見えた。
榊原遼介は、それを開かずに画面を閉じた。
違う。
先に、確かめることがある。
広瀬の名前を最初に見たのは、Kの映像についた短い書き込みだった。
〈この落ち方、広瀬を思い出す〉
それを読んでから、広瀬の映像を見た。
似ていた。
少なくとも、そう感じた。
先に、名前を見ている。
似ていると言われた後で、似ているところを探した。
探そうと思えば、人はいくらでも見つける。
197。
百九十七勝に、Kの三勝を足して、二百。
ただの数字遊びが、また広瀬を画面に連れ戻した。
そんなものに引っ張られているなら、調べる意味がない。
榊原は、広瀬の名前を入れずに映像を集め直した。
スプリット。
フォーク。
*
落ちる球を投げる投手など、いくらでもいた。
最初の一時間で、それは嫌というほど分かった。
速いもの。
遅いもの。
真下へ消えるもの。
少し横へ流れるもの。
手元で急に沈むもの。
榊原は専門家ではない。
分かったような言葉で分けることは、しなかった。
止める。
戻す。
同じ角度の映像があれば、並べる。
一つの条件だけなら、似た投手はいくらでもいた。
球速が近い。
落ち始める位置が近い。
直球と同じ腕の振りから落ちる。
早いカウントでも使う。
二つ。
三つ。
条件を重ねると、急に減った。
紙に名前を書いては、消した。
日付が変わってから、どれだけ経ったのか分からない。
机の端のコーヒーは、とっくに冷えていた。
何度映像を入れ替えても、目が戻る二人がいた。
K。
広瀬和巳。
同じ球だとは言い切れない。
指の掛け方までは見えない。
ボールも、マウンドも、時代も違う。
それでも、似ていた。
直球と並べたときの見え方。
沈み始めるまでの軌道。
打者が振り始めてから、その下へ消える間。
その球を選ぶ場面まで。
偶然ではない、と書くには足りない。
偶然だ、と捨てるには似すぎていた。
*
世間は、榊原ほど慎重ではなかった。
朝になるころには、197という数字が勝手に歩き始めていた。
〈広瀬の197に足したら200〉
〈足し算で名球会入りさせるな〉
〈死んでから勝ち星増える投手初めて見た〉
そこまでは、冗談だった。
以前にも出回った比較動画が、197という数字と一緒に、また貼られた。
冗談を、冗談として受け取らない者が出てきた。
〈広瀬って死んでるよな?〉
〈死亡したことになってるだけじゃないの〉
〈顔を隠してる理由それ?〉
死亡偽装。
別人の戸籍。
東条グループ。
経歴の非公開。
一本の線でつないだ図を作る者もいた。
根拠のない線ほど、よく伸びた。
昼には、情報番組までその話題を拾った。
『ネットで話題のK=広瀬説』
もちろん、あくまで話題として。
*
「今度は、広瀬さんらしいぞ」
ロッカーのテレビを見ながら、大島が言った。
画面では、広瀬和巳の現役時代の映像が流れている。
「またですか」
竹田は振り返った。
「百九十七勝に、三勝を足して二百勝だとさ。広瀬さんに失礼だろ、そんな足し算」
画面の字幕に、『K=広瀬和巳説 再燃?』と出た。
「本人説ですか」
「らしいな」
大島は、Kの方を見た。
「まあ、それは俺たちが一番分かるけどな」
「毎日見てりゃ分かりますよ」
近くの選手が笑った。
「これで広瀬さんだったら、そっちの方が大ニュースですよ。二十年くらい若返ってんだから」
竹田が言った。
「野球どころじゃねえな。その方法を教えてもらう」
三十五歳の大島の一言で、ロッカーに笑いが起きた。
Kだけは、いつものように加わらなかった。
テレビの中で、映像が交互に切り替わる。
広瀬。
K。
広瀬。
K。
時代も球場も、カメラの角度も違う。
それでも番組は、二人のスプリットを並べていた。
竹田の笑いが、少し消えた。
「……でも、球は、言われるの分かるんですよね。捕ってると、もっと分かります。あの落ち方」
「似てるって言い方が、雑なんだよ」
真壁が、テレビを見たまま言った。
「フォームだけなら、真似する奴はいくらでもいる。球まで似せるのは、そんな簡単じゃない」
真壁は竹田を見る。
「映像見て言うのは簡単だ。お前、広瀬の球、受けたことないだろ」
「確かにそうですね」
竹田は、Kを見た。
Kは、グラブの紐を指で触っていた。
『広瀬和巳さんは、日米通算百九十七勝を挙げた名投手でしたが、引退後、交通事故により亡くなっています』
Kの指が、止まった。
ほんの一瞬だった。
また、紐を触り始める。
竹田は、それを見ていた。
「……まあ、いい気はしないよな。亡くなった人まで巻き込んで、好き勝手言われるの」
Kが顔を上げ、竹田を見た。
何も返さない。
「……違う?」
やはり、返さない。
「分かんねえよ」
竹田は笑った。
Kは、またグラブに目を落とした。
*
榊原にも、分からないものが一つあった。
スイーパーだった。
速く、大きく横へ動く、Kのあの球。
広瀬の全盛期には、今ほど一般的な呼び名ではなかった。
似た軌道のスライダーは、当時にもあった。
スイーパーが一つの球種として区別されるようになったのは、もっと後のことだ。
榊原は、広瀬の映像を遡った。
日本。
アメリカ。
若いころ。
故障する前。
確認できた映像の中に、Kのスイーパーと同じ球はなかった。
「……違う」
独り言が出た。
フォームも、完全には同じではない。
持っている球そのものが違う。
広瀬の時代を思わせる球が一つだけ残り、ほかは今の投手になっている。
榊原は、メモに書いた。
広瀬本人?
その上に、大きく線を引く。
下に、書き直す。
なぜ、スプリットだけ?
さらに、その下。
どこで覚えた?
答えは、なかった。
榊原は、引退会見で広瀬が言った言葉を思い出した。
『その三つを取る球がないまま、投げさせてくれとは言えない』
勝てるかもしれない。
それだけで、先発の場所に居続けるつもりはなかった投手だった。
Kの三勝を足して二百。
広瀬本人が聞けば、一番嫌がりそうな足し算だった。
それでも、そのくだらない足し算が、榊原をここまで戻してきた。
*
榊原は、もう一度検索欄を開いた。
今度は、消さなかった。
広瀬和巳 引退後
何も出ないわけではなかった。
現役を振り返るインタビュー。
当時現役だったメジャーのスターとの対談、二ショット写真。
野球イベントへの参加。
少年野球教室。
広瀬は、引退した瞬間に消えたわけではない。
榊原は、さらに探した。
一か月。
半年。
一年。
分かった日より、分からない日の方が圧倒的に多かった。
榊原は、画面から目を離した。
空白が、あるのではない。
普通なのだ。
引退した元選手が、何月何日に誰とどこのグラウンドにいたか。
そんなことが、毎日記事になるはずがない。
公の仕事をした日だけが、記録に残る。
それ以外の日は、ただ、その人の生活だ。
もし広瀬が、引退後にどこかで誰かに投げ方を教えていたとしても。
相手が有名でなければ、記事にはならない。
そこで、榊原は自分を止めた。
弟子がいた、と決めるのは早い。
Kと広瀬を結ぶ証拠は、一つもない。
なら、逆に行くしかない。
*
榊原は、広瀬の経歴を後ろから辿り直した。
引退。
故障。
メジャー。
国内でのタイトル。
初めての二桁勝利。
一軍定着。
記事が古くなり、映像が減り、写真が小さくなる。
社内の古い記事データベースに移った。
広瀬和巳。
プロ入りの年に絞る。
期待の新人。
二軍。
一軍昇格。
初勝利。
記事の写真には、今とはずいぶん違う広瀬がいた。
若い。
細い。
帽子を取って、笑っている。
十八歳で、プロで初めて勝った日の写真だった。
六回一失点。
当時の監督のコメント。
そして、捕手のコメント。
榊原の指が、止まった。
名前を、もう一度読む。
同じ試合の、別の記事を開いた。
マウンドに、広瀬。
ホームベースの後ろに、一人の捕手がしゃがんでいる。
榊原は、写真を拡大した。
二十一年前。
十八歳の広瀬和巳が、プロで初めて勝った日。
その球を受けていた男を、榊原は知っていた。
伊丹登。




