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K ―背番号89―  作者: K2MA


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12/34

第12話 21年前のミット

 二十一年前。


 十八歳の広瀬和巳は、首を振った。

 捕手の伊丹登は、もう一度同じサインを出した。

 また、首を振る。

 伊丹は動かなかった。

 三度目に首を振られて、ようやくサインを変えた。

 広瀬がうなずく。

 投げた。

 打者が振る。

 鋭い打球が、三塁線を抜けた。

 一塁走者が、三塁まで進んだ。

 打者は二塁。

 伊丹は立ち上がった。

 マスクを外す。

 マウンドへ歩いた。

 広瀬は、少し不満そうな顔で待っていた。


「打たれました」

「見りゃ分かる」

「あの球で、抑えられると思ったんです」


 伊丹は、広瀬を見た。

 三十六歳と、十八歳。

 プロで何年も生きてきた捕手と、高校を出たばかりの投手だった。


「お前、今、何を見てた」

「え?」

「打者の何を見て、首振った」


 広瀬は、答えなかった。


「投げたい球があっただけだろ」

「抑えられると思ったからです」

「同じだ」


 伊丹は、ミットで広瀬の胸を軽く叩いた。


「お前の球がすごいのは、知ってる。だから、打者を見ろ」

「見てますよ」

「見てねえから言ってんだ」


 広瀬の眉が動いた。

 伊丹は気にしなかった。


「次、何番だ」


 広瀬が答える。


「その次は」


 また答える。


「最初の打席、何でアウトにした」


 広瀬の口が止まった。


「そういうのを見ろ」


 伊丹はホームへ戻りかけて、振り返った。


「あと。首振るのは、好きにしろ」


 広瀬が、意外そうな顔をした。


「ただし、理由持って振れ」


 伊丹はマスクをかぶり、ホームベースの後ろにしゃがんだ。

 サインを出す。

 広瀬は、今度は首を振らなかった。

 その試合で、広瀬和巳はプロ初勝利を挙げた。


    *


 二十一年後。


 榊原遼介は、その日の記事を読んでいた。

 写真の中の十八歳の広瀬は、身体がまだ細い。

 表情にも、幼さが残っていた。

 その前にいる捕手は、逆だった。


 伊丹登。


 当時三十六歳。

 すでに長く一軍でマスクをかぶってきたベテランだった。

 今は、五十七歳。

 東条フェニックスの監督。

 初勝利の日に、たまたま伊丹が捕手だった。

 それだけなら、何の意味もない。

 榊原は、二つの名前を並べて検索した。


 広瀬和巳。

 伊丹登。


 記事が出た。


 一つ。

 また一つ。


 初勝利だけではなかった。

 広瀬が一軍に上がったころの登板は、全て伊丹が受けている。

 若い広瀬について、伊丹が話した記事も残っていた。


 球が速い。

 怖がらずに投げる。

 まだ、投手として知らなければならないことが多い。


 年を進めると、記事の中の広瀬の扱いが変わっていく。


 期待の新人。


 主力。


 エース。


 広瀬の名前が大きくなるにつれて、伊丹の名前は記事から減っていった。

 それでも、消えたわけではなかった。

 後年のインタビューでも、広瀬は何度か伊丹の名前を出していた。

 投手としての考え方を、語るときに。


 打者を見ること。

 試合を組み立てること。

 強い球を投げればいいわけではないこと。


「……捕ってただけじゃないのか」


 伊丹は、広瀬という投手が出来上がっていく場所にいた。

 十八歳のころから。

 ふと、榊原は思った。

 なぜ、誰もこれを書いていない。

 広瀬の名前は、ここしばらく何度もテレビに出た。

 その広瀬を若いころに受けていた男が、Kのいる球団の監督をしている。

 調べれば、すぐに出てくる。

 榊原は、ネットの投稿をさかのぼった。

 あった。


〈そういえば伊丹監督って広瀬と組んでたよな〉


 返信は、二つだけだった。


〈だから何〉

〈広瀬は死んでるって〉


 投稿は、そこで流れていた。

 本人説は、死亡の事実で終わった。

 本人でないなら、昔の捕手に話を聞く理由もない。

 各社も、おそらくそう判断した。

 騒いでいるのは、一部の極端なネット動画だけだ。

 榊原自身、あの写真を見るまで、伊丹の名前を思い浮かべもしなかった。


    *


 ブルペンで、竹田のミットに低い球が収まった。

 地面には、ぎりぎり届かない。


「もう一球」


 竹田がしゃがむ。

 少し離れて、真壁がいた。

 そのさらに後ろに、伊丹が立っていた。


 直球。

 スイーパー。

 スプリット。


 同じ腕の振りから、落ちた。


「今の、もう一回」


 Kが、また落とす。

 伊丹は、何も言わなかった。

 真壁が、伊丹の方を振り返った。


「どうしました」

「何が」

「さっきから、見てるんで」

「監督がブルペン見ちゃ悪いか」

「いえ」


 伊丹は、Kを見ていた。

 Kは、もう次の球を握っている。


「竹田。今の、どうだった」

「前よりいいです。真っすぐとの見分けが、また少し遅くなってます」

「そうか」


 伊丹は、それだけ言って踵を返した。

 背後で、またミットが鳴った。

 伊丹の足は、止まらなかった。


    *


 榊原は、さらに年を進めた。

 伊丹が現役を退いた後。

 広瀬が、海を渡った後。

 二人が、毎年一緒にいたわけではない。

 それでも、関係は切れていなかった。

 帰国した広瀬が、古巣の関係者と食事をした記事。

 そこに、伊丹の名前がある。

 指導者になった伊丹が、広瀬について聞かれた記事もあった。


 昔から頑固だった。

 だが、自分で考える投手だった。


 偶然という線は、もう消してよかった。

 伊丹は、完成した広瀬だけではなく、十八歳の広瀬を知っている。

 まだ粗く、球種が固まっていくころ。

 その球を、ミットで受けていた。

 榊原はメモを見た。


 なぜ、スプリットだけ?

 どこで覚えた?


 その下に、新しく書いた。


 伊丹は、どう見ている?


    *


 榊原は、広瀬が亡くなった当時の記事を開いた。


 交通事故。

 搬送先の病院。

 関係者のコメント。

 葬儀。


 参列した野球関係者の写真を探す。

 指が止まった。


 喪服姿の伊丹登だった。


 これで、一つははっきりした。

 伊丹にとって、広瀬和巳は記事の中の名前ではない。

 十八歳のころから球を受け、その葬儀にも出た男だ。


 聞き方を、間違えるわけにはいかなかった。


 榊原は、取材ノートに質問を書いた。


 広瀬さんは引退後、誰かを指導していましたか。

 線を引く。


 広瀬さんがスプリットを、誰かに教えたことは。

 また、止まる。


 最初から弟子を探す質問をすれば、自分の答えに伊丹を誘導することになる。

 それに、この騒ぎの中で「広瀬和巳について」と取材を申し込めばどうなるか。

 伊丹は、質問を予想して席につく。

 それでは、一つ見えなくなる。


 その名前を突然聞いたとき、伊丹がどう反応するか。

 榊原は、それも見たかった。


 球団広報へ、取材を申し込んだ。

 テーマは、終盤戦の戦略構想。

 広瀬の名前は、出さなかった。

 嘘ではない。

 終盤戦の話は、本当に聞くつもりだった。

 ただ、それだけでもない。


 後で伊丹に何を言われても、それは引き受けるしかなかった。


    *


 数日後。

 球場の関係者用の応接室で、榊原は伊丹と向かい合っていた。


「時間、あんまりねえぞ」

「承知しています」


 榊原は、まず本来の取材をした。


「チームは上位を追う位置にいます。残り試合で、先発の運用を変えるお考えは」

「今のところはない。登板間隔を詰めるなら、もっと後だ」

「Kについても、同じですか」

「同じだ」

「三勝しました。もう特別な枠ではなく、ローテーションの一人と考えていいですか」


 伊丹が、榊原を見た。


「三つ勝ってる先発を、今さら何だと思ってんだ」


 榊原のペンが、一瞬止まった。

 すぐに、書く。


「最初の登板の前とは、ずいぶん評価が変わりましたね」

「投げる前と投げた後で同じ評価してたら、監督いらねえだろ」


 もっともだった。


 残り試合。

 先発の枚数。

 竹田とのバッテリー。

 Kの球数。


 伊丹の答えは短い。

 それでも、答えないわけではなかった。


「最初の登板から見て、Kで一番変わったものは」

「球そのものより、使い方だろうな。何を投げるかだけじゃねえ。どこで投げるかだ」

「スプリットは」

「いい球だよ」

「スイーパーは」

「それもいい」


 榊原はペン先を紙につけたまま、伊丹を見た。


「監督は、現役時代は捕手でした」

「そうだな」

「多くの投手の球を、受けてこられたと思います」

「まあな」

「Kのスプリットを見て、誰かを思い出したことはありませんか」


 初めて、伊丹の返事が遅れた。


「……何が言いたい」


 榊原は、答えなかった。


「私は、一人思い出しました」

「誰だ」

「広瀬和巳さんです」


 机の上で組まれていた伊丹の指が、ほどけた。

 伊丹は、榊原を見なかった。

 窓の方へ、一度だけ目をやった。

 榊原は、その顔を見ていた。


 二十一年前。


 十八歳の広瀬和巳の球を、ミットで受けていた男の顔を。


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