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K ―背番号89―  作者: K2MA


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13/34

第13話 死んだ投手

 応接室のドアの向こうから、かすかに人の声が聞こえていた。

 ついさっきまで、伊丹は伊丹だった。

 短く、ぶっきらぼうで、聞かれたことには答える。

 それが、一人の名前で変わった。

 伊丹は、窓の方を見たままだった。


「ネット上では、Kの正体が広瀬さんだと言われています。ですが――」

「あいつは死んだんだよ」


 伊丹が遮った。

 低い声だった。


「葬式に行ったよ」


 榊原は黙った。


「焼香もした。遺族にも会った。それで足りるか?」


 声が、大きくなる。


「勝手に生き返らせるな!」


 部屋に、声が残った。

 伊丹の肩が、わずかに上下している。

 怒っている。

 Kのことで、ではない。

 広瀬和巳のことで。


「……生きているとは、私も思っていません」

「何?」

「広瀬さんが亡くなったことを、疑っているわけではありません。Kが広瀬さん本人だとも、最初から思っていません」


 伊丹は、ようやく榊原を見た。


「……じゃあ、何だ」

「スプリットです。Kのスプリットが、広瀬さんの球に似ている。監督がどう見るのか、聞きたかった」

「俺が?」

「二十一年前から、広瀬さんの球を知っている人です」


 伊丹は、椅子の背にもたれた。

 しばらく、黙っていた。


「……それを聞きに来たのか」

「はい」


 榊原は、タブレットを取り出した。


「比較した映像があります」


 伊丹は小さく息を吐いた。

 拒みはしなかった。

 現役時代の広瀬が投げる。

 打者の手前で、球が落ちる。

 空振り。

 次に、K。

 同じように、直球に近い軌道から落ちる。

 空振り。


「もう一度、落ち始める位置を――」

「もういい」


 榊原の指が止まった。


「こんなもん、見なくても分かる。毎日直に見てんだぞ、俺は」


 その通りだった。

 榊原が何日もかけて探し、繰り返し再生したKのスプリット。

 伊丹はそれを、毎日数十メートル先で見ている。

 広瀬の球に至っては、映像ですらない。


 二十一年前、そのミットで受けていた。


「似ていますか」

「似てるよ」


 あっさり、返ってきた。


「やはり」

「何が、やはりだ」

「どこが似ていますか」

「知らん」


 ペンが止まった。


「……似ているんですよね」

「似てる」

「どこが?」

「だから、似てるんだよ」


 榊原は伊丹を見た。

 伊丹も、榊原を見た。

 数秒、どちらも動かなかった。


「記事にするには、それでは困ります」

「知らねえよ、そんなもん」

「落ち方ですか」

「それだけじゃねえ」

「腕の振り?」

「それだけでもねえ」

「直球との軌道の差」

「お前な」


 伊丹が、少し前へ出た。


「一個ずつ部品にすんな。スプリットだけ取り出して、何センチ落ちるだの、どこから落ちるだの。それで投手が分かるなら、捕手なんかいらねえだろ」


 榊原は黙って、ペンを走らせた。


「球ってのはな、球だけで投げるもんじゃねえんだよ。その前に何投げた。カウントはいくつだ。打者は何を待ってる。走者はいるのか。次の打者は誰だ」


 伊丹は、指を折りもせずに並べた。


「同じスプリットでも、全部違う」

「広瀬さんも?」

「当たり前だ」


 伊丹は座り直した。


「あいつ、若い頃は、自分の球で何でもできると思ってたからな」


 伊丹の顔から、少しだけ険しさが消えた。


「速い球投げられる。落ちる球もある。だったら投げりゃ抑えられる、ってな」

「実際、抑えていたのでは」

「だから面倒なんだよ。失敗しかしねえ奴なら簡単なんだ。やめろって言えばいい」

「成功するから」

「そうだよ。落としたら振った。三振取った。じゃあ次も落とす。その次も落とす。打者も馬鹿じゃねえ。お前が覚えてることは、向こうも覚えてる」

「監督が、それを教えた?」

「教えたなんて、大層なもんじゃねえ」

「でも、昔の記事には――」

「俺が言ったこと全部聞いてたら、あんな投手になってねえよ」


 伊丹は、真顔だった。


「捕手の言うこと聞くだけの投手が、海の向こうまで行けるか。あいつは、自分で考えたんだ。自分の球をどう使うか。打者が何を見てるか。自分が何を見せたか」


 榊原の頭に、Kの二度目と三度目の登板が浮かんだ。

 同じ打者への攻め方が、変わっていった。


「Kも――」

「おい」


 遮られた。


「さっきの映像。出せ」


 榊原の手が止まる。


「先ほど、見なくても分かると」

「いいから出せ。早くしろ」


 榊原は、画面を開いた。


「どっちからだ」

「広瀬さんです」

「流せ」


 今度の伊丹は、画面から目を離さなかった。

 広瀬。


「次」


 K。


「戻せ」


 広瀬。


「止めろ。……そこじゃねえ。投げる前」


 戻す。


「行きすぎだ」


 進める。


「そこ」


 Kがボールを握り、捕手を見ている。

 まだ、投げていない。


「広瀬の方も。同じカウントのやつ、あるか」

「少し待ってください」

「早くしろ」


 榊原は、近い場面を探して開いた。

 広瀬が捕手を見る。

 サイン。

 スプリット。


「K」

「もう一回」


 広瀬。


 K。


 広瀬。


 K。


 見なくても分かると言った男が、四度見た。


「……似てる」

「やはり?」

「だから最初から、似てるって言ってんだろ」


 伊丹は、画面のKを指さした。


「ただ、こいつ、広瀬じゃねえぞ」

「それは、分かっています」

「そういう意味じゃねえ。広瀬の真似して投げてる奴じゃねえ、ってことだ」


 ペン先が止まった。


「なぜ、そう思います」

「全部同じじゃねえからだよ。フォームも違う。身体の使い方も違う。投げる球も違う」

「でも、スプリットは似ている」

「似てる」

「偶然ですか?」

「知らん」

「そこは、分からないんですね」

「分からねえことを、分かるって言う方がいいのか?」

「いえ」

「だったら書いとけ。分からんって」


 榊原は、本当に書いた。

 分からない。


「ただな」


 伊丹の指が、画面のKを軽く叩いた。


「こいつは、今の打者見て、今の野球やってる。なのに、一個だけ妙に古いもんが混じってる」

「古い?」

「言い方が悪いな。昔の球って意味じゃねえ。広瀬の癖みてえなもんだ。球の落ち方だけじゃねえんだよ」


 伊丹は、そこで黙った。

 榊原は待った。


「……説明しにくい」

「さっき、投げる前で止めさせましたね」


 榊原は、画面を指さした。


「あそこで、何を見ていたんですか」


 伊丹は、少し黙った。


「間だ」

「間?」

「サインが決まってから、足を上げるまでの間。広瀬は、そこで一回だけ、打者を見直した。決めた球でいいのか、最後にもう一回確かめる。若い頃に、首ばっかり振ってた奴がな」

「Kも?」

「……見てる、ように見えた」


 伊丹は、画面の紅い防具を見た。


「顔がねえから、分かんねえけどな」


 榊原は、それを書いた。

 投げる前の間。

 打者を、もう一度見る。


「捕手の勘、ですか」

「捕手なんて、そんなもんだ」


 榊原はノートに目を落とした。

 取材の前に書いた質問が、そこにある。

 ようやく、聞けるところまで来た。


「広瀬さんが引退した後、誰かに投球を教えていたという話を、ご存じありませんか」


 伊丹の目が、榊原に戻った。

 さっきのような怒りは、なかった。


「誰かって?」

「特定の人物がいるわけではありません」

「じゃあ、知らん」

「個人的に、若い投手を見ていたとか」

「聞いてねえな」

「引退後も、連絡は」

「たまにな。そういう話は、聞いた覚えがねえ」


 十八歳の広瀬を知り、葬儀にも出た伊丹が、知らない。


「では、指導していた可能性はない、と」

「そんなこと言ってねえだろ。俺が知らねえ、って言ってんだ」

「広瀬さんは、頼まれて誰かに野球を教えるような人でしたか」


 伊丹は少し考えた。


「嫌いじゃなかったと思うぞ。聞かれりゃ答える奴だった。偉そうに先生やるような奴じゃなかったけどな」

「では、個人的に誰かを教えていたとしても」

「俺にいちいち報告するかよ。俺は、あいつの親父じゃねえ」


 広瀬が誰かを教えていた証拠は、ない。

 教えていなかった証拠も、ない。

 榊原は、タブレットを閉じようとした。


「待て。Kの方」

「まだ見ますか」

「悪いか」


 別の試合のKのスプリットを流す。

 カウントも、打者も違う。

 伊丹は、榊原とは違うところを見ているようだった。


「監督。Kが、広瀬さんから教わった可能性があると思いますか」


 伊丹は、答えなかった。

 映像の中で、Kが捕手のサインに首を振り、次のサインにうなずいて、スプリットを投げる。

 空振り。


「分からん」

「でも、似ている」

「似てる」

「広瀬さん本人では、ない」

「死んでるからな」


 今度の声は、静かだった。


「では、なぜKが、広瀬さんの球を投げられるのか」


 伊丹は、画面を見ていた。

 しばらく、何も言わなかった。


「……俺が聞きてえよ」


 榊原は、その言葉を書かなかった。

 書く必要がなかった。


 二十一年前にその球を受け、その死を見送った男も、答えを持っていない。

 それでも。

 面影は。

 はっきりと残っていた。


 理由だけが、どこにもなかった。


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