第13話 死んだ投手
応接室のドアの向こうから、かすかに人の声が聞こえていた。
ついさっきまで、伊丹は伊丹だった。
短く、ぶっきらぼうで、聞かれたことには答える。
それが、一人の名前で変わった。
伊丹は、窓の方を見たままだった。
「ネット上では、Kの正体が広瀬さんだと言われています。ですが――」
「あいつは死んだんだよ」
伊丹が遮った。
低い声だった。
「葬式に行ったよ」
榊原は黙った。
「焼香もした。遺族にも会った。それで足りるか?」
声が、大きくなる。
「勝手に生き返らせるな!」
部屋に、声が残った。
伊丹の肩が、わずかに上下している。
怒っている。
Kのことで、ではない。
広瀬和巳のことで。
「……生きているとは、私も思っていません」
「何?」
「広瀬さんが亡くなったことを、疑っているわけではありません。Kが広瀬さん本人だとも、最初から思っていません」
伊丹は、ようやく榊原を見た。
「……じゃあ、何だ」
「スプリットです。Kのスプリットが、広瀬さんの球に似ている。監督がどう見るのか、聞きたかった」
「俺が?」
「二十一年前から、広瀬さんの球を知っている人です」
伊丹は、椅子の背にもたれた。
しばらく、黙っていた。
「……それを聞きに来たのか」
「はい」
榊原は、タブレットを取り出した。
「比較した映像があります」
伊丹は小さく息を吐いた。
拒みはしなかった。
現役時代の広瀬が投げる。
打者の手前で、球が落ちる。
空振り。
次に、K。
同じように、直球に近い軌道から落ちる。
空振り。
「もう一度、落ち始める位置を――」
「もういい」
榊原の指が止まった。
「こんなもん、見なくても分かる。毎日直に見てんだぞ、俺は」
その通りだった。
榊原が何日もかけて探し、繰り返し再生したKのスプリット。
伊丹はそれを、毎日数十メートル先で見ている。
広瀬の球に至っては、映像ですらない。
二十一年前、そのミットで受けていた。
「似ていますか」
「似てるよ」
あっさり、返ってきた。
「やはり」
「何が、やはりだ」
「どこが似ていますか」
「知らん」
ペンが止まった。
「……似ているんですよね」
「似てる」
「どこが?」
「だから、似てるんだよ」
榊原は伊丹を見た。
伊丹も、榊原を見た。
数秒、どちらも動かなかった。
「記事にするには、それでは困ります」
「知らねえよ、そんなもん」
「落ち方ですか」
「それだけじゃねえ」
「腕の振り?」
「それだけでもねえ」
「直球との軌道の差」
「お前な」
伊丹が、少し前へ出た。
「一個ずつ部品にすんな。スプリットだけ取り出して、何センチ落ちるだの、どこから落ちるだの。それで投手が分かるなら、捕手なんかいらねえだろ」
榊原は黙って、ペンを走らせた。
「球ってのはな、球だけで投げるもんじゃねえんだよ。その前に何投げた。カウントはいくつだ。打者は何を待ってる。走者はいるのか。次の打者は誰だ」
伊丹は、指を折りもせずに並べた。
「同じスプリットでも、全部違う」
「広瀬さんも?」
「当たり前だ」
伊丹は座り直した。
「あいつ、若い頃は、自分の球で何でもできると思ってたからな」
伊丹の顔から、少しだけ険しさが消えた。
「速い球投げられる。落ちる球もある。だったら投げりゃ抑えられる、ってな」
「実際、抑えていたのでは」
「だから面倒なんだよ。失敗しかしねえ奴なら簡単なんだ。やめろって言えばいい」
「成功するから」
「そうだよ。落としたら振った。三振取った。じゃあ次も落とす。その次も落とす。打者も馬鹿じゃねえ。お前が覚えてることは、向こうも覚えてる」
「監督が、それを教えた?」
「教えたなんて、大層なもんじゃねえ」
「でも、昔の記事には――」
「俺が言ったこと全部聞いてたら、あんな投手になってねえよ」
伊丹は、真顔だった。
「捕手の言うこと聞くだけの投手が、海の向こうまで行けるか。あいつは、自分で考えたんだ。自分の球をどう使うか。打者が何を見てるか。自分が何を見せたか」
榊原の頭に、Kの二度目と三度目の登板が浮かんだ。
同じ打者への攻め方が、変わっていった。
「Kも――」
「おい」
遮られた。
「さっきの映像。出せ」
榊原の手が止まる。
「先ほど、見なくても分かると」
「いいから出せ。早くしろ」
榊原は、画面を開いた。
「どっちからだ」
「広瀬さんです」
「流せ」
今度の伊丹は、画面から目を離さなかった。
広瀬。
「次」
K。
「戻せ」
広瀬。
「止めろ。……そこじゃねえ。投げる前」
戻す。
「行きすぎだ」
進める。
「そこ」
Kがボールを握り、捕手を見ている。
まだ、投げていない。
「広瀬の方も。同じカウントのやつ、あるか」
「少し待ってください」
「早くしろ」
榊原は、近い場面を探して開いた。
広瀬が捕手を見る。
サイン。
スプリット。
「K」
「もう一回」
広瀬。
K。
広瀬。
K。
見なくても分かると言った男が、四度見た。
「……似てる」
「やはり?」
「だから最初から、似てるって言ってんだろ」
伊丹は、画面のKを指さした。
「ただ、こいつ、広瀬じゃねえぞ」
「それは、分かっています」
「そういう意味じゃねえ。広瀬の真似して投げてる奴じゃねえ、ってことだ」
ペン先が止まった。
「なぜ、そう思います」
「全部同じじゃねえからだよ。フォームも違う。身体の使い方も違う。投げる球も違う」
「でも、スプリットは似ている」
「似てる」
「偶然ですか?」
「知らん」
「そこは、分からないんですね」
「分からねえことを、分かるって言う方がいいのか?」
「いえ」
「だったら書いとけ。分からんって」
榊原は、本当に書いた。
分からない。
「ただな」
伊丹の指が、画面のKを軽く叩いた。
「こいつは、今の打者見て、今の野球やってる。なのに、一個だけ妙に古いもんが混じってる」
「古い?」
「言い方が悪いな。昔の球って意味じゃねえ。広瀬の癖みてえなもんだ。球の落ち方だけじゃねえんだよ」
伊丹は、そこで黙った。
榊原は待った。
「……説明しにくい」
「さっき、投げる前で止めさせましたね」
榊原は、画面を指さした。
「あそこで、何を見ていたんですか」
伊丹は、少し黙った。
「間だ」
「間?」
「サインが決まってから、足を上げるまでの間。広瀬は、そこで一回だけ、打者を見直した。決めた球でいいのか、最後にもう一回確かめる。若い頃に、首ばっかり振ってた奴がな」
「Kも?」
「……見てる、ように見えた」
伊丹は、画面の紅い防具を見た。
「顔がねえから、分かんねえけどな」
榊原は、それを書いた。
投げる前の間。
打者を、もう一度見る。
「捕手の勘、ですか」
「捕手なんて、そんなもんだ」
榊原はノートに目を落とした。
取材の前に書いた質問が、そこにある。
ようやく、聞けるところまで来た。
「広瀬さんが引退した後、誰かに投球を教えていたという話を、ご存じありませんか」
伊丹の目が、榊原に戻った。
さっきのような怒りは、なかった。
「誰かって?」
「特定の人物がいるわけではありません」
「じゃあ、知らん」
「個人的に、若い投手を見ていたとか」
「聞いてねえな」
「引退後も、連絡は」
「たまにな。そういう話は、聞いた覚えがねえ」
十八歳の広瀬を知り、葬儀にも出た伊丹が、知らない。
「では、指導していた可能性はない、と」
「そんなこと言ってねえだろ。俺が知らねえ、って言ってんだ」
「広瀬さんは、頼まれて誰かに野球を教えるような人でしたか」
伊丹は少し考えた。
「嫌いじゃなかったと思うぞ。聞かれりゃ答える奴だった。偉そうに先生やるような奴じゃなかったけどな」
「では、個人的に誰かを教えていたとしても」
「俺にいちいち報告するかよ。俺は、あいつの親父じゃねえ」
広瀬が誰かを教えていた証拠は、ない。
教えていなかった証拠も、ない。
榊原は、タブレットを閉じようとした。
「待て。Kの方」
「まだ見ますか」
「悪いか」
別の試合のKのスプリットを流す。
カウントも、打者も違う。
伊丹は、榊原とは違うところを見ているようだった。
「監督。Kが、広瀬さんから教わった可能性があると思いますか」
伊丹は、答えなかった。
映像の中で、Kが捕手のサインに首を振り、次のサインにうなずいて、スプリットを投げる。
空振り。
「分からん」
「でも、似ている」
「似てる」
「広瀬さん本人では、ない」
「死んでるからな」
今度の声は、静かだった。
「では、なぜKが、広瀬さんの球を投げられるのか」
伊丹は、画面を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
「……俺が聞きてえよ」
榊原は、その言葉を書かなかった。
書く必要がなかった。
二十一年前にその球を受け、その死を見送った男も、答えを持っていない。
それでも。
面影は。
はっきりと残っていた。
理由だけが、どこにもなかった。




