第14話 左打席
カァン、と乾いた音がした。
室内練習場の前で、大島忠宗は足を止めた。
全体練習は、もう終わっている。
もう一度、同じ音。
防球ネットが揺れた。
覗き込んで、大島はそこで固まった。
左打席に、Kが立っていた。
「……何やってんだ、あいつ」
いつもの紅い防具のまま、バットを握っている。
マシンから球が出る。
Kが振る。
詰まって、三塁側へ転がった。
次は振らない。
外れた球が、後ろのネットに収まる。
次はファウル。
その次は、右中間へ鋭い打球。
投手が気分転換にバットを振ること自体は、珍しくない。
「……投手の遊び方じゃねえな」
足の置き方。
構え。
球を待つ間。
何より、一球ごとに、同じ振り方をしていなかった。
「おい。お前、打てんの?」
Kが振り返って、大島を見た。
「……そうだよな。聞いた俺が悪かった」
Kは、また前を向いた。
「いや待て。今のはどういう意味だ。打てるってことでいいのか?」
Kが構える。
「無視すんなよ」
強いゴロが、二遊間を抜けていった。
「……へえ」
大島の口元が、少し緩んだ。
「大島さん」
後ろから声がした。
抑えの柴崎が、通路を歩いてくる。
「ちょうどいいところに来たな」
「嫌な予感しかしないんすけど」
大島は、Kを指さした。
「あいつ、お前くらいだったら軽く打てるって言ってたぜ」
「え?」
柴崎がKを見て、大島を見た。
「喋ったんすか!?」
「喋った喋った。あと、あいつの正体、カイル・ミラーらしいぜ」
「メジャーの!?」
柴崎は声を上げてから、眉をひそめた。
「……いや、あいつピッチャーっすよ」
「本人に聞いてみろよ」
「あいつ喋らんっすもん」
「さっきは喋ったぞ」
「どっちなんすか!」
大島が、Kを呼んだ。
「おい! K。柴崎なら打てる?」
Kは動かない。
「ほら。打てるってよ」
「一言も言ってないでしょ!」
柴崎は、黙って立っている紅い防具を、しばらく見ていた。
「じゃあ、投げてみろよ」
「シーズン中っすよ」
「怖い? 投手に打たれるの」
「俺が投手に打たれるわけないでしょ」
柴崎は、呆れた顔でKを見た。
Kは、まだバットを持っている。
首を横に振りは、しなかった。
「……三球だけっすよ。本気じゃ投げませんよ。大島さんが言い出したんですからね」
「分かった分かった」
「絶対分かってないっしょ」
マシンが止められ、柴崎が肩を回しながらマウンドへ向かった。
大島は、Kの立ち方が少し変わったことに気づいた。
さっきまで気ままに打っていた男が、マウンドの柴崎を見ている。
「お前も、やる気じゃん」
Kは何も答えず、左打席に入った。
*
一球目。
Kが振る。
ファウル。
「今のは当てただけっすよ」
二球目も、ファウル。
大島の顔から、笑いが消えた。
三球目は、外へ外れた。
Kは振らない。
「ボール。はい、終わり」
「今のボールでしょう。打席としてやってるんすよ」
「いつから打席になったんだよ」
Kは一度だけバットの先を見て、また構えた。
柴崎が投げる。
さっきより、速い。
差し込まれて、ファウル。
外を見送る。
低めも振らない。
「おい。速くなってねえか?」
「なってません」
「顔が抑えの顔になってるぞ」
「いつもこの顔っす」
柴崎が投げる。
Kのバットが出る。
かすって、後ろのネットへ。
Kは打席を外し、左手を一度開いて閉じた。
また入る。
大島にも、分かった。
Kは、ただ振っているのではない。
一球ごとに、何かを変えている。
始動。
タイミング。
バットを出す位置。
「柴崎、これ以上はやめとけ」
「あとちょっとだけ、投げます」
室内練習場から、さっきまでの軽い空気が消えていた。
ファウル。
ボール。
四回目のボールだった。
それでも、柴崎は終わらせなかった。
Kも、構えを解かない。
いつの間にか、勝負はカウントを捨てて続いていた。
またファウル。
「チッ、しつけえ」
柴崎が息を吐き、ボールを握り直した。
投げた。
今までで、一番速かった。
Kのバットが出た。
カァン、と音が変わった。
打球が一直線に伸びて、奥のネットが大きく跳ねた。
大島も柴崎も、振り返ったまま動かなかった。
屋外なら、どこまで飛んだのか。
ここでは分からない。
「今の――」
「お前ら!」
入口に、伊丹登が立っていた。
「何やってんだ! 柴崎! お前は抑えだろうが!」
伊丹は、次にKを指さした。
「89! お前は先発だ! 先発と抑えが揃って何遊んでんだ!」
「いや監督、これには――」
「大島! お前が一番悪い!」
「まだ言い訳してませんけど」
「聞かなくても分かる!」
伊丹の声が、室内に響いた。
「柴崎が肩やったら、誰が九回投げる! 89が手首でも痛めたら、誰が先発すんだ! で、お前は何でその二人を戦わせてんだ!」
「……そこは、まあ……」
「まあじゃねえ! 今は一人欠けるだけで響く時期なんだよ! 今日はもう終わりだ! 戻れ!」
Kは、素直にバットを置いた。
三人は、黙って室内練習場を出た。
柴崎だけが、一度振り返った。
奥のネットは、もう揺れていなかった。
*
「柴崎さん、Kに打たれたんですか?」
ロッカーに戻るなり、竹田が聞いた。
「打たれてない」
「でも大島さんが、ネットの奥まで飛んだって」
「室内だぞ。どんな打球かなんて分かんねーだろ」
「場外だったかもなあ」
大島が笑った。
「何の話だ」
眼鏡をかけた男が、ロッカーに入ってきた。
一軍打撃コーチの相沢征司だった。
四十八歳。
現役時代は、左打者として外野と一塁を守った。
長打力で名を売った選手ではない。
打撃技術と相手への対応で、長くプロを生きた男だった。
若いころ、一年だけ、まるで打てなくなったことがある。
「相沢さん。K、打てるらしいです。柴崎さんから、すごいの打ったって」
「投げたのか?」
相沢が柴崎を見た。
「……ちょっとだけです。もう、監督に死ぬほど怒られました」
「なら、俺から言うことはないな」
相沢は、グラブの手入れをしているKを見た。
「K。打つのも、好きなのか?」
少し間があって、Kが小さくうなずいた。
「そうか」
相沢は、それだけ言った。
打球を見たわけではない。
室内で一度いい当たりをしたというだけで、打撃コーチが口を挟む話ではなかった。
「大島さん、Kが喋ったって言いましたよね」
柴崎が口を挟んだ。
「Kが喋るわけねーだろ」
「なら、俺なら打てるって言ってないんすか」
「言うわけないじゃん、喋んないんだから。そんでこいつムキになってさぁ」
「なってないっすよ!」
「おかげで俺まで巻き添え食って、監督に怒られてさぁ」
ロッカーは、しばらく賑やかだった。
竹田は、Kを見た。
「じゃあ、打つの得意?」
Kは、何も答えなかった。
*
数日後の、北海道ホワイトベアーズ戦は、簡単には終わらなかった。
同点のまま、九回。
十回。
十一回。
フェニックスは、勝ちにいっていた。
代打を送り、代走を出し、守備を入れ替えた。
勝ち越せると思った場面では、ベンチに残した野手も惜しまず使った。
それでも、一本が出ない。
十二回表を無失点でしのいで、負けはなくなった。
裏に一点取れば勝ち。
取れなければ、引き分け。
二死、走者なし。
打席には、途中から出ていた水野。
一ボール二ストライクから低めの変化球をファウルにした直後、水野が顔をしかめた。
右の太腿の裏を押さえている。
トレーナーが飛び出し、伊丹を見て、小さく首を振った。
「無理か」
「走らせられません」
「行けます」
「行けねえよ。悪化させてまで立たせられるか。下がれ」
伊丹は、ベンチを振り返った。
「代打――」
そこで止まった。
残っているのは、投手ばかりだった。
「……野手は」
「使い切ってます」
伊丹は舌打ちした。
使ったのは、自分だ。
勝つために、切れるカードを切ってきた。
「投手で一番マシなの、誰だ」
「監督。Kはどうでしょう」
大島が言った。
「何を根拠に言ってんだ」
「柴崎の球、打ちましたよ」
「遊びで投げた球じゃねえか」
大島は、それ以上言えなかった。
柴崎が何かを言いかけて、黙った。
伊丹は、ベンチの奥に座るKを見た。
三勝している先発投手だ。
だからこそ、余計なことはさせたくない。
アウトになれば、引き分け。
今日は、それでいい。
先発投手に手首や脇腹を痛めさせるよりは、ずっといい。
「K」
Kが立った。
「行け。ただし、振るな」
Kが止まった。
「立ってろ。十二回二死だ。今日はもう十分だ。お前は投手だ」
Kは何も言わなかった。
「分かったな」
一拍おいて、Kがうなずいた。
*
代打が告げられると、球場のざわめきが一気に大きくなった。
背番号89が、バットを持ってベンチを出てくる。
投手としてしか見たことのない男が、打席に向かっていた。
「柴崎。お前、本気だっただろ」
アイシングをしている柴崎に、大島が小声で言った。
柴崎は一拍置いて、答えた。
「……はい」
Kが、左打席に入った。
球審がKの頭部を一度見て、手元の紙を確かめ、うなずいた。
「左か」
相沢が、小さくつぶやいた。
相手の捕手も、一度ベンチを見た。
打者としての資料は、何もない。
一ボール二ストライク。
あと一つストライクを取れば、試合が終わる。
マウンドの宮原が、セットに入る。
外へ外れた。
Kは振らない。
二ボール二ストライク。
伊丹は、腕を組んだまま見ていた。
それでいい。
振るな。
次は、低め。
Kは見送った。
ボール。
フルカウント。
スタンドのざわめきが変わった。
四球なら、サヨナラの走者を出すことになる。
相手の捕手が、マウンドへ短く合図を送った。
宮原がセットに入る。
足が上がる。
腕が振られた。
内寄りの直球。
ストライクゾーンを通る。
Kの前足が、着いた。
腰が回る。
バットが出た。
カァン、と音がした。
音だけは、練習場と同じだった。
大島の目が見開かれた。
柴崎が立ち上がった。
打球は、右翼方向へ高く上がった。
右翼手が下がる。
まだ下がる。
フェンス際で振り返る。
打球は、その頭上を越えた。
一瞬、球場が止まったように見えた。
次の瞬間、爆発した。
「入った!」
「マジかよ!」
ベンチから、一斉に選手が飛び出した。
Kは、走っていた。
ガッツポーズはない。
一塁を回る。
二塁。
三塁。
伊丹は、ベンチの前に立ったままだった。
組んでいた腕を、ほどくのを忘れていた。
Kがホームを踏んだ。
仲間たちが、一斉にKを囲む。
もみくちゃになった中心で、紅い頭部だけが見え隠れしていた。
相沢征司は、その騒ぎを少し離れたところから見ていた。
右翼席でも、ホームを見ていたわけでもなかった。
頭の中で、今の一振りをもう一度なぞっていた。
途中から入った、一ボール二ストライク。
二球を見送り、フルカウント。
そして、初めて振った一球。
相沢は、眼鏡の位置を直した。
たった一打席。
たった一振りだった。
それだけで判断するほど、相沢は打撃を簡単なものだと思っていない。
ただ、見る理由は、できた。




