第15話 翌日
東条グループ本社、会長執務室。
モニターの中で、Kがホームを踏んだ。
歓声の中、フェニックスの選手たちが背番号89を囲んでいく。
東条一成は、その光景を黙って見ていた。
机の上のリモコンを取る。
モニターが消えた。
*
翌日の午後。
「座れ」
監督室で、伊丹が言った。
Kは椅子を引き、腰を下ろした。
伊丹は腕を組んだまま、紅い防具を見た。
「昨日のことだ。俺は何て言った」
沈黙。
「聞こえてなかったか?」
Kが首を横に振った。
「じゃあ、言ってみろ」
Kは黙ったままだった。
伊丹の眉間の皺が、深くなった。
「……そうだった。お前、喋らねえんだったな」
机を、指で二度叩く。
「振るなって言ったよな」
Kがうなずいた。
「じゃあ、なんで振った」
Kは動かなかった。
「打ったかどうかの話をしてんじゃねえ。ホームランだったから正解、三振だったら不正解。そんな話じゃねえんだ」
伊丹の声が低くなった。
「俺はお前を、投手として預かってる。怪我させねえために、振るなと言った」
伊丹は、少し待った。
「最初の二球は、見たな」
Kがうなずく。
「フルカウントになった。次がストライクなら、見逃しゃ終わりだ」
うなずく。
「……勝ちたかったからか」
少し間があって、Kがうなずいた。
伊丹は、大きく息を吐いた。
「俺だって、勝ちたかったんだよ」
Kが、わずかに顔を上げた。
「竹田も、大島も、真壁も、ベンチにいた全員そうだ。客だってそうだ。それでも振るなと言ったのは、お前を怪我させるわけにいかなかったからだ。シーズンは、まだ続くんだよ」
Kは、黙って聞いていた。
「お前がどう考えたかは、分かった。だが、命令無視はこれっきりにしろ」
Kがうなずいた。
「分かったな」
もう一度、うなずく。
伊丹は、しばらくKを睨んでいた。
やがて、椅子の背にもたれた。
「……ったく。それと、相沢がお前を見たいそうだ」
*
打撃コーチの相沢征司は、本塁打の話をしなかった。
室内練習場へ来たKにバットを渡し、まずティー台の前に立たせた。
「適当に、十本」
相沢は、打球の行方をほとんど見なかった。
足。
腰。
肩。
バットの入り方。
打った後の体勢。
「もう十本」
ティーの位置を変える。
Kは何も聞かずに打つ。
また変える。
打つ。
「昨日あんなの打ったんだから、もっとこう、柵越え何本かとか」
少し離れたところで、大島が言った。
「お前は自分の仕事してろ」
相沢は振り返りもせず、トスに切り替えた。
外。
内。
高め。
低め。
速さも、少しずつ変える。
最初の数球で、Kはタイミングを合わせた。
相沢が変える。
Kも変わる。
また変える。
また合わせる。
「止めよう」
そこへ、伊丹が入ってきた。
「どうだ」
「まだ分かりません」
「昨日、スタンドまで飛ばしただろ」
「一打席です。一打席で打者が分かるなら、打撃コーチなんか要りません」
「じゃあ、何が分かった」
相沢は少し考えた。
「初めてじゃないですね。打つことが」
「そりゃそうだろ。プロまで来て、バット振ったことねえ奴がいるか」
「そういう意味じゃありません」
相沢は、ティー台を元の位置へ戻した。
「ちゃんと、習ってます」
伊丹の目が、Kへ向いた。
「使えるのか」
「まだ分かりません」
「慎重だな」
「昨日は、一度も打席を見ないで送り出してますからね。慎重にやらないと」
「送り出したんじゃねえ。打たせる気はなかった」
「でしょうね」
相沢は、わずかに笑った。
「一発打ったから言ってるんじゃありません。一発打ったから、見始めたんです」
*
そのころ、Kは再び正体不明になっていた。
ネットを埋めたのは、サヨナラ本塁打の映像だった。
背番号89の紅い覆面投手が、左打席から右翼席へ運ぶ。
広瀬和巳の名前も、当然のように出てきた。
だが、流れは変わっていた。
〈広瀬説もう無理だろ〉
〈死んだ元投手が生き返って代打ホームラン打つのか〉
〈じゃあ元野手?〉
〈元野手が160投げてあのスプリット投げるの?〉
〈結局誰なんだよ〉
かわりに、別の言葉が増えていた。
二刀流。
公式戦で、一本打っただけだった。
守備に就いたわけでもない。
シーズンを通して、打席に立ったわけでもない。
それでも、百六十キロを投げる投手が、左打席からサヨナラ本塁打を打った。
騒ぐには、十分だった。
球団からは、何も出なかった。
*
「他所は?」
「似たようなもんです。新しいのはありません」
榊原遼介の答えに、デスクは「そうか」とだけ言った。
以前なら、もう一言あった。
早くしろ。
抜かれるぞ。
「急がせないんですか」
「どこも分かってねえんだろ。半日早く間違えてどうすんだ」
榊原は、少しだけ笑った。
「三日遅れてもいいから、正確なのを書けってことだよ」
デスクは紙をめくりながら、つぶやいた。
「しかし、東条も変なことするな。宣伝なら、昨日なんか最高だったろ。何か一個出しゃ、またしばらく引っ張れるのにな」
榊原の指が、止まった。
最初は、そう考えていた。
覆面。
Kの一文字。
五行のプロフィール。
情報を少しずつ出して、飽きられそうになれば次を出す。
そういう売り方ではないか、と。
だが、出ない。
投手が代打でサヨナラ本塁打を打った夜。
これ以上ない材料があっても、何一つ出なかった。
小出しにしているのでは、ないのかもしれない。
伊丹への取材は、数日前に記事になっていた。
終盤戦の先発運用と、Kのローテーションでの扱い。
広瀬の名前は、一行も入れなかった。
伊丹が「似てる」と言ったことも。
書けば、読まれる。
それは分かっていた。
「まだ広瀬やってんのか」
デスクが、机の端の資料の山を見ていた。
「……ええ」
「ホームラン打ったのに?」
「だから、困ってるんですよ」
デスクは自分の席へ戻りかけて、二、三歩で止まった。
「まあ、打ったからって、投げてる球が消えたわけじゃないしな」
振り返りもせずに、歩いていった。
榊原は、しばらく動かなかった。
広瀬をKの正体から外しても、広瀬の球はKの中から消えてくれない。
そこへ今度は、左打席からの一発が加わった。
材料は、広瀬を調べ始めたころより増えている。
それなのに、答えからは遠ざかっていた。
初登板の夜にメモに打った言葉を、榊原は思い出した。
「……何者なんだ」
画面の中のKは、何も答えなかった。
*
相沢の確認が終わった後、伊丹は監督室から久世に電話をかけた。
「89のことだ。昨日、打席に立たせた。今日、相沢にも見せた」
『拝見しました』
「あいつを俺が打者として使っても、本当に問題ないんだな」
『K選手の起用は、現場に一任すると伺っています』
「投手として、じゃなく?」
『そのような限定は、聞いていません』
「あとになって上から、余計なことをさせるなと言われるのは御免だぞ」
『私が承っている範囲では、その心配はありません』
「そうか」
伊丹は、机の上に指を置いた。
「あと、あの被り物だ。打席であれ被ってていいのか」
『承認は、試合中の着用全般が対象です』
「全般?」
『申請の段階で、リーグ側から条件が付きました。投手でも、打者や走者になる可能性はゼロではない。だから、打撃用ヘルメットの基準も満たすこと、と』
「……向こうの方が、よっぽど考えてんな」
『当時は、私も形式上の条件だと思っていました』
伊丹は、電話を切らなかった。
「あんた。あいつが打てるって、知ってたか」
返事は、早かった。
『いいえ』
「会長は?」
今度は、少し間があった。
『分かりません。必要でしたら、こちらから確認を――』
「いらん。現場に任せるって言ったんだろ。こっちで決める。責任持てよ」
『承知しました。監督、ほかに何か』
伊丹は、窓の外を見た。
「……いや。ない」
電話を切った。
伊丹は、しばらく受話器を見ていた。
広瀬の名前は、最後まで口にしなかった。
投手として送り込まれてきた男が打てることを、GMすら知らなかった。
では、誰が知っていたのか。
伊丹は、考えるのをやめた。
使えるか、使えないか。
そこから先が、現場の仕事だった。
*
伊丹がグラウンドへ戻ると、相沢がまだKにトスを上げていた。
「もう少し、見たいですね」
「好きにしろ。投げる方に影響は出すな。打撃練習増やして肩だの腰だの痛めました、じゃ話にならねえ」
「分かってます」
Kは言われた通りに、淡々とバットを振っていた。
世間で二刀流と呼ばれ始めていることなど、知らないのかもしれなかった。
「K。今日は、ここまででいい」
相沢の声に、Kが一度うなずいた。
バットをラックへ戻す。
グラブを手に取る。
Kは、竹田の待つブルペンへ向かった。




