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K ―背番号89―  作者: K2MA


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15/34

第15話 翌日

 東条グループ本社、会長執務室。


 モニターの中で、Kがホームを踏んだ。

 歓声の中、フェニックスの選手たちが背番号89を囲んでいく。

 東条一成(とうじょうかずなり)は、その光景を黙って見ていた。

 机の上のリモコンを取る。

 モニターが消えた。


    *


 翌日の午後。


「座れ」


 監督室で、伊丹が言った。

 Kは椅子を引き、腰を下ろした。

 伊丹は腕を組んだまま、紅い防具を見た。


「昨日のことだ。俺は何て言った」


 沈黙。


「聞こえてなかったか?」


 Kが首を横に振った。


「じゃあ、言ってみろ」


 Kは黙ったままだった。

 伊丹の眉間の皺が、深くなった。


「……そうだった。お前、喋らねえんだったな」


 机を、指で二度叩く。


「振るなって言ったよな」


 Kがうなずいた。


「じゃあ、なんで振った」


 Kは動かなかった。


「打ったかどうかの話をしてんじゃねえ。ホームランだったから正解、三振だったら不正解。そんな話じゃねえんだ」


 伊丹の声が低くなった。


「俺はお前を、投手として預かってる。怪我させねえために、振るなと言った」


 伊丹は、少し待った。


「最初の二球は、見たな」


 Kがうなずく。


「フルカウントになった。次がストライクなら、見逃しゃ終わりだ」


 うなずく。


「……勝ちたかったからか」


 少し間があって、Kがうなずいた。

 伊丹は、大きく息を吐いた。


「俺だって、勝ちたかったんだよ」


 Kが、わずかに顔を上げた。


「竹田も、大島も、真壁も、ベンチにいた全員そうだ。客だってそうだ。それでも振るなと言ったのは、お前を怪我させるわけにいかなかったからだ。シーズンは、まだ続くんだよ」


 Kは、黙って聞いていた。


「お前がどう考えたかは、分かった。だが、命令無視はこれっきりにしろ」


 Kがうなずいた。


「分かったな」


 もう一度、うなずく。

 伊丹は、しばらくKを睨んでいた。

 やがて、椅子の背にもたれた。


「……ったく。それと、相沢がお前を見たいそうだ」


    *


 打撃コーチの相沢征司は、本塁打の話をしなかった。

 室内練習場へ来たKにバットを渡し、まずティー台の前に立たせた。


「適当に、十本」


 相沢は、打球の行方をほとんど見なかった。

 足。

 腰。

 肩。

 バットの入り方。

 打った後の体勢。


「もう十本」


 ティーの位置を変える。

 Kは何も聞かずに打つ。

 また変える。

 打つ。


「昨日あんなの打ったんだから、もっとこう、柵越え何本かとか」


 少し離れたところで、大島が言った。


「お前は自分の仕事してろ」


 相沢は振り返りもせず、トスに切り替えた。

 外。

 内。

 高め。

 低め。

 速さも、少しずつ変える。

 最初の数球で、Kはタイミングを合わせた。

 相沢が変える。

 Kも変わる。

 また変える。

 また合わせる。


「止めよう」


 そこへ、伊丹が入ってきた。


「どうだ」

「まだ分かりません」

「昨日、スタンドまで飛ばしただろ」

「一打席です。一打席で打者が分かるなら、打撃コーチなんか要りません」

「じゃあ、何が分かった」


 相沢は少し考えた。


「初めてじゃないですね。打つことが」

「そりゃそうだろ。プロまで来て、バット振ったことねえ奴がいるか」

「そういう意味じゃありません」


 相沢は、ティー台を元の位置へ戻した。


「ちゃんと、習ってます」


 伊丹の目が、Kへ向いた。


「使えるのか」

「まだ分かりません」

「慎重だな」

「昨日は、一度も打席を見ないで送り出してますからね。慎重にやらないと」

「送り出したんじゃねえ。打たせる気はなかった」

「でしょうね」


 相沢は、わずかに笑った。


「一発打ったから言ってるんじゃありません。一発打ったから、見始めたんです」


    *


 そのころ、Kは再び正体不明になっていた。

 ネットを埋めたのは、サヨナラ本塁打の映像だった。

 背番号89の紅い覆面投手が、左打席から右翼席へ運ぶ。

 広瀬和巳の名前も、当然のように出てきた。

 だが、流れは変わっていた。


〈広瀬説もう無理だろ〉

〈死んだ元投手が生き返って代打ホームラン打つのか〉

〈じゃあ元野手?〉

〈元野手が160投げてあのスプリット投げるの?〉

〈結局誰なんだよ〉


 かわりに、別の言葉が増えていた。

 二刀流。

 公式戦で、一本打っただけだった。

 守備に就いたわけでもない。


 シーズンを通して、打席に立ったわけでもない。

 それでも、百六十キロを投げる投手が、左打席からサヨナラ本塁打を打った。

 騒ぐには、十分だった。

 球団からは、何も出なかった。


    *


「他所は?」

「似たようなもんです。新しいのはありません」


 榊原遼介の答えに、デスクは「そうか」とだけ言った。

 以前なら、もう一言あった。

 早くしろ。

 抜かれるぞ。


「急がせないんですか」

「どこも分かってねえんだろ。半日早く間違えてどうすんだ」


 榊原は、少しだけ笑った。


「三日遅れてもいいから、正確なのを書けってことだよ」


 デスクは紙をめくりながら、つぶやいた。


「しかし、東条も変なことするな。宣伝なら、昨日なんか最高だったろ。何か一個出しゃ、またしばらく引っ張れるのにな」


 榊原の指が、止まった。

 最初は、そう考えていた。


 覆面。

 Kの一文字。

 五行のプロフィール。


 情報を少しずつ出して、飽きられそうになれば次を出す。

 そういう売り方ではないか、と。

 だが、出ない。

 投手が代打でサヨナラ本塁打を打った夜。

 これ以上ない材料があっても、何一つ出なかった。

 小出しにしているのでは、ないのかもしれない。


 伊丹への取材は、数日前に記事になっていた。

 終盤戦の先発運用と、Kのローテーションでの扱い。

 広瀬の名前は、一行も入れなかった。

 伊丹が「似てる」と言ったことも。

 書けば、読まれる。

 それは分かっていた。


「まだ広瀬やってんのか」


 デスクが、机の端の資料の山を見ていた。


「……ええ」

「ホームラン打ったのに?」

「だから、困ってるんですよ」


 デスクは自分の席へ戻りかけて、二、三歩で止まった。


「まあ、打ったからって、投げてる球が消えたわけじゃないしな」


 振り返りもせずに、歩いていった。

 榊原は、しばらく動かなかった。

 広瀬をKの正体から外しても、広瀬の球はKの中から消えてくれない。

 そこへ今度は、左打席からの一発が加わった。

 材料は、広瀬を調べ始めたころより増えている。

 それなのに、答えからは遠ざかっていた。

 初登板の夜にメモに打った言葉を、榊原は思い出した。


「……何者なんだ」


 画面の中のKは、何も答えなかった。


    *


 相沢の確認が終わった後、伊丹は監督室から久世に電話をかけた。


「89のことだ。昨日、打席に立たせた。今日、相沢にも見せた」

『拝見しました』

「あいつを俺が打者として使っても、本当に問題ないんだな」

『K選手の起用は、現場に一任すると伺っています』

「投手として、じゃなく?」

『そのような限定は、聞いていません』

「あとになって上から、余計なことをさせるなと言われるのは御免だぞ」

『私が承っている範囲では、その心配はありません』

「そうか」


 伊丹は、机の上に指を置いた。


「あと、あの被り物だ。打席であれ被ってていいのか」

『承認は、試合中の着用全般が対象です』

「全般?」

『申請の段階で、リーグ側から条件が付きました。投手でも、打者や走者になる可能性はゼロではない。だから、打撃用ヘルメットの基準も満たすこと、と』

「……向こうの方が、よっぽど考えてんな」

『当時は、私も形式上の条件だと思っていました』


 伊丹は、電話を切らなかった。


「あんた。あいつが打てるって、知ってたか」


 返事は、早かった。


『いいえ』

「会長は?」


 今度は、少し間があった。


『分かりません。必要でしたら、こちらから確認を――』

「いらん。現場に任せるって言ったんだろ。こっちで決める。責任持てよ」

『承知しました。監督、ほかに何か』


 伊丹は、窓の外を見た。


「……いや。ない」


 電話を切った。

 伊丹は、しばらく受話器を見ていた。

 広瀬の名前は、最後まで口にしなかった。

 投手として送り込まれてきた男が打てることを、GMすら知らなかった。

 では、誰が知っていたのか。

 伊丹は、考えるのをやめた。

 使えるか、使えないか。

 そこから先が、現場の仕事だった。


    *


 伊丹がグラウンドへ戻ると、相沢がまだKにトスを上げていた。


「もう少し、見たいですね」

「好きにしろ。投げる方に影響は出すな。打撃練習増やして肩だの腰だの痛めました、じゃ話にならねえ」

「分かってます」


 Kは言われた通りに、淡々とバットを振っていた。

 世間で二刀流と呼ばれ始めていることなど、知らないのかもしれなかった。


「K。今日は、ここまででいい」


 相沢の声に、Kが一度うなずいた。

 バットをラックへ戻す。

 グラブを手に取る。


 Kは、竹田の待つブルペンへ向かった。


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