第16話 横へ
サヨナラ本塁打から、二週間ほどが過ぎていた。
Kは、先発ローテーションから外れていなかった。
登板のない日には、ブルペンに入る。
その前後に、相沢征司が打撃を見る。
ティー。トス。時々、打撃投手の球。
室内練習場に、ボールがネットを叩く音が続いていた。
相沢が投げる。
Kがセンター方向へ返す。
次は、右中間。
三球目は、引っ張った。
少し離れたところで、投手コーチの真壁が腕を組んでいた。
「どうなんだ」
「もう少し見たいですね」
「それ、二週間前も聞いたぞ」
「二週間しか見てませんから」
真壁が鼻で笑った。
Kが構える。
左打席で、前足が少し開く。
相沢が投げる動作に入ると、その足がわずかに内へ戻った。
相沢は一度だけ目を細めた。
「……そういえば、変わった入り方だな」
最後の打球が、ネットを鳴らした。
「今日は、これで」
Kがうなずいた。
*
大阪バイソンズのミーティングルームで、映像が止まった。
二ストライクから、Kが高めの直球を投げる。
打者がファウルにする。
次の打席では、低めのスプリットを空振り。
「前は、低いのを振るなって話をした。今日は、追い込まれてからだ」
打撃コーチが、画面を上から下へなぞった。
「決め球は、上の直球と、下のスプリット。横もあるが、追い込んでから決め球に使ったことは、ほとんどない」
「どっち待つんです?」
神崎が聞いた。
「決めるな。上はファウルでいい。下はバットを止めろ。球数を使わせるんだ」
「あのキレの上下でやるのは、簡単じゃないですよ」
「そうだな。だが、数を投げさせれば、早く引っ込む」
画面の中央に、背番号89が止まっていた。
*
一回表、先頭の坂口。
一五二キロの直球で、ストライク。
外れた直球は見送られる。
三球目の直球をファウル。
一ボール二ストライク。
竹田が低く構える。
スプリット。
坂口の前足は着いたが、バットは出ない。
「ボール!」
次の高めはファウル。
もう一度低めへ落とすと、バットを止めた。
フルカウントからの直球が、外れる。
「フォア!」
七球。
悪い球ばかりではなかった。
それでも、アウトになっていない。
二番の沢井に、直球を一、二塁間へ運ばれる。
三番の藤崎は、二球で追い込んでから、ファウル、ボール、ファウル。
七球目で、ようやく遊ゴロ。
二塁だけがアウト。
一死一、三塁。
竹田がマウンドへ出た。
「球は来てる。向こう、最初から長くする気だ。追い込んでも、簡単に終わらねえぞ」
四番の神崎も、二球で追い込んだ。
高めをファウル。
低めは止める。
外角もファウル。
もう一度、低めを見送る。
七球目の直球を、センターへ上げた。
坂口が還る。
0対1。
長谷部を二ゴロに取って、一回を終えた。
「二十六」
ベンチで、真壁が数字を読んだ。
「追い込んでからが、長い」
竹田がマスクを外した。
バイソンズのベンチでは、コーチが神崎に、指を七本立ててみせていた。
*
二回も、同じだった。
村井は五球目のスプリットで三振。
高瀬には粘られて、左前へ。
瀬戸を右飛、稲葉を見逃し三振。
無失点でも、十八球を使った。
三回は、坂口の二塁打と、藤崎の犠牲フライで0対2。
三回まで、六十三球。
球速は、落ちていない。
スプリットも、変わっていない。
それでも、二ストライクから打者が残った。
*
四回表。
六番の村井に、二球で追い込んでから四球粘られ、七球目を三遊間へ運ばれた。
竹田はマウンドへ行った。
「追い込んだら、上か下」
Kが竹田を見る。
「こっちがそう考えてるのを、向こうも分かってる」
七番の高瀬に、右中間への二塁打。
瀬戸を浅い左飛に取ったが、稲葉の中前打で村井が還った。
0対3。
一死一、三塁で、坂口。
初球の直球でストライク。
二球目のスイーパーをファウル。
竹田が低く構えた。
Kは首を振らず、グラブの先を小さく外へ向けた。
竹田が外へ構え直す。
三球目。
坂口の打球は、二塁の正面。
大島から日下部、一塁へ。
併殺。
四回、十九球。累計八十二球。三失点。
「次の回、球数次第だぞ」
真壁が言った。
竹田はKの隣に座った。
「追い込むまでは、いけてんだよ」
少し間を置く。
「終わらねえだけで」
竹田は、しばらく黙ってミットの中でボールを転がした。
「K。次、ちょっと付き合え」
*
五回表。
二番の沢井。
直球でストライク。
スプリットは見送られ、三球目の直球をファウル。
一ボール二ストライク。
また、ここまで来た。
竹田がサインを出す。
スイーパー。
Kが首を振った。
竹田は変えない。
もう一度、同じサイン。
Kが顔を上げる。
竹田がミットを動かした。
外へ。
もう少し、外へ。
ストライクを取る場所では、なかった。
沢井は、高い直球に遅れないようにバットを立てている。
低い球を止められるように、前足も残している。
上と下。
竹田のミットは、そこにない。
横だった。
Kがうなずく。
直球の軌道から、球が外へ逃げる。
沢井のバットが、追う。
届かない。
「ストライク! バッターアウト!」
三番、藤崎。
一ボール二ストライクから、竹田はスプリットを出した。
(横なら)
Kが首を振る。
直球にも、首を振った。
竹田の手が止まる。
次のサイン。
スイーパー。
Kがうなずいた。
藤崎のバットが出て、芯を外した。
弱い三ゴロ。
二死。
四番の神崎は、今度は横を見送った。
ファウルで粘り、最後は外角低めの直球を右飛。
三者凡退。
十六球。
マウンドを降りるKに、竹田が追いついた。
「もう、バレたな」
Kが神崎を見る。
「そりゃそうだ。でも、三つになった」
竹田は、手を上へ、下へ、最後に横へ動かした。
Kはその手を見ていた。
*
五回裏、大島の中前打と成瀬の二塁打で、1対3。
六回表、Kは長谷部と高瀬を三振に取り、十一球で終えた。
相手の待ち方も、変わった。
六回裏、片瀬の二塁打と大島の犠牲フライで、2対3。
七回表は、稲葉を三球三振、坂口を遊ゴロ、沢井を中飛。
七球だった。
「終わりだ。七回で十分だ」
ベンチの前で、伊丹が言った。
Kはスコアボードを見た。
2対3。
少しだけ立ち止まってから、うなずいた。
「七回、百十六球。七安打、二四球、七三振。三失点」
真壁が記録を読み上げた。
四回まで、八十二球。
そこから三回を、三十四球だった。
竹田が防具を外しながら隣に座った。
「最初からやれたら、もっと楽だったな。でも、向こうも変えてくるもんな」
少しして、竹田が言った。
「なんで今まで、あれで三振取りにいかなかったんだ?」
Kは何も返さなかった。
ただ、膝の上に置いた右手が、一度だけ握られた。
竹田は数秒待った。
「……まあ、いいけど。次からは使うぞ」
Kがうなずいた。
「それは、返事早いな」
*
七回裏、竹田の四球と岩瀬の安打のあと、早川の適時打で3対3。
Kの負けが消えた。
八回裏、黒田の犠牲フライで、4対3。
九回を柴崎が締めた。
Kに、勝ちはつかなかった。
*
記者席の人影が、減っていた。
榊原遼介の画面には、五回の、沢井へのスイーパーが残っていた。
前の登板の映像を開く。
同じように、横へ大きく曲がる球がある。
今日だけ、突然現れた球ではない。
「球が増えたわけじゃない……」
「何?」
隣で荷物をまとめていた記者が振り向いた。
「いや」
前から持っていた球だった。
元々鋭さはある球だ。
今日変わったのは、どこで、何のために使うか。
その役割だった。
別のタブには、広瀬の映像も残っている。
スプリット。
それは、もう分かっている。
だが、それだけでは今日の試合を説明できなかった。
左打席に立った夜。
そして今日、前から持っていた球の使い方を、試合の途中で変えた。
変えたと言うよりは、今日、使い方に気がついた。
榊原は、そう感じた。
榊原はノートを開いた。
最初に書いていた問いは、「Kは誰だ」だった。
その下に、もう一行書いた。
――どこで、野球を覚えた。
*
ロッカーでは、竹田が最後まで残っていた。
Kは、少し離れた自分の場所で、グラブの紐を確かめている。
「今日の五回さ。俺が、横って言っただろ」
Kがうなずく。
「次の藤崎は、お前からだったよな」
また、うなずく。
竹田は少し考えてから笑った。
「俺が思いついたつもりだったのに、次の打者でもうモノにしてやがんだもんな」
Kは何も返さない。
竹田はバッグのファスナーを閉めた。
「次は俺が見えてないの、お前が見つけろよ」
竹田はそう言って、立ち上がった。
Kは手を止めて、去っていく捕手の背中を見ていた。




