第17話 選ぶ
九月に入って最初のオーシャンズ戦だった。
二位を争う相手との、直接対決。
試合前の監督室には、コーヒーの匂いだけが残っていた。
「一打席なら、使えます」
相沢が言った。
伊丹は机の上の紙から顔を上げなかった。
今日の相手先発の欄に、倉橋の名前がある。
「明後日、先発です」
真壁が言った。
「分かってます」
「なら、今日は打たせないでください。ブルペンの予定もある」
「ブルペンは削らせません。代打で一打席だけです」
伊丹は、ようやく紙を置いた。
「なんで今日なんだ」
相沢は、机の上の名前を指で叩いた。
「倉橋だからです」
「言ってみろ」
「倉橋は、データで打ち取る投手です。何を追いかけるか、どこで振るか。相手が分かっているほど強い」
「うちの控えは」
「全員、取られてます。誰を出しても、向こうは答えを持ってる」
伊丹は腕を組んだ。
「あいつの答えは」
「一打席分しかありません」
相沢は少しだけ間を置いた。
「しかも、その一打席がサヨナラ本塁打です」
真壁が相沢を見た。
伊丹は、黙って窓の外を見た。
「……向こうは、内に投げにくいってことか」
「僕が倉橋なら、嫌です」
伊丹は立ち上がった。
「代打で一打席。出たら、すぐ代走を出す」
「はい」
「ブルペンの予定は変えねえ」
真壁は、まだ納得した顔ではなかった。
伊丹は真壁の方を見ずに言った。
「振るなとは、もう言わねえよ」
*
ブルペンで、竹田はKの最後の直球を受けた。
ミットが乾いた音を立てる。
「いいな」
真壁が言った。
Kは帽子のつばの代わりに、紅い頭部を一度だけ下げた。
真壁は、しばらくKの投げ終わりを見ていた。
「真っすぐの時だけ、投げ終わりが妙に若いな」
「若い?」
竹田が聞き返した。
「高校生みたいな。……いや、悪い意味じゃない」
真壁はそれ以上言わなかった。
竹田はミットの中のボールを見た。
何が若いのかは、よく分からなかった。
ブルペンからベンチへ戻る通路は、フェンス一枚でスタンドと隔てられている。
試合前の練習を見に来た客が、そこに並んでいた。
「Kー!」
子供の声がした。
フェンスの隙間から、小さな手がボールを差し出している。
ボールには、何も書かれていなかった。
Kが足を止めた。
竹田も止まった。
Kはボールを受け取った。
係員が差し出したペンを取る。
ボールの上に、ためらいなくペンを走らせた。
K。
その横に、89。
ボールを返す。
子供は両手で受け取り、何度も表と裏を見返した。
Kは、子供が顔を上げるまで待ってから歩き出した。
竹田は、しばらくそこから動かなかった。
ペンを持たなかったKを、覚えていた。
内、とか、外、とか。
書いてくれた方が早いと言ったとき、Kはペンを見ただけだった。
「そっちのサインは書くのかよ」
小さくつぶやいた。
Kは振り返らなかった。
竹田も、それ以上は聞かなかった。
*
試合は、倉橋の投球で始まった。
直球は速くない。
変化球の落差も、特別大きくはない。
それでもフェニックスの打者は、欲しい球を打たせてもらえなかった。
三回表、オーシャンズが先制した。
北浦が中前へ運び、皆川が右中間を破る。
0対1。
五回裏、日下部の犠牲フライで追いつく。
1対1。
七回表、高梨が安西に勝ち越しの適時打を打たれた。
1対2。
高梨は七回を投げ切り、ベンチへ戻った。
倉橋は、まだマウンドにいた。
*
八回裏。
伊丹はベンチの端から、倉橋の球数を見ていた。
百を超えている。
それでも球は落ちていない。
先頭の黒田が、外のスライダーを追って三振した。
一死。
成瀬が右前へ落とした。
三好が、際どい球を見極めて四球を選ぶ。
一死一、二塁。
竹田が打ち上げた。
遊撃手が捕る。
二死一、二塁。
九番、岩瀬。
伊丹はベンチを振り返った。
控えの野手が二人、ヘルメットを持って立っている。
どちらも、今年何度も代打で使った選手だった。
倉橋も、何度も抑えている。
伊丹は、その奥へ目をやった。
「K」
ベンチの空気が止まった。
「……マジすか」
大島が言った。
控えの二人が、顔を見合わせる。
真壁は何も言わなかった。
Kが立ち上がる。
相沢だけが、小さくうなずいた。
伊丹は、倉橋の方を見ていた。
あの男は、打者を読んでから投げる。
今、あのマウンドの上で、読むものが一番少ない打者。
それが、ベンチの一番奥にいた。
場内アナウンスが流れる前から、スタンドがざわつき始めていた。
『バッター、岩瀬に代わりまして――K』
歓声が、一段遅れて爆発した。
*
相沢はベンチの前に立ち、倉橋を見ていた。
スタンドが、89のタオルで赤く揺れている。
「Kー!」
「もう一本!」
「サヨナラ!」
「まだ八回だよ!」
笑いと歓声が混ざった。
あの夜の映像は、何日もテレビで流れた。
延長十二回。
左打席。
内寄りの直球を、右翼席へ。
野球を見ない人間まで、その場面だけは知っている。
倉橋が知らないはずがなかった。
倉橋は、捕手の戸塚から出たサインに一度首を振った。
この試合、初めてだった。
Kが左打席に入る。
構えたとき、前の右足がわずかに開いている。
初球。
倉橋が足を上げる。
その瞬間、Kの右足が内へ小さく戻った。
身体が、投手の方へ向き直りかける。
そこから、踏み込む。
外のスライダー。
Kのバットは出なかった。
「ボール!」
外へ、逃げていく球だった。
普段の倉橋なら、打者に追わせる球だ。
二球目。
外角低めの直球。
Kは見送った。
「ストライク!」
相沢は、Kの足を見ていた。
開く。
閉じる。
踏む。
見送った球でも、入り方は変わらない。
教わった入り方だ、と相沢は思った。
三球目。
外のチェンジアップ。
Kのバットが出た。
三塁側へのファウル。
一ボール二ストライク。
スタンドが沸いた。
追い込まれた。
それでも、Kは打席を外さなかった。
四球目。
低めのスライダー。
Kは見送った。
「ボール!」
二ボール二ストライク。
倉橋が、ロジンバッグに手を伸ばした。
五球目。
外角高めの直球。
わずかに外れた。
「ボール!」
フルカウント。
相沢は気づいていた。
一球も、内へ来ていない。
倉橋は、Kの内側を避けている。
内寄りの直球を右翼席へ運んだ、あの夜の一振りを、倉橋も見ているのだ。
六球目。
倉橋が足を上げた。
Kの右足が、内へ戻る。
外角の直球。
Kは引っ張ろうとしなかった。
バットが、外の球に遅れずに届く。
打球は三遊間へ転がった。
遊撃手が飛びつく。
グラブの先を抜けた。
左前。
二塁から成瀬が三塁を回る。
左翼手の返球は、本塁の手前で跳ねた。
成瀬が滑り込む。
「セーフ!」
2対2。
三好は二塁で止まった。
球場が揺れた。
Kは一塁ベースの上で、ただ立っていた。
喜ぶ仕草は、どこにもなかった。
一塁コーチが、ベンチを見る。
伊丹が手を上げていた。
『一塁ランナー、Kに代わりまして――今井』
Kは今井とすれ違い、ベンチへ戻った。
足を速めることはなかった。
伊丹は、Kの顔も見ずに言った。
「上出来だ」
Kがうなずく。
続く早川は、二塁ゴロに倒れた。
同点のまま、八回が終わった。
*
九回表。
柴崎がマウンドへ上がった。
先頭の北浦を、三球で三振に取る。
一死。
四番、皆川。
柴崎は、ベンチの方を一度だけ見た。
Kがタオルを膝に置いて、グラウンドを見ている。
あいつが作った同点だった。
室内練習場で、あいつは一球ごとに何かを変えていた。
今日の打席も、きっとそうだったのだろう。
だったら、こっちも一球ずつだ。
初球の直球は、外れた。
二球目の直球で、ストライク。
三球目。
柴崎は、スライダーを選んだ。
少しだけ、内へ入った。
皆川のバットが、静かに振り抜かれた。
音がした。
柴崎は、打球を振り返らなかった。
左翼席の歓声だけが、背中に届いた。
2対3。
後続は二人とも打ち取った。
柴崎は帽子を取らずにベンチへ戻った。
グラブを置く。
隣に、大島がいた。
「本気で投げたか」
柴崎は、少しだけ間を置いた。
「……はい」
「ならいい」
大島はそれだけ言って、ヘルメットを取りに立った。
九回裏、フェニックスは日下部、片瀬、大島の三人で終わった。
二位を争う直接対決を、フェニックスは落とした。
*
映像室には、相沢とKしかいなかった。
画面の中で、Kが左打席に入る。
相沢は再生を止めた。
「ここ」
Kの右足。
「倉橋が足を上げると、ここが戻る」
再生する。
止める。
「で、踏む」
Kは画面を見ていた。
「誰に教わった」
Kは答えなかった。
相沢も、答えを待つような間は取らなかった。
もう一度、最初から流す。
開く。
閉じる。
踏む。
Kは、画面の中の自分の足を見ていた。
それから相沢の方を向き、小さく頭を下げた。
相沢は画面から目を離さなかった。
「いい教わり方をしてる」
*
遠征用のバスは、まだ球場の駐車場から動いていなかった。
倉橋はタブレットの画面を戸塚に向けた。
八回裏。
左打席のK。
「勝ったの、倉橋さんですよ」
戸塚が言った。
「分かってる」
倉橋は、六球目の場面まで早送りした。
「あの打席、何を投げても手応えがなかった」
「データ、ないですからね」
倉橋は画面を止めた。
「あるのは、あのホームランだけだ」
戸塚は黙った。
「内に、投げられなかった」
「外なら大丈夫だと思ったんですけどね」
「外を、逆に打たれた」
倉橋は、画面の中のKの足を指でなぞった。
右足が、内へ戻る。
そこから、踏む。
倉橋は言った。
「打者のKは、入り方に癖がある」
バスのエンジンがかかった。
倉橋はタブレットを閉じた。
「次は、もう今日の一打席がある」




