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K ―背番号89―  作者: K2MA


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33/34

第33話 遠く

 森川みさきが東条一成と初めて会ったのは、友人の結婚式だった。

 一成は新郎側だった。

 みさきは新婦側だった。

 披露宴が終わり、二次会まで少し時間が空いた。

 人の少ないホテルのロビーで、たまたま隣に座った。


「新郎の友達?」

「ああ」

「大学?」

「昔からの知り合いだ」

「へえ」


 一成は口数が多い男ではなかった。

 みさきも、最初から特別な何かを感じたわけではない。

 ただ、話しにくくはなかった。


 その日の終わりに連絡先を交換した。

 何度か会った。

 食事をした。

 歩いた。

 映画も見た。

 どこにでもいる男女がすることを、二人もした。

 みさきが、一成の家について知ったのは少し後だった。


「東条って、あの東条?」

「ああ」

「東条グループ?」

「ああ」

「先に言ってよ」

「聞かれなかった」

「そうだけど」


 一成は少し困った顔をした。

 みさきは笑った。

 それで終わった。

 次に会った時も、何も変わらなかった。

 一成がどこの家の人間なのかは、みさきにはあまり関係がなかった。

 そのことを、一成は気に入っていた。


    *


 しばらくして、一成から会えない日が増えた。

 仕事があった。

 家のこともあった。

 それでも二人は会った。

 一成が遅れて来ることもあった。

 みさきが先に帰ることもあった。

 喧嘩もした。

 仲直りもした。

 一成は、いつか全部片づける、と言った。

 何を片づけるのか、みさきには詳しく分からなかった。

 ただ。

 一成には、一成だけでは決められないことが多い。

 それだけは分かるようになった。


    *


 その男がみさきの前に現れたのは、そんな頃だった。

 三木平伍郎(みきへいごろう)。

 政治家だった。

 名前くらいは知っていた。

 テレビでも見たことがある。

 通された部屋には、平伍郎だけが座っていた。


「森川みさきさんですね」

「はい」

「突然お呼びして申し訳ありません」


 声は穏やかだった。

 威圧するような言い方でもなかった。


「一成さんのことでしょうか」

「そうです」


 平伍郎は隠さなかった。


「あなたに非があるとは思っていません」


 みさきは黙っていた。


「一成君から、何かお聞きになっていますか」

「何をですか」

「結婚の話です」


 みさきは平伍郎を見た。

 初めて聞いた。


「私の娘です」


 三木優子(みきゆうこ)。

 名前は知っていた。


「もう決まっているんですか」

「両家では、そのつもりで話が進んでいます」

「一成さんは」

「受け入れてはいません」


 平伍郎は答えた。


「あなたがいるからです」


 みさきの指が、膝の上で動いた。


「別れてくれってことですか」

「そう聞こえるでしょうね」

「違うんですか」


 平伍郎は少し考えた。


「あなたには大袈裟に聞こえるでしょう」


 声は変わらなかった。


「ですが、この縁談で動くものは、二人の結婚だけではありません」


 東条の会社。

 進んでいる事業。

 金融機関。

 取引先。

 そこで働く人間。

 すでに多くのものが、この結婚を前提に動き始めている。

 平伍郎は、一つずつ話した。


「東条一成という男は、もう自分の人生だけを生きてはいない」

「……だから、私が邪魔なんですね」

「あなたが悪いのではありません」


 平伍郎は言った。


「ですが、あなたがいる限り、一成君はこの話を受けないでしょう」


 みさきは何も言わなかった。

 少しして聞いた。


「私は、どうすればいいんですか」

「それを私が決めることはできません」

「ずるいですね」

「そうかもしれません」


 平伍郎は否定しなかった。


「一成君に、この話をしてもいいんですよね」

「もちろんです」


 平伍郎は答えた。

 そして続けた。


「一成君にこの話をすれば、彼はあなたを選ぶでしょう」


 みさきは顔を上げた。

 平伍郎は、まっすぐこちらを見ていた。

 脅しではなかった。

 みさきにも分かっていた。

 一成なら、そうする。


 会社も。

 家も。

 立場も。


 必要なら全部投げ出す。

 そういう男だった。

 みさきは、その日、一成に連絡をしなかった。


    *


 数日後。


 みさきは電話を解約した。

 住んでいた部屋を出た。

 仕事も辞めた。


 一成には何も言わなかった。


 別れようとも言わなかった。

 嫌いになったとも言わなかった。

 言えば、探しに来る。


 理由を話せば、一成は選ぶ。

 自分を。

 それが分かっていた。

 なら。

 自分だけが消えればいい。

 みさきはそう決めた。


 そのとき、みさきはまだ知らなかった。

 自分の中に、新しい命が宿っていることを。


    *


 一成の一日は、会議と書類でできていた。

 東条グループの跡取りとして、決めることは多かった。

 その合間に、みさきと会った。

 何も決めなくていい時間は、そこにしかなかった。


 ある日突然。

 みさきが消えた。


 電話をかけた。

 繋がらなかった。

 家へ行った。

 誰もいなかった。

 仕事も辞めていた。

 共通の知人に聞いた。

 誰も知らなかった。

 一成は探した。

 それでも見つからなかった。


 理由も分からなかった。

 自分が何かをしたのか。

 別の男がいたのか。

 嫌われたのか。

 何も分からなかった。


 時は流れ、いつしか予定されていた話は進んだ。


 一成は三木優子と結婚した。

 政略結婚だった。

 夫婦の間に子供はできなかった。


 東条グループは大きくなった。

 一成の仕事も増えた。

 やがて父から多くを引き継いだ。

 会う人間が増えた。

 決めることが増えた。

 背負うものも増えた。


 日々に追われるうち、十五年が過ぎた。

 それでも、その名前だけは、心のどこかに残っていた。


 森川みさき。


    *


 七年前の夏だった。


「会長」


 男が執務室へ入ってきた。

 いつもの笑顔だった。

 東条家に長く仕え、一成の身の回りから表に出せない実務まで、黙って処理する男だった。


「何だ」

「建設現場で事故が発生いたしました」


 一成は書類から顔を上げた。

 東条グループ傘下の企業が関係する現場だった。

 仮設構造物の管理。

 工程。

 点検。

 情報共有。

 一つだけの失敗ではなかった。

 複数の不備が重なっていた。


「被害は」

「死亡者が一名」


 男が資料を置いた。


「負傷者が二名確認されております」


 一成は資料を開いた。

 死亡者。

 森川みさき。

 四十四歳。

 一成の手が止まった。

 十五年ぶりに見る名前だった。


「……顔写真はあるか」

「身元確認に使用したものがございます」


 男が別の資料を差し出した。

 一成は写真を見た。

 十五年経っていた。

 それでも、分かった。

 みさきだった。


「この女性の家族は」

「同居のご子息が一名。今回の事故で負傷しております」


 一成は次の欄を見る。

 森川一人。

 十五歳。


 一の字が、自分の名前と同じだった。


「生年月日は」


 男が答えた。

 一成は何も言わなかった。


「怪我は」

「足を骨折しておりますが、命に別状はございません」

「意識は」

「ございます」

「病院は」


 男が答えた。


「保護者は」

「現在、叔父様ご夫妻が対応されております」


 一成はもう一度、生年月日を見た。

 あり得ない日付ではなかった。

 むしろ。

 合っていた。


「確認してくれ」

「何を、でございましょう」


 一成は男を見た。

 笑顔は変わっていなかった。


「……私の子かもしれない」


 男は一度だけ頭を下げた。


「かしこまりました」


    *


 事故については、通常の調査が進められた。

 一成は隠すなと命じた。

 責任があるなら認める。

 補償が必要なら行う。

 亡くなった者にも。

 負傷した者にも。

 不足が出ないようにしろと命じた。


 数日後。

 男が再び来た。


「叔父様ご夫妻には事情をご説明いたしました」

「どう説明した」

「一人様の生物学上の父親である可能性のある人物がいる、と」

「それで」

「検査への同意をいただいております」


 結果が出るまで、そう時間はかからなかった。

 そして。


「一致いたしました」


 男が言った。

 一成は動かなかった。


「森川一人様は、会長の実子でございます」


 十五歳。

 自分には息子がいた。

 みさきは、何も言わなかった。

 別の男のもとへ行ったわけではなかった。

 自分の子を産み。

 そして、誰にも頼らずに育てた。


    *


「こちらへお迎えになりますか」


 男が聞いた。


「当然だ」


 一成は答えた。

 そこから話が始まった。

 そして、すぐには終わらなかった。


 東条家へ入れる。

 公に認知する。

 三木優子との関係。

 三木家との関係。

 十五年間に積み上がった事業。

 取引。

 会社。


 何より。

 みさきが東条グループと関係する建設事故で亡くなった直後だった。

 かつて関係のあった女性。

 その女性の死。

 十五歳の隠された実子。

 事故後に東条家へ引き取る。

 事実だけを並べても、何を言われるか分からなかった。


「会社なら、俺が辞めればいい」


 一成は言った。

 男の笑顔は変わらなかった。


「会長が辞めて済むお話ではございません」


 一成は黙った。


「では別に家を持つ」

「可能でございます」

「私もそこに住む」

「その場合、いずれ理由を問われます」

「優子と別れる」

「会長が三木家との縁を切るとお決めになるのであれば、私は従います」


 男は止めなかった。

 反面、男が言っていることは重かった。


「離婚したからといって、解決できることも限られています」


 一成は窓の外を見た。


「では、どうしろと言う」

「私が決めることではございません」

「お前はいつもそうだな」

「恐れ入ります」


 笑顔だった。

 腹が立った。

 だが、間違ってはいなかった。

 一成は何日も考えた。

 息子がいると知った。

 引き取りたかった。

 父親として何をすればいいのかは分からなかった。

 それでも、一緒に暮らすくらいはできると思った。


 だが、できなかった。


 最後に決めたのは、一成だった。


    *


 家の外に、十五歳の少年が出てきた。

 体は大きかった。


「森川一人君だね」


 少年は睨んだ。


「母さんを捨てたのか」


 一成は答えなかった。


 違う。


 そう答えることはできた。


 みさきが、自分の前から消えた。

 自分は何も知らなかった。


 そう言えばいい。

 だが、それを言えば。


 母親を亡くしたばかりの少年に、死んだ母親が父親から逃げたのだと聞かせることになる。


 なぜ消えたのかは一成自身にも分からない。


「なんで今さら来たんだよ」


 それにも答えられなかった。


 お前がいることを知らなかった。


 その一言で済む。

 だが、それは同時に。


 母親がお前の存在を父親に知らせなかった。


 そう伝える言葉でもあった。

 一成は黙った。

 少年の目がさらに険しくなった。

 分かっていた。

 黙れば、何を思われるかくらい。

 それでも言えなかった。


 一緒には暮らせないと伝えた。

 生活の心配はしなくていいとも言った。

 少年は短く吐き捨てた。


 一成は少年を見た。


「そうか」


 それしか言えなかった。


    *


「必要なものは全部用意してくれ」


 一成は男に言った。


「どの程度を想定されておりますか」

「生活に必要なものだ」

「承知いたしました」

「野球をしているらしい」

「そのようでございます」

「なら、練習できる場所もだ」

「かしこまりました」


 一成が次に報告を受けた時には、住居の準備はほとんど終わっていた。


 広い屋敷。

 住み込みの使用人。

 屋内の練習施設。

 マウンド。

 打撃用のネット。

 トレーニング設備。

 一成は資料をめくった。


「他には」

「一通り、生活に必要なものは揃えております」

「野球は」

「雨天でも練習できるようにしております」

「身体を痛めた時は」

「医師、理学療法士ともすぐ連絡が取れるよう手配しております」

「食事は」

「栄養管理のできる者を入れます」


 一成は資料を閉じなかった。


「他は何かないか。本当に足りてるのか」


 男はいつもの笑顔で答えた。


「現時点では、十分かと存じます」


 一成はもう一度、資料を見た。


    *


 一人が十六歳になる少し前。

 一成は男に聞いた。


「誕生日には何を渡せばいい」

「一人様がお望みのものを伺ってはいかがでしょう」

「私からだと分かれば受け取らない」

「左様でございますか」


 一成は机の上の資料を見た。


「野球は続けているのか」

「そのように報告を受けております」

「なら、野球の何かにしろ」


 その結果、広瀬和巳が来た。

 日米通算百九十七勝。

 一成も名前くらいは知っていた。

 引退したばかりだった。

 最初は一日だけだった。

 金を払い、一人と野球をしてもらった。

 それで終わるはずだった。


    *


「広瀬様が、また一人様のところへ行かれたそうです」


 男から報告を受けた。


「頼んだのか」

「いいえ」

「金は」

「お支払いしておりません」


 一成は少し考えた。


「何度目だ」

「今回で三度目でございます」


 一成は電話を取った。


    *


『会長、お世話になっております』

「一人は、君を嫌っていないか」


 電話の向こうで、少し間があった。


『嫌っていたら、私も何度も伺えませんよ』

「……そうか」

『私が帰ろうとすると、もう一回やろうと言います』

「楽しそうか」

『少なくとも、私と野球をしている時は』


 一成は黙った。


「正式に契約してほしい」

『契約、ですか』

「これからも、一人のところへ行ってやってくれ」

『野球を教える、ということでしょうか』


 一成は少し考えた。


「……そばにいてやってほしい」


 広瀬も少し黙った。


『分かりました』

「条件はそちらで出してくれ」

『そこまで大袈裟な話じゃないですよ』

「私には大袈裟かどうか分からない」


 広瀬が笑った。


『では、きちんと話しましょう』


 そうして広瀬は、一人のもとへ通うようになった。

 一成は野球の内容は聞いても分からなかった。

 ただ、ときどき男を通して聞いた。


 一人は食べているのか。

 怪我はしてないか。

 何か困ってはいないか。


    *


 一人が十七歳になった頃。

 広瀬から連絡があった。


『一人君は元気ですよ』

「そうか」

『最近は、私の言うことも前ほど素直に聞きませんけど』

「反抗期なのか」

『違いますよ』


 広瀬は笑っていた。


『自分で考えるようになったってことです』


 一成には、よく分からなかった。


「何か困っていることは」

『ありません』

「最近、変わったことは」

『あります』

「何だ」

『私が教えることが、だいぶ減りました』

「そうなのか」

『投手としては、もうプロでも通用するレベルになりつつあります』

「まだ十七だぞ」

『年齢で球を投げるわけじゃありませんから』

「私には分からん」

『一人君には、生まれ持った体の強さがあります』

「そうなのか」

『それ以上に、努力を続けられる才能もあります』


 みさきが一人をどう育てたのか。

 垣間見えた気がした。


 広瀬は続けた。


『一度、海外に出してみませんか』

「海外?」

『数か月でもいいです』

「十七歳だぞ」

『さっきも聞きました』

「未成年だ」

『分かってます』


 一成は黙った。


『会長』

「何だ」

『可愛い子には旅をさせろ、って言うでしょう』


 一成はしばらく考えた。


「……野球は、楽しんでいるのか」

『はい』


 電話を切った。


    *


「準備してくれ」

「何を、でございましょう」

「広瀬に聞け。必要なものは全部用意しろ」

「かしこまりました」


    *


 渡航の準備が進んだ。

 契約。

 保険。

 滞在先。

 受け入れ先。

 一人の法的な身分を偽ることはできない。

 ただ、公に出る名前は別だった。


「お名前はいかがいたしましょう」


 男が聞いた。


「名前?」

「森川一人様のお名前を、そのまま公にするわけには参りません」


 一成は書類から顔を上げた。

 そこまで考えていなかった。


「……適当に決めてくれていい」

「かしこまりました」


 男は何も変わらない笑顔だった。

 そうして、北米ではONOになった。

 意味はなかった。

 男が事務的に決めただけだった。


    *


 広瀬が死んだという連絡を受けた。

 一成は、しばらく言葉が出なかった。

 交通事故だった。

 一成は広瀬の遺族へできる限りのことをした。

 補償ではなかった。

 一成にその義務はない。

 ただ。

 広瀬は、自分にはできなかったことをしてくれた。

 一人のそばにいた。

 一緒に飯を食い。

 時には怒り。

 野球をした。

 一成にとっても、恩人だった。


 そして。


 一人にとっては、二度目だった。


 母親を失った。


 今度は広瀬を失った。


 一成は、しばらく次を考えられなかった。

 別の誰かを、一人のそばに置くことも考えた。

 すぐにやめた。

 広瀬の代わりになる人間などいない。


    *


「会長」


 男が言った。


「広瀬様が生前、一人様のもとへ何度かお連れになった方がおります」

「誰だ」

「カイル・ミラーという人物でございます」

「何をしている人間だ」

「メジャーリーガーでございます」

「今もか」

「はい」


 男は経歴を説明した。

 受賞歴。

 本塁打。

 守備。

 リーグでも特別な選手だということ。

 一成には、数字の大きさがよく分からなかった。


「一人は、その男を気に入っているのか」

「少なくとも、拒んではおられません」

「会わせてくれ」

「かしこまりました」


    *


 カイル・ミラーは、一成の前でも態度を変えなかった。


「オッサンが俺を日本まで呼んだの」

「ああ」

「ヒロセのことで?」

「一人のことだ」


 カイルの顔から、少しだけ笑いが消えた。


「一人とは親しいのか」

「ヒロセと一緒に何度か会ったよ」

「あなたは一人のことを嫌いではない?」

「嫌いなのに、わざわざ日本に来る?」

「そうか」


 一成は書類を差し出した。


「一人のそばにいてほしい」


 カイルは書類を見なかった。


「オッサン、俺、アメリカで試合あるんだけど」

「聞いている」

「俺はカイル・ミラーだ」

「経歴は知っている」

「辞めるつもりもない」

「それも聞いている」


 カイルが書類を取った。

 開いた。

 しばらく止まった。

 ページを戻した。

 もう一度、数字を見た。


「……アンタ、頭おかしいのか?」

「足りないなら言ってくれ」


 カイルが一成を見る。


「足りないって言ったら?」

「増やす」


 カイルは書類を閉じた。


「そこまでして、カズトを野球選手にしたいのか?」

「違う」

「じゃあ何だ」


 一成は少し黙った。


「そばにいてほしい」

「俺に?」

「ああ」

「人間は金で買えねえ」

「知っている」


 カイルは何も言わなかった。

 机の上の書類を見る。

 そこに書かれた数字は、一成にとっても軽いものではなかった。

 東条グループの会長だから何でも安く見えるわけではない。

 この金額を払えば、何ができるか。

 一成にも分かっていた。


 それでも。

 他にいなかった。

 広瀬が連れてきた。

 一人が受け入れている。

 そして今も、一人のところへ行ける。

 カイル・ミラーしかいなかった。


「持って帰る」


 カイルが言った。


「ああ」

「返事はすぐしない」

「構わない」


 カイルは立った。

 契約書を持って出ていった。

 部屋を出る前に、一度だけ振り返った。


「ヒロセは、いい奴だったよ」


    *


 しばらくして。

 カイル・ミラーは三十一歳で現役を退いた。

 一成の条件を受けた。

 屋敷へ行った。

 それから一人のそばにいた。

 金額のことは、一度も口にしなかった。

 一成は、それ以上を求めなかった。


    *


 歳月が流れた。

 一人は二十二歳になった。


 野球は続けていた。

 海外にも出た。

 帰ってもきた。

 住む場所もある。

 金にも困らない。

 カイルもいる。


 一成には、それで何が悪いのか分からなかった。


 ある日、カイルが言った。


「アンタの息子、プロでやれるぞ」


 一成は顔を上げた。


「そうなのか」

「知らねえの?」

「野球のことは分からん」


 カイルが笑った。


「プロに入れるべきだ。アンタならできるはずだ」

「そのつもりはない」

「極上のサラブレッドを、お気に入りのパドックから出さない気かい?」

「表には出せない」


 カイルは笑わなかった。


「東条グループの方針だ」

「トージョー?」

「ああ」


 一成は答えた。

 嘘ではなかった。

 長く続く三木との関係。

 東条グループ。

 亡くなったみさき。

 事故。

 そして実子。

 表に出せば、多くのものが動く。

 カイルは椅子の背にもたれた。


「で、一人はこの先どうすんだ」


 一成は答えなかった。


「三十になっても、あの家で俺と野球してんのか?」

「本人がそれを望むなら」

「カズトはもうベイビーじゃねえ」


 一成は黙った。


「アンタさ」


 カイルが言った。


「一人をいつまで檻に入れとく気だ?」


 一成の眉が動いた。


「檻?」

「家がある」

「悪いか」

「金もある」

「必要だ」

「何やっても困らない」

「そのために用意した」

「知ってるよ」


 カイルは一成を見る。


「だから檻なんだよ」

「縛ったつもりはない」

「だから厄介なんだよ。もう一度だけ言うぞ」


 一成は黙った。


「アンタの息子には才能がある」


 カイルが続けた。


「プロでやれる」

「……」

「やるかどうかはカズトが決めることだ」


 一成は返す言葉を持っていなかった。


「親が子供をいつまでも縛っておけると思うな」


 一成はカイルを見た。

 腹が立った。


 それ以上に。


 答えがなかった。


 一成には、十五歳までの一人がどんなふうに育ったのか分からない。

 十五歳からも、一緒には暮らしていない。


 父親なら、二十二歳になった息子の先をどう考えるのか。


 分からなかった。


 食べるものを用意することはできる。

 住む場所も。

 金も。

 必要な人間も。


 どれも、自分が一人の前に立たずに済むものだった。


 だが。


 それで一人の人生が完成するわけではない。


    *


「一人に話してくれ」


 一成は男に言った。


「東条フェニックスについて、でございますね」

「ああ」

「会長から直接お話しにはなられませんか」

「私が言えば、あの子は自分の意思を言わない」

「そうでしょうか」

「選択肢として伝えろ」

「かしこまりました」


 一成は、それ以上何も言わなかった。


    *


 しばらくして。

 男が戻った。


「お断りになられました」

「そうか」


 一成はそれだけ答えた。


 数日後。


「一人様より、ご返答がございました」


 一成は顔を上げた。


「入団するそうでございます」

「……そうか」

「ただし、条件がございます」

「聞こう」

「森川一人というお名前は、公表しないこと」

「一人から言ってきたのか」

「出身地、学校、過去の所属等につきましても、可能な限り非公表を希望されております」


 一成は男の報告を黙って聞いていた。


「取材、記者会見、ヒーローインタビュー等にも応じない」

「チームの中でも、声は出さない」

「……分かった」

「それから」


 男は続けた。


「一人様は、顔も隠したいとおっしゃっておられます」


 顔を見せたところで、東条とは繋がらない。


「そこまでする必要があるのか」

「一人様のご要望です」


 一成は黙った。

 一人が何を考えているのか、一成には分からなかった。

 だが。

 一人は、そうしたいと言った。


「必要なことをしろ」

「かしこまりました」


 一成は息を吐いた。


「一人がそれで行くと言うなら、リーグに掛け合って通せるところまで通せ」

「かしこまりました」

「登録は、投手でよろしいでしょうか」


 一成は少し考えた。

 野球のことは分からない。

 覚えているのは、広瀬の声だけだった。


『投手としては、もうプロでも通用する』


「投手だ」

「先発、中継ぎ、抑えとございますが」

「先発なら、試合に出られるのか」

「毎試合ではございませんが、登板の日は最初から」

「なら、先発だ」

「かしこまりました」


 男は書類を閉じかけた。

 そこで止まった。


「公開上のお名前はいかがいたしましょう」

「一人に決めさせろ」

「承知いたしました」


 後日。

 男から報告があった。


「登録名は、Kとなります」


 一人は、KAZUTOの頭文字、Kを選んだか。

 KはKAZUNARIの頭文字でもあった。

 一人、一成、一。

 みさきが残してくれた、親子共通の一文字。

 一成にはそう思えた。


「悪くない」

「ありがとうございます」


 男がなぜ礼を言ったのか、一成には理解できなかった。


    *


 その夏。

 Kは東条フェニックスの選手になった。

 一成が一人に会うことはなかった。

 会いに行っていいのかどうか、一成には分からなかった。

 分からないままにしておけば、行かずに済んだ。


    *


 ある夜。

 東条グループ本社の会長執務室。

 モニターの中で、Kがホームを踏んだ。

 フェニックスの選手たちが集まってくる。

 背番号89が、その中に消えた。

 一成は黙って見ていた。


 広瀬ではない。

 カイルでもない。

 自分が一人のために用意した人間ではない。


 一人が自分で入った場所で出会った人間たちだった。

 その中に、自分はいない。


 一成は机の上のリモコンを取った。

 モニターを消した。

 仕事へ戻った。


    *


 季節が進んだ。

 久世隆文が執務室へ来た。


「会長」

「何だ」

「89が打てることを、最初からご存じだったんですか」


 一成は顔を上げた。

 なんとなく聞いたことがある。

 カイル・ミラー。

 あの生意気な男から。


 だが、説明すれば次が来る。


 誰に教わったのか。

 どこで。

 いつから。

 なぜ東条一成がそれを知っているのか。


「久世」

「はい」

「余計な詮索はするな」


 久世は黙った。


「言われた通りにしていればいい」

「……承知しました」


 久世が部屋を出た。

 一成は手元の資料へ視線を戻した。


 森川一人と東条を結びつけられるわけにはいかない。


 だが。


 一人が自分で決めた。

 名前を出さない。

 顔を出さない。

 声も出さない。


 過去へ入ってくるなと。


 一人が引いた線だった。

 一成は、その線を越えさせるつもりはなかった。


    *


 ファイナルステージ第一戦。

 試合が終わった。

 モニターの中で、選手たちがマウンドへ集まっていく。

 一成は手元の書類にサインを入れた。

 顔を上げる。


 Kが輪の中にいた。

 自分から、その中へ入った。


――いつまでアンタの檻に入れとく気だ。


 カイルの言葉を思い出した。


 一成はリモコンを取った。

 モニターを消した。

 次の書類をめくった。


 そこに、Kの名前があった。

 球団の売上報告書の決裁だった。

 Kのグッズは売れていた。


 一成はサインを入れた。


    *


 ファイナルステージ最後の試合も、一成は執務室で見ていた。

 全然知らなかった野球は、少し分かるようになっていた。


 試合が終わった。

 フェニックスが勝った。

 選手たちがベンチから飛び出していく。


 紅と黒と金の防具が見えた。

 その周りに、フェニックスの選手たちが集まっている。

 一成には、誰が誰なのかは分からない。


 だが、一人がその中にいることだけは分かった。


 誰も一人の本当の名前を知らない。


 父親が誰なのかも知らない。


 母親のことも。

 広瀬のことも。

 カイルのことも。


 知らない。


 それでも。


 一人は、そこにいた。


 フェニックスの選手たちの中にいた。


 モニターの中の輪は、眩しく、遠かった。


 その輪に、一成が入ることはない。


 みさきは、この景色を知らない。


 机の上に、リモコンがあった。


 一成は手を伸ばさなかった。

 代わりに。


 開いたままだった書類を閉じた。


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