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K ―背番号89―  作者: K2MA


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34/34

第34話 十一月

 伊丹の身体が宙へ上がった。


 一度。


 二度。


 大島は、その下で腕を伸ばしていた。

 周りに、フェニックスの選手たちがいる。

 紅と黒と金の防具も、その中にあった。


 東条フェニックス。


 十四年ぶりの日本一だった。


 最後の打者を三振に取ったのは、Kだった。

 十四年前、大島は入団したばかりで、ベンチの端から見ていた。


 三度目。


 伊丹が落ちてくる。


 四度目。


「もういい!降ろせ!」


 怒鳴った声が、歓声に消えた。

 隣で竹田が笑っている。

 少し離れたところで、Kも両手を上げていた。

 伊丹の身体が、もう一度浮いた。

 何回目か、大島はもう数えていなかった。

 やがて伊丹が地面へ戻される。

 選手たちが散った。


 抱き合う者。

 肩を叩く者。

 泣いている者。

 まだ叫んでいる者。


 その間を縫って、球団スタッフが走ってくるのが見えた。

 手に、白いボールを持っている。

 誰に渡せばいいのか、迷っているようだった。

 目が合った。


「大島さん」

「ん?」

「これ、ウイニングボールなんですけど」


 白いボールが、大島の手に乗った。

 大島は一度だけそれを見た。

 迷う理由は、なかった。

 顔を上げる。

 Kが、少し先にいた。


「おい」


 Kが振り向いた。

 大島はボールを放った。

 Kが受け取る。


「これ、お前のだろ」


 Kは手の中のボールを見た。

 それから、大島を見た。

 ボールを差し出してくる。


「気ぃ遣うな」


 大島は受け取らなかった。


「俺は来年もらう」


 Kは動かない。


「持って帰れ」


 少しして。

 Kはボールを握った。

 小さく、うなずいた。


    *


 祝勝会場へ入った時点で、竹田のユニフォームはもう濡れていた。

 床も濡れている。

 壁にも泡が飛んでいた。

 誰が誰にかけているのか分からない。

 向こうで柴崎が逃げている。

 大島は、逃げる気すらないようだった。

 竹田は一本受け取った。

 栓を飛ばす。

 そのとき、Kが目に入った。


「K!」


 Kが振り向く。

 竹田はそのままボトルを向けた。

 泡が正面から飛んだ。

 Kが両腕を上げる。


「お前だけずるいだろ、それ!」


 笑いながら、さらにかけた。

 防具の表面を泡が流れ落ちる。


「全然効いてねえじゃん」


 Kが横を向いた。

 竹田は回り込む。


「逃げんな!」


 もう一度。

 今度は、首元へ泡が入った。

 Kの身体が止まった。


「……っ」


 肩が揺れる。


「げほっ」


 竹田の手が止まった。

 Kが咳き込んでいる。

 初めてブルペンで球を受けた日から、一度も聞いたことのない音だった。


「……お前」


 Kが顔を上げた。


「声、出んじゃねえか!」


 数秒。

 Kは竹田を見ていた。

 それから、横のテーブルを見た。

 未開封のボトルが一本ある。

 Kが手を伸ばした。


「おい」


 栓が飛んだ。


「待て待て待て!」


 竹田は逃げた。

 Kが追ってくる。


「それは違うだろ!」


 泡が背中へ飛んできた。


「うわっ!」


 笑いながら、竹田は逃げ続けた。

 振り返ると、Kは泡の垂れるボトルを握ったまま、まだ追ってきていた。


    *


 祝勝会が終わるころ。


 一成は、球団関係者への挨拶を終えていた。

 関係者用の通路を出口へ向かう。

 半歩後ろを、いつもの男が歩いていた。

 相変わらず、笑っている。


 前から、誰かが歩いてきた。


 紅と黒と金の防具。


 Kだった。


 先に止まったのは、Kだった。

 一成も足を止めた。

 二人の間に、通路の白い光が落ちている。


 何も言わなかった。


 Kが一成を見る。

 一成も見た。


 Kの右手が、ユニフォームのポケットへ入った。


 白いボールが出てきた。


 一成の目が、そこへ落ちる。


 Kの腕が動いた。


 ボールが、緩い弧を描いた。


 一成は胸の前で受け取った。


 Kはもう歩き出していた。


 一成の横を通る。


 笑う男の横も通る。


 誰も何も言わなかった。

 一成は呼び止めなかった。


 手の中のボールを見る。

 白い革に、薄く土が残っていた。

 一成は、ボールを握り直した。


    *


 数日後。

 東西スポーツ編集部。

 榊原は、別の記事を書いていた。


「そういや榊原」

「はい」

「Kの正体、あれどうなった」


 榊原は画面から目を離した。


「記事になるものは、出ませんでした」

「出なかったか」

「はい」


 デスクが椅子の背にもたれた。


「ネットも他社もカイル・ミラー説だぞ」

「はあ」

「世間じゃ、Kは三十三歳ってことになってる」

「そうですね」

「お前も結構追ってたろ」

「追いました」

「それで、何もなし?」

「裏を取れるものは、何も」

「まだ追うか?」

「もう出ませんよ」


 榊原はキーボードへ手を戻した。


「追うだけ無駄です」

「お前がそこまで言うの、珍しいな」

「だからですよ」

「何が」

「あれだけ追って、記事になるものが出なかったんです」


 デスクは少し黙った。


「……そうか」

「はい」

「じゃあいい」


 デスクが向こうへ戻っていく。

 榊原は、開いていた原稿へ戻った。

 Kの名前は、そこにはなかった。


    *


 数年後。


 十一月。


 午後三時を少し過ぎた市民球場に、子供たちの声が響いていた。


「もう一回!」

「今の、取れただろ!」

「無理だって!」


 翔は笑いながらボールを返した。

 十人ほどの子供が、グラウンドを走っている。

 ユニフォームは揃っていない。

 帽子もばらばらだった。

 その中に、背中へ89と入ったシャツを着た子がいる。

 今年の春から、ずっとそれを着てくる子だった。


「次!」


 ホームベースの横で、翔は次の子供を呼んだ。

 三塁側の出入口に、背の高い男が立っていた。

 帽子はかぶっていない。

 翔は腕時計を見た。


「遅えよ」

「悪い」

「二十七分」

「細かい」

「待ってる方は細かくなるんだよ」


 一人がグラウンドへ入ってくる。

 歩き方が、昔と少し違った。

 肩が厚い。

 腕も太くなっている。

 十五のころの一人は、もっと細かった。


 翔は、少しだけ笑った。


「久しぶり」

「うん」

「それだけか」

「何て言えばいい」


 一人は、変わっていなかった。

 子供たちが集まってきた。


「翔コーチの友達?」

「幼なじみ」

「昔から?」

「昔から」


 一人の前に、小さな子が立った。


「おじさん、野球できる?」


 翔は先に答えた。


「こいつ?」


 一人を見る。


「全然できねえよ」

「あん?」


 子供たちが笑った。


「じゃあ外野!」

「嫌だ」

「人が足りない!」


 小さなグラブが飛んでいった。

 一人が受け取る。

 手を入れた。


「小さい」

「それしかない」


 翔が言うと、一人はそのまま外野へ歩いていった。


    *


 最初の打球は、一人の少し前に落ちた。


「取れよ!」


 翔は叫んだ。


「今きたばっか」

「関係あるか!」


 次は、頭の上を越えた。

 一人が走る。

 速い。

 それは昔からだった。

 ただ、打球の落ちる場所へ、最初から向かっていた。

 昔の一人は、走ってから考えていた。

 追いついた。

 子供たちが声を上げる。


「できるじゃん!」

「すげー」


 一人が言う。


「たまたま」


 翔は笑った。


「昔から足だけは速かったんだよ」


 また笑いが起きた。

 しばらくして、休憩になった。

 89のシャツの子が、ベンチで水を飲んでいる。


「翔コーチ」

「どうしたの」

「Kって、カイル・ミラーなんでしょ?」

「どうかなぁ」

「父ちゃんが言ってた」

「父ちゃんが言ってるなら間違いないね」


 周りの子供が笑った。


「ネットにも書いてある!」

「ネットが言ってるなら間違いないね」


 また、笑いが起きた。

 翔も笑った。

 少し離れたところで、一人が借りたグラブの紐を直していた。

 顔を上げなかった。

 何も言わなかった。

 居心地が悪そうには、見えなかった。


    *


 日が傾くころ、練習が終わった。


「また来週!」

「おう。気をつけて帰れよ」


 子供たちが、順に球場を出ていく。

 最後に、89の背中が門の向こうへ消えた。

 急に静かになった。

 翔がボール籠を持ち上げると、一人が反対側を持った。


「疲れた」

「お前、見てただけだろ」

「守った」

「五分だけね」

「十分」


 二人でベンチまで運んだ。

 翔は腰を下ろした。

 一人も隣に座る。


「駅前、変わっただろ」

「変わった」

「迷った?」

「迷った」


 一人が少し笑った。


「お前も変わってない」

「どこが」

「そういうとこ」

「分かんね」

「あのあと、何してたんだよ」

「いろいろ」

「いろいろって」

「海外とか」


 翔は、一人の横顔を見た。


「……そっか」


 それ以上は聞かなかった。


 しばらく、昔の話をした。

 小学校のころ。

 中学のころ。

 高校へ入ったばかりのころ。

 自分が覚えていることを、一人が忘れていた。

 一人が覚えていることを、自分が忘れていた。

 二人とも覚えていることは、少しずつ違っていた。


「お前、俺のフォーム真似してたよな」

「してない」

「してた」

「してない」

「投げ方まで同じにしようとしてた」

「絶対ない」

「気持ち悪いくらい見てた」

「見てない」


 翔は声を上げて笑った。

 風が少し冷たくなった。

 足元に、しまい忘れたボールが一つ転がっていた。

 翔はそれを拾った。


「少しだけやるか」


 一人がこちらを見た。


「平気か?」

「このくらいなら全然大丈夫」


 二人は立った。

 十メートルほど離れる。

 翔は投げた。

 指からボールが離れる感触が、いつもより心地よかった。

 一人が受ける。

 ゆっくり返してくる。

 その返球が、胸の前にまっすぐ来た。

 もう一球。

 また、同じところへ来る。

 何球か続いた。

 翔はボールを投げた。


「お前、どう思う?」


 一人が投げ返してくる。


「何が」


 翔も投げ返した。


「Kの正体」


 一人は答えなかった。

 ボールだけが返ってきた。

 翔は、もう一度投げた。


「竹田より十くらい上か」


 一人がキャッチした。


「違う、竹田より若え」


 言いながら、一人はすぐに投げ返してきた。

 翔のグラブに入る。

 翔は、一人を見た。

 一人はもう、次の球を待っていた。


 数年前。

 あの喫茶店で、記者が言った。


「捕手の竹田選手は、Kは若いと言っていました」

「……今のは、できれば誰にも言わないでください」

「記事には使わないと、約束した話でした」


 翔は、グラブの中のボールを握った。


――やっぱり。


 一人が、不思議そうにこちらを見ていた。


「別に」


 翔は投げ返した。

 それ以上は聞かなかった。

 それでよかった。


「しかし、お前ほんと下手だったよな」

「ああ?」

「だって下手だったもん」

「お前が上手すぎた」

「足だけ速くて」

「お前が遅かった」


 翔は笑った。

 一人が投げる。

 翔が受ける。

 もう日が低かった。

 誰もいないグラウンドに、二人の影が長く伸びていた。


「でもさ」

「何」

「俺達ってなんだったんだろうな」

「ダチだ」


 一人が、こちらを見た。


「あと」


 一人は、手の中のボールを見た。


「野球選手」


 ボールが来た。


 翔のグラブが鳴った。


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