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K ―背番号89―  作者: K2MA


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32/34

第32話 今日

 二日遅れて始まったファイナルステージは、六試合目を迎えていた。

 場所は、初戦から変わっていない。

 福岡。

 ファルコンズの本拠地だった。


    *


 試合前。

 監督室に、三人だけがいた。

 伊丹は手元の紙を見ていた。


「先発はKだ」


 伊丹が紙に線を引いたところで、真壁がボールペンを二度ノックした。


「Kを、指名打者にも入れましょう」


 伊丹が顔を上げる。


「お前が言うのか」

「はい」


 真壁は淡々としていた。


「今までは、投げる日にまで打たせる必要はないと思ってました」


 伊丹は黙っていた。


「明日があるなら、止めます」


 真壁が続けた。


「今日負けたら、明日はありません」


 伊丹は真壁の顔を見た。

 いつも止める側の男が言い出している。

 負ければ終わる。

 そのとおりだ。

 伊丹が相沢を見る。


「打つ方は」

「準備はできてます」


 相沢は短く答えた。

 伊丹は紙に書き込んだ。


『七番 DH K』


 それ以上、話すことはなかった。


    *


 打順表がロッカーに貼られた。

 選手が集まる。


 七番の欄に、Kの名前があった。

 投手の欄にも、同じアルファベットがある。


 一人は、少し離れたところからそれを見ていた。

 紅と黒と金が、ロッカーの照明を返していた。

 誰も、何も言わなかった。

 言う必要もなかった。

 使えるものを全部使う。


 今日が全てだ。

 明日はない。


 一人はグラブを手に取った。


 第一戦は取った。

 ファルコンズに与えられていた一勝分のアドバンテージを消した。


 ただ、有馬には三打席、何もさせてもらえなかった。


 第二戦は落とした。


 第三戦を取り返した。


 第四戦を落とした。


 追い込まれた第五戦を、昨日、取った。


 三勝三敗。


 今日勝った方が日本シリーズだ。

 負ければ終わる。


 一人は、防具の留め具を確かめた。


 有馬健吾。


 第一戦で三度立って、三度やられた。

 一度も塁に出られなかった。

 しかも、今季が終わればアメリカだ。


 今日、投げるのに、打席にも立てる。


 初めてだった。


 有馬に勝つチャンスが、天から降ってきた。


 そう思えた。


 勝ちたい相手は、まだいた。


 滝川祐希。


 初登板の日に、本塁打を打たれた。

 抑えた打席もある。

 だが、勝ったと思える打席は思い出せなかった。


 有馬も。


 滝川も。


 今日だった。


 どっちにも勝つ。


 試合にも勝つ。


 一人は立ち上がった。


 竹田が先に通路へ出ていた。


 一人もその後ろへ続いた。


 歓声が近づいてくる。

 超満員の観客。


 そのほとんどが、フェニックスを待ち構えている。


    *


 一回裏。

 竹田が構えた。

 一人が投げる。

 水城は二塁ゴロ、大楠は三振、野間は右飛。

 三人で終わった。


 一人は竹田からボールを受け取った。

 十二球。

 二人でベンチへ戻った。


    *


 二回表。

 大島が倒れた。

 黒田も出られない。

 三好の打球を、遊撃手が弾いた。

 二死一塁。


『七番、K』


 歓声が上がった。


 一人は左打席へ入った。

 マウンドには有馬健吾がいた。


 今季が終われば、メジャーへ行く。


 メジャー。


 一人は有馬を見た。


 勝ち逃げは、もうごめんだった。


 バットを握り直す。


 今日中に絶対こいつに勝つ。


 有馬が投げた。


 カーブ、カットボール、フォーク。


 最後は直球だった。

 バットが遅れた。


「ストライク、バッターアウト!」


 一人は打席を出た。

 有馬はもうベンチへ向かっていた。


 くそったれが。


 一人は有馬を見ながらベンチへ戻った。


 バットを置く。


 次を見てろ。


 だが、攻略の糸口すら見つかっていなかった。


    *


 二回裏。


 先頭は滝川だった。


 二ボール一ストライク。

 竹田のミットが内へ寄った。

 一人が投げる。


 滝川が振った。

 音を聞いた瞬間、一人は振り返った。


 左中間。


 強い打球が伸びていく。


 早川が下がる。

 片瀬も下がる。


 二人ともすぐに止まった。


 打球は、弧を描くことなく一直線にスタンド中段へ入った。


 0対1。


 球場が、一度に跳ね上がった。

 外野席が波を打っている。


 一塁側から三塁側まで、揺れていない場所がなかった。

 ビジター席だけが、座ったままだった。

 滝川がダイヤモンドを回る。


 一人は見ていた。


 バケモノめ。


 そう思った。


 ホームを踏む。


 竹田から新しいボールが返ってきた。


 狙われた球も、投げた理由も、自分で分かっている。

 それで打たれただけだ。


 今のは、俺が悪い。


 握り直す。

 指がボールの縫い目を探した。


 武藤が打席へ入る。

 一人はもう、そちらを見ていた。

 武藤を二塁ゴロ、江口はスプリットで三振、矢崎は右飛。


 一点で終わった。


    *


 三回表。

 竹田が四球を選んだ。

 早川が一塁側へ転がす。

 竹田が二塁へ進む。

 一死。


 岩瀬が右前へ運んだ。

 竹田は三塁で止まった。

 一死一、三塁。


 日下部。

 有馬の球を右へ上げた。

 右翼手が下がる。

 捕った。

 竹田が走る。

 返球より先にホームへ入った。


 1対1。


 三塁側の一角だけが立ち上がった。

 球場の残りは、静かだった。

 片瀬が倒れ、攻撃は終わった。


 四球で出て。

 送って。

 一本つないで。

 外野へ上げた。

 それで一点だった。

 一人はグラブを持って立ち上がった。


    *


 三回裏。

 立花を三振、川瀬を遊撃ゴロ。

 水城に中前へ運ばれたが、大楠を詰まらせて二塁ゴロ。

 ゼロ。


    *


 四回表。

 大島が倒れた。

 黒田が左前へ運ぶ。

 三好は倒れた。

 二死一塁。


 一人に二打席目が来た。


 有馬を見る。


 今度はやる。


 気力だけは、みなぎっていた。


 直球から入った。

 前の打席とは、順番が違った。

 一ボール二ストライクから、詰まらされた。

 弱い打球が二塁へ転がる。

 大楠が前へ出る。

 一塁。


「アウト!」


 一人は走り抜けた。


 前の試合から、五打席。

 一度も、自分の形で打てていない。

 球が見えていないわけではない。

 合わない気はしない。

 だが、有馬がわずかにずらす。

 読んだ先を、有馬がまた変える。


 有馬は上手い。


 だからこそ、倒しがいがある。


 そう思いながら一人はベンチへ戻った。


    *


 四回裏。

 野間を一塁ゴロ。

 一死。


 滝川が打席へ入った。


 竹田が低めへ構える。


 一人が投げた。

 直球。

 ファウル。


 次はスプリット。

 滝川はバットを止めた。


 三球目。

 スイーパー。

 バットが出る。

 右前。


 滝川は一塁で止まった。

 この試合、二打席で二本。


 こいつもすごい、相変わらず。

 一人は竹田からボールを受け取った。


 続く武藤は左飛、二死。

 江口は直球に遅れ三振。


 滝川を一塁に残したまま、回が終わった。


 一人がベンチへ戻る。

 伊丹はいつもの場所にいた。

 腕を組んで、グラウンドを見ている。

 一人と目が合っても、何も言わなかった。


    *


 五回表。

 竹田は三塁ゴロ、早川が中飛。

 岩瀬は四球で出た。

 日下部が右前へ運んだ。

 二死一、二塁。

 片瀬はフォークに空振り三振。

 有馬はまたゼロを置いた。


    *


 五回裏。

 矢崎をスイーパーで三振、立花は遊撃ゴロ。

 川瀬に左前打を許したが、水城を浅い中飛に打ち取った。

 ゼロ。


    *


 六回表。

 大島は右飛。

 黒田はフォークに空振り三振。

 二死。


 三好が左前へ運んだ。


 一人は立ち上がった。

 バットを取る。


 三打席目。


 やはり、有馬がいた。


 前の二打席とは、また入り方が違った。


 初球。

 カーブ。

 見送る。

 ストライク。


 二球目。

 直球。

 一人が振る。

 ファウル。


 追い込まれた。


 三球目。

 フォーク。

 低い。

 一人は止めた。

 一ボール二ストライク。


 一人は打席を外した。


 三打席、前回のも合わせて六打席。

 全部違う順番だった。


 順番には意味がない。

 一人は、順番を追うのをやめた。

 一球一球は打てない球じゃない。

 何が来るか。

 考えるな。


 基本だ。


 カイルとのやり取りを思い出す。


 有馬の姿を、遠く、ぼんやりと見る。

 有馬に合わせ、軸足へ体を溜める。

 限界まで溜めて、解き放つ。

 体が回転して、合わせる。


 一人は、それだけをイメージして、打席に戻った。


 有馬が投げる。


 外へ逃げる。

 カットボール。

 それが分かった。


 バットは自然に出ていた。


 音がした。

 強い打球が低く伸びる。

 中堅。

 水城は数歩動くだけ。

 正面。

 捕った。


「アウト!」


 立ちかけた客が、そのまま座った。


 一人は一塁へ向かっていた。

 止まる。

 ベンチへ戻る。


 結果は同じだった。

 アウト。


 だが、今までとは違った。

 初めて、有馬の前で自然に体が回った。


 合った。


 バットを置いた。


 有馬を見る。


 次は、逃がすつもりはない。


    *


 六回裏。


 大楠。

 フルカウントから外れて四球、無死一塁。


 野間。

 一人が投げる。

 フルスイング。

 タイミングは完全に合っているように見えた。


 だが。


 バットの直前、一瞬でボールは下に消えた。

 ミットの乾いた音が球場に響く。

 三振。


 この日一番のスプリットだった。

 だが、一人は次の打者を見ていた。


    *


 ベンチの伊丹はマウンドをまっすぐに見ていた。


 落ちる手前まで、真っすぐにしか見えない。

 二十一年前、同じ球をミットで受けた。

 十八歳が、首を振ってまで投げたがった球だった。


 いつの間にか、右手が拳になっていた。


「気持ち悪いよ」


 名前も顔も分からない男を預けられた日、記者の前でそう言った。


 今は、違っていた。


    *


 六回裏、一死。


 滝川が入る。

 大楠が一塁にいる。

 歓声が大きくなる。


 滝川が打席に入ると観客が沸く。


 一人はそれが嫌いだった。


 うるさい。


 一人は投げた。


 滝川が振る。


 一人の背筋に、何かが走った。


 乾いた音。


 打球が高く上がった。


 中堅。


 早川が下がる。


 まだ下がる。


 フェンスの手前。


 捕った。


 大きなため息が鳴る。


 二死一塁。


 危ない当たりだった。


 滝川は、もうベンチへ向かっていた。


 次の武藤の打球が三遊間へ転がり内野安打、続く江口を抑えた。

 チェンジ。


 一人はベンチへ戻った。


 六回、一失点。

 同点のままだった。


 球数はまだ八十球程度。

 きっと、また滝川の打席は回ってくる。


 今日中に。


 必ず勝てる。


 根拠は何もなかったが、そう思った。


    *


 七回表。

 竹田、早川が打ち取られ二死。

 岩瀬が中前へ運んだが、日下部は続けなかった。


 有馬はまたゼロを置いた。


    *


 七回裏。

 矢崎を直球で三振。

 立花は右前へ運んだが、続く川瀬と水城を打ち取り、七回を終えた。


 1対1。


 一人がベンチへ戻る。

 竹田が隣を歩いている。

 水城への最後の一球は、竹田がサインを出すより先に、一人がスイーパーを握っていた。

 二人とも、その話はしなかった。


    *


 八回表。

 片瀬が二塁ゴロに倒れた。

 一死。


 大島が四球。


 黒田が右前へ運ぶ。

 一死一、二塁。


 三好はフォークに空振り三振。


 一人はバットを取った。

 四打席目。


 有馬がまだマウンドにいた。


 一人は球場を見渡した。


 八回表、二死一、二塁。点差はない。


 おあつらえ向きだった。


 三打席目の感触は手に残っている。


 ここで決める。


 左打席へ入る。


 有馬が投げる。

 外。

 ボール。


 次はカットボール。

 ストライク。


 三球目。

 フォーク。

 低い。

 一人は振らない。

 二ボール一ストライク。


 直球。

 ファウル。

 二ボール二ストライク。


 有馬が投げる。

 外れた。

 三ボール二ストライク。


 一人はバットを握り直した。


 二死一、二塁。


 ここで打てば、勝ち越せる。


 俺が有馬を倒して、チームも勝つ。


 来い。


 有馬が投げた。


 外。


 球がストライクゾーンを通らないことは、途中で分かった。


 バットは出なかった。


「ボール、フォア!」


 二死満塁。


 一人は一瞬、そのまま立っていた。

 打てなかった。

 最後まで、打つ球は来なかった。


 バットを置く。

 一塁へ向かう。


 ファルコンズのベンチから監督が出てきた。


 一人は一塁へ着いた。

 有馬を見る。


 やがて、有馬がマウンドを降りた。

 拍手も降りてきた。

 球場のほとんどが、その背中に向けて手を叩いている。


 ……またか。


 有馬が歩き出す。


 また、勝てなかった。


 第一戦もそうだった。

 何もできないまま、有馬が先にいなくなった。

 今日は違った。

 三打席目で、ようやく合った。

 次は打てると思った。


 だが、四球だった。


 そして、もう終わる。


 今季が終われば、有馬は海を渡る。

 勝てないまま終わる相手がいる。


 それは、初めてではなかった。


 あのときは、受け入れられなかった。


 不思議な感覚だった。


 悔しくないわけではない。

 紅い防具の中で、今、自分がどんな顔をしているのか。


 見られる人間は、誰もいない。


 自分でも、分からなかった。


 続く竹田は二塁ゴロに倒れた。

 二死満塁で打てなかったのが悔しそうに見えた。

 だが、竹田の表情はすぐに戻り、何もなかったように防具をつけ直していた。


    *


 八回裏。


 大楠を打ち取り一死。


 続く野間に右中間へ運ばれた。

 早川が走る。

 届かない。

 野間は二塁へ立った。

 一死二塁。


 そして。


 再び。


 滝川が出てくる。


 一人はロジンに触れた。


 お前まで、逃がす気はない。


 初球。

 直球。

 外。

 ボール。


 二球目。

 スイーパー。

 滝川が振る。

 ファウル。


 三球目。

 スプリット。

 低い。

 見送った。

 二ボール一ストライク。


 竹田が内へ構えた。

 一人が投げる。


 滝川が振る。


 乾いた音がした。


 大きな打球が一塁側へ伸びる。


 スタジアムがどよめく。


 切れる。


 スタンドへ飛び込んだ。


 ファウル。


 二ボール二ストライク。

 一人は新しいボールを受け取った。


 あと一つ。


 滝川を見る。


 ここで終わらせる。


 朝からずっとそうだった。


 有馬にも。

 滝川にも。


 今日勝つ。

 必ず勝つ。


 有馬には、勝てなかった。


 だが。


 ――お前だけは――


 一人は、ふと一塁を見た。


 さっきまで、自分がそこにいた。


 でも今は空いている。


 一人の中で、何かが消えた気がした。


 竹田を見る。

 竹田も一塁を見ていた。

 一人が見ていたからなのか。


 分からない。


 竹田はもう一度、一人を見る。


 そして、滝川を見る。


(今日だけだ)


 竹田のミットが外へ動いた。

 一人が投げる。

 大きく外れた。

 三ボール二ストライク。

 球場が、ざわついた。


 再び竹田は構えた。


 一塁側から、声が飛んでくる。

 三万人は、この勝負を待っている。


 一人が投げる。


(いつか絶対、勝ってやる)


「ボール、フォア!」


 ブーイングが降ってきた。

 滝川が一塁へ向かう。

 一死一、二塁。


 伊丹は、ベンチの前で立っているだけだった。


 五番、武藤。

 竹田がサインを出す。

 一人がうなずく。


 初球。


 武藤が振った。


 強いライナーが、一、二塁間へ抜けていく。


 抜けた、と思った。


 三十五歳の二塁手が、横へ飛んだ。


 身体が宙に浮く。


 グラブが伸びる。


 白が、その先に消えた。


「アウト!」


 滝川は、もう一塁を大きく離れていた。


 大島は倒れたまま、グラブからボールを取り出した。


 膝をつく。


 起き上がりながら、一塁へ投げた。

 滝川が戻る。

 届かない。


「アウト!」


 チェンジ。


 球場の音が、消える。

 三塁側の一角だけが、沸いていた。


 大島が立ち上がり、ユニフォームの土を払っている。

 一人はマウンドを降りた。


 途中で、大島と並んだ。

 何も言わなかった。

 大島も言わなかった。


 二人で、同じベンチへ戻った。


    *


 伊丹は、戻ってくるKを見ていた。


 歩かせろ、とは言っていない。

 勝負しろ、とも言っていない。


 二十一年前、マウンドの十八歳に言ったことがある。

 首振るのは、好きにしろ。

 ただし、理由持って振れ。


 紅い防具は、理由を見つけたのかもしれない。


 Kはグラブを持ってベンチの前に立っていた。


「今日はここまでだ」


 Kは伊丹を見る。


 そして、うなずいた。


 八回、百七球。


 今日の投球は、最高の出来に見えた。


 だが、Kは投球の出来を気にしている様子はなかった。


 伊丹も、何も言わなかった。


    *


 九回表。


 一人はベンチの前に立っていた。


 球場の雰囲気はあまり覚えていない。


 時間は、やたらゆっくりと流れているように感じた。


 フェニックス九番、早川が右前へ運んだ。

 無死一塁。


 岩瀬が送る。

 一死二塁。


 日下部は二塁へ転がした。

 早川が三塁へ進む。

 二死三塁。


 打席は片瀬。

 追い込まれてから、外の球を右へ運んだ。


 打球が一、二塁間を抜ける。


 早川がホームを踏む。


 2対1。


 大島が倒れ、チェンジ。


 一点。


 たった一点。


 その一点は大きかった。


 フェニックスの野手たちが、九回裏の守備へ向かう。


 何度か、背中や腕を叩かれた。


 柴崎には防具を叩かれた。


 その柴崎がマウンドへ上がる。


 竹田がしゃがむ。


 江口を左飛に打ち取り、一死。


 ファルコンズのベンチが動く。

 出てきた代打を追い込んで、空振り三振、二死。


 また、代打が出てくる。


 初球を見送る。

 次をファウル。


 三球目は低い。


 四球目も、ファウル。


 五球目、六球目と、外野席へ切れていく。


 七球目だった。


 打った。


 遊撃へ転がる。


 捕る。


 一塁へ。


「アウト!」

「ゲームセット!」


 竹田が立ち上がった。


 柴崎へ走る。


 大島も飛び出した。


 選手が次々にグラウンドへ出ていく。


 一人も走っていた。


 途中で、一度だけスコアボードを見た。


 2対1。


 三万人の球場が、静かになった。


 三塁側の一角だけは、ひときわ大きな歓喜の音。


 マウンドの近くで、竹田と目が合った。


 竹田が何か言った。


 歓声で、聞こえなかった。


 だが、一人は何度かうなずいた。


    *


 しばらくしても、球場の音は消えなかった。

 記者席では、原稿を送る音と声が重なっていた。


「結局、Kって誰なんだろうな」


 誰かが言った。


「ここまで来ても何も出ないとは思わなかった」

「日本シリーズもこのままだろ」

「球団も徹底してるよな」


 榊原遼介はグラウンドを見ていた。

 彼らが知りたがっている名前を、榊原は知っている。


 森川一人。


 七年前。

 甲子園のベンチにいた一年生。

 母親を事故で失った少年。

 そのあと、日本の記録から消えた。

 数年後、北米でONOと名乗って投げていた。


 そして今。


 東条フェニックスのK。


 森川一人。


 榊原はもう疑っていなかった。

 だが、その名前が分かったからといって、全部が分かったわけではない。

 むしろ逆だった。


 七年前の事故には東条の名前がある。

 今、その男は東条の球団にいる。


 広瀬和巳に似たものを持っている。

 海外へ渡り、戻ってきた。

 名前を隠している。

 顔も隠している。

 何も語らない。


 森川一人という名前を知ってから、その一つ一つが重くなった。


 榊原が知らない時間の方が長い。


 どうやって投手になったのか。

 どうしてここへ来たのか。

 なぜ、Kでなければならないのか。


 分からない。

 ただ、フェニックスへ来てからのことなら見ていた。


 今日、竹田は八回までKの球を受けた。


 伊丹は、ほとんど動かなかった。


 大島が、八回の打球を捕った。


 最後は柴崎が投げた。


 グラウンドには、まだ選手が集まっている。


 紅と黒と金の防具が見える。


 竹田はその近くにいる。


 大島もいる。


 少し離れて、伊丹がいる。


「なんで、そこまで隠すんだろうな」


 後ろから声がした。

 榊原は答えなかった。


 森川一人。


 名前は知っている。

 それでも、今そこにいる男を、その四文字だけで説明できるとは思わなかった。

 榊原はグラウンドを見た。


 Kは、フェニックスの選手たちの中にいた。


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