第32話 今日
二日遅れて始まったファイナルステージは、六試合目を迎えていた。
場所は、初戦から変わっていない。
福岡。
ファルコンズの本拠地だった。
*
試合前。
監督室に、三人だけがいた。
伊丹は手元の紙を見ていた。
「先発はKだ」
伊丹が紙に線を引いたところで、真壁がボールペンを二度ノックした。
「Kを、指名打者にも入れましょう」
伊丹が顔を上げる。
「お前が言うのか」
「はい」
真壁は淡々としていた。
「今までは、投げる日にまで打たせる必要はないと思ってました」
伊丹は黙っていた。
「明日があるなら、止めます」
真壁が続けた。
「今日負けたら、明日はありません」
伊丹は真壁の顔を見た。
いつも止める側の男が言い出している。
負ければ終わる。
そのとおりだ。
伊丹が相沢を見る。
「打つ方は」
「準備はできてます」
相沢は短く答えた。
伊丹は紙に書き込んだ。
『七番 DH K』
それ以上、話すことはなかった。
*
打順表がロッカーに貼られた。
選手が集まる。
七番の欄に、Kの名前があった。
投手の欄にも、同じアルファベットがある。
一人は、少し離れたところからそれを見ていた。
紅と黒と金が、ロッカーの照明を返していた。
誰も、何も言わなかった。
言う必要もなかった。
使えるものを全部使う。
今日が全てだ。
明日はない。
一人はグラブを手に取った。
第一戦は取った。
ファルコンズに与えられていた一勝分のアドバンテージを消した。
ただ、有馬には三打席、何もさせてもらえなかった。
第二戦は落とした。
第三戦を取り返した。
第四戦を落とした。
追い込まれた第五戦を、昨日、取った。
三勝三敗。
今日勝った方が日本シリーズだ。
負ければ終わる。
一人は、防具の留め具を確かめた。
有馬健吾。
第一戦で三度立って、三度やられた。
一度も塁に出られなかった。
しかも、今季が終わればアメリカだ。
今日、投げるのに、打席にも立てる。
初めてだった。
有馬に勝つチャンスが、天から降ってきた。
そう思えた。
勝ちたい相手は、まだいた。
滝川祐希。
初登板の日に、本塁打を打たれた。
抑えた打席もある。
だが、勝ったと思える打席は思い出せなかった。
有馬も。
滝川も。
今日だった。
どっちにも勝つ。
試合にも勝つ。
一人は立ち上がった。
竹田が先に通路へ出ていた。
一人もその後ろへ続いた。
歓声が近づいてくる。
超満員の観客。
そのほとんどが、フェニックスを待ち構えている。
*
一回裏。
竹田が構えた。
一人が投げる。
水城は二塁ゴロ、大楠は三振、野間は右飛。
三人で終わった。
一人は竹田からボールを受け取った。
十二球。
二人でベンチへ戻った。
*
二回表。
大島が倒れた。
黒田も出られない。
三好の打球を、遊撃手が弾いた。
二死一塁。
『七番、K』
歓声が上がった。
一人は左打席へ入った。
マウンドには有馬健吾がいた。
今季が終われば、メジャーへ行く。
メジャー。
一人は有馬を見た。
勝ち逃げは、もうごめんだった。
バットを握り直す。
今日中に絶対こいつに勝つ。
有馬が投げた。
カーブ、カットボール、フォーク。
最後は直球だった。
バットが遅れた。
「ストライク、バッターアウト!」
一人は打席を出た。
有馬はもうベンチへ向かっていた。
くそったれが。
一人は有馬を見ながらベンチへ戻った。
バットを置く。
次を見てろ。
だが、攻略の糸口すら見つかっていなかった。
*
二回裏。
先頭は滝川だった。
二ボール一ストライク。
竹田のミットが内へ寄った。
一人が投げる。
滝川が振った。
音を聞いた瞬間、一人は振り返った。
左中間。
強い打球が伸びていく。
早川が下がる。
片瀬も下がる。
二人ともすぐに止まった。
打球は、弧を描くことなく一直線にスタンド中段へ入った。
0対1。
球場が、一度に跳ね上がった。
外野席が波を打っている。
一塁側から三塁側まで、揺れていない場所がなかった。
ビジター席だけが、座ったままだった。
滝川がダイヤモンドを回る。
一人は見ていた。
バケモノめ。
そう思った。
ホームを踏む。
竹田から新しいボールが返ってきた。
狙われた球も、投げた理由も、自分で分かっている。
それで打たれただけだ。
今のは、俺が悪い。
握り直す。
指がボールの縫い目を探した。
武藤が打席へ入る。
一人はもう、そちらを見ていた。
武藤を二塁ゴロ、江口はスプリットで三振、矢崎は右飛。
一点で終わった。
*
三回表。
竹田が四球を選んだ。
早川が一塁側へ転がす。
竹田が二塁へ進む。
一死。
岩瀬が右前へ運んだ。
竹田は三塁で止まった。
一死一、三塁。
日下部。
有馬の球を右へ上げた。
右翼手が下がる。
捕った。
竹田が走る。
返球より先にホームへ入った。
1対1。
三塁側の一角だけが立ち上がった。
球場の残りは、静かだった。
片瀬が倒れ、攻撃は終わった。
四球で出て。
送って。
一本つないで。
外野へ上げた。
それで一点だった。
一人はグラブを持って立ち上がった。
*
三回裏。
立花を三振、川瀬を遊撃ゴロ。
水城に中前へ運ばれたが、大楠を詰まらせて二塁ゴロ。
ゼロ。
*
四回表。
大島が倒れた。
黒田が左前へ運ぶ。
三好は倒れた。
二死一塁。
一人に二打席目が来た。
有馬を見る。
今度はやる。
気力だけは、みなぎっていた。
直球から入った。
前の打席とは、順番が違った。
一ボール二ストライクから、詰まらされた。
弱い打球が二塁へ転がる。
大楠が前へ出る。
一塁。
「アウト!」
一人は走り抜けた。
前の試合から、五打席。
一度も、自分の形で打てていない。
球が見えていないわけではない。
合わない気はしない。
だが、有馬がわずかにずらす。
読んだ先を、有馬がまた変える。
有馬は上手い。
だからこそ、倒しがいがある。
そう思いながら一人はベンチへ戻った。
*
四回裏。
野間を一塁ゴロ。
一死。
滝川が打席へ入った。
竹田が低めへ構える。
一人が投げた。
直球。
ファウル。
次はスプリット。
滝川はバットを止めた。
三球目。
スイーパー。
バットが出る。
右前。
滝川は一塁で止まった。
この試合、二打席で二本。
こいつもすごい、相変わらず。
一人は竹田からボールを受け取った。
続く武藤は左飛、二死。
江口は直球に遅れ三振。
滝川を一塁に残したまま、回が終わった。
一人がベンチへ戻る。
伊丹はいつもの場所にいた。
腕を組んで、グラウンドを見ている。
一人と目が合っても、何も言わなかった。
*
五回表。
竹田は三塁ゴロ、早川が中飛。
岩瀬は四球で出た。
日下部が右前へ運んだ。
二死一、二塁。
片瀬はフォークに空振り三振。
有馬はまたゼロを置いた。
*
五回裏。
矢崎をスイーパーで三振、立花は遊撃ゴロ。
川瀬に左前打を許したが、水城を浅い中飛に打ち取った。
ゼロ。
*
六回表。
大島は右飛。
黒田はフォークに空振り三振。
二死。
三好が左前へ運んだ。
一人は立ち上がった。
バットを取る。
三打席目。
やはり、有馬がいた。
前の二打席とは、また入り方が違った。
初球。
カーブ。
見送る。
ストライク。
二球目。
直球。
一人が振る。
ファウル。
追い込まれた。
三球目。
フォーク。
低い。
一人は止めた。
一ボール二ストライク。
一人は打席を外した。
三打席、前回のも合わせて六打席。
全部違う順番だった。
順番には意味がない。
一人は、順番を追うのをやめた。
一球一球は打てない球じゃない。
何が来るか。
考えるな。
基本だ。
カイルとのやり取りを思い出す。
有馬の姿を、遠く、ぼんやりと見る。
有馬に合わせ、軸足へ体を溜める。
限界まで溜めて、解き放つ。
体が回転して、合わせる。
一人は、それだけをイメージして、打席に戻った。
有馬が投げる。
外へ逃げる。
カットボール。
それが分かった。
バットは自然に出ていた。
音がした。
強い打球が低く伸びる。
中堅。
水城は数歩動くだけ。
正面。
捕った。
「アウト!」
立ちかけた客が、そのまま座った。
一人は一塁へ向かっていた。
止まる。
ベンチへ戻る。
結果は同じだった。
アウト。
だが、今までとは違った。
初めて、有馬の前で自然に体が回った。
合った。
バットを置いた。
有馬を見る。
次は、逃がすつもりはない。
*
六回裏。
大楠。
フルカウントから外れて四球、無死一塁。
野間。
一人が投げる。
フルスイング。
タイミングは完全に合っているように見えた。
だが。
バットの直前、一瞬でボールは下に消えた。
ミットの乾いた音が球場に響く。
三振。
この日一番のスプリットだった。
だが、一人は次の打者を見ていた。
*
ベンチの伊丹はマウンドをまっすぐに見ていた。
落ちる手前まで、真っすぐにしか見えない。
二十一年前、同じ球をミットで受けた。
十八歳が、首を振ってまで投げたがった球だった。
いつの間にか、右手が拳になっていた。
「気持ち悪いよ」
名前も顔も分からない男を預けられた日、記者の前でそう言った。
今は、違っていた。
*
六回裏、一死。
滝川が入る。
大楠が一塁にいる。
歓声が大きくなる。
滝川が打席に入ると観客が沸く。
一人はそれが嫌いだった。
うるさい。
一人は投げた。
滝川が振る。
一人の背筋に、何かが走った。
乾いた音。
打球が高く上がった。
中堅。
早川が下がる。
まだ下がる。
フェンスの手前。
捕った。
大きなため息が鳴る。
二死一塁。
危ない当たりだった。
滝川は、もうベンチへ向かっていた。
次の武藤の打球が三遊間へ転がり内野安打、続く江口を抑えた。
チェンジ。
一人はベンチへ戻った。
六回、一失点。
同点のままだった。
球数はまだ八十球程度。
きっと、また滝川の打席は回ってくる。
今日中に。
必ず勝てる。
根拠は何もなかったが、そう思った。
*
七回表。
竹田、早川が打ち取られ二死。
岩瀬が中前へ運んだが、日下部は続けなかった。
有馬はまたゼロを置いた。
*
七回裏。
矢崎を直球で三振。
立花は右前へ運んだが、続く川瀬と水城を打ち取り、七回を終えた。
1対1。
一人がベンチへ戻る。
竹田が隣を歩いている。
水城への最後の一球は、竹田がサインを出すより先に、一人がスイーパーを握っていた。
二人とも、その話はしなかった。
*
八回表。
片瀬が二塁ゴロに倒れた。
一死。
大島が四球。
黒田が右前へ運ぶ。
一死一、二塁。
三好はフォークに空振り三振。
一人はバットを取った。
四打席目。
有馬がまだマウンドにいた。
一人は球場を見渡した。
八回表、二死一、二塁。点差はない。
おあつらえ向きだった。
三打席目の感触は手に残っている。
ここで決める。
左打席へ入る。
有馬が投げる。
外。
ボール。
次はカットボール。
ストライク。
三球目。
フォーク。
低い。
一人は振らない。
二ボール一ストライク。
直球。
ファウル。
二ボール二ストライク。
有馬が投げる。
外れた。
三ボール二ストライク。
一人はバットを握り直した。
二死一、二塁。
ここで打てば、勝ち越せる。
俺が有馬を倒して、チームも勝つ。
来い。
有馬が投げた。
外。
球がストライクゾーンを通らないことは、途中で分かった。
バットは出なかった。
「ボール、フォア!」
二死満塁。
一人は一瞬、そのまま立っていた。
打てなかった。
最後まで、打つ球は来なかった。
バットを置く。
一塁へ向かう。
ファルコンズのベンチから監督が出てきた。
一人は一塁へ着いた。
有馬を見る。
やがて、有馬がマウンドを降りた。
拍手も降りてきた。
球場のほとんどが、その背中に向けて手を叩いている。
……またか。
有馬が歩き出す。
また、勝てなかった。
第一戦もそうだった。
何もできないまま、有馬が先にいなくなった。
今日は違った。
三打席目で、ようやく合った。
次は打てると思った。
だが、四球だった。
そして、もう終わる。
今季が終われば、有馬は海を渡る。
勝てないまま終わる相手がいる。
それは、初めてではなかった。
あのときは、受け入れられなかった。
不思議な感覚だった。
悔しくないわけではない。
紅い防具の中で、今、自分がどんな顔をしているのか。
見られる人間は、誰もいない。
自分でも、分からなかった。
続く竹田は二塁ゴロに倒れた。
二死満塁で打てなかったのが悔しそうに見えた。
だが、竹田の表情はすぐに戻り、何もなかったように防具をつけ直していた。
*
八回裏。
大楠を打ち取り一死。
続く野間に右中間へ運ばれた。
早川が走る。
届かない。
野間は二塁へ立った。
一死二塁。
そして。
再び。
滝川が出てくる。
一人はロジンに触れた。
お前まで、逃がす気はない。
初球。
直球。
外。
ボール。
二球目。
スイーパー。
滝川が振る。
ファウル。
三球目。
スプリット。
低い。
見送った。
二ボール一ストライク。
竹田が内へ構えた。
一人が投げる。
滝川が振る。
乾いた音がした。
大きな打球が一塁側へ伸びる。
スタジアムがどよめく。
切れる。
スタンドへ飛び込んだ。
ファウル。
二ボール二ストライク。
一人は新しいボールを受け取った。
あと一つ。
滝川を見る。
ここで終わらせる。
朝からずっとそうだった。
有馬にも。
滝川にも。
今日勝つ。
必ず勝つ。
有馬には、勝てなかった。
だが。
――お前だけは――
一人は、ふと一塁を見た。
さっきまで、自分がそこにいた。
でも今は空いている。
一人の中で、何かが消えた気がした。
竹田を見る。
竹田も一塁を見ていた。
一人が見ていたからなのか。
分からない。
竹田はもう一度、一人を見る。
そして、滝川を見る。
(今日だけだ)
竹田のミットが外へ動いた。
一人が投げる。
大きく外れた。
三ボール二ストライク。
球場が、ざわついた。
再び竹田は構えた。
一塁側から、声が飛んでくる。
三万人は、この勝負を待っている。
一人が投げる。
(いつか絶対、勝ってやる)
「ボール、フォア!」
ブーイングが降ってきた。
滝川が一塁へ向かう。
一死一、二塁。
伊丹は、ベンチの前で立っているだけだった。
五番、武藤。
竹田がサインを出す。
一人がうなずく。
初球。
武藤が振った。
強いライナーが、一、二塁間へ抜けていく。
抜けた、と思った。
三十五歳の二塁手が、横へ飛んだ。
身体が宙に浮く。
グラブが伸びる。
白が、その先に消えた。
「アウト!」
滝川は、もう一塁を大きく離れていた。
大島は倒れたまま、グラブからボールを取り出した。
膝をつく。
起き上がりながら、一塁へ投げた。
滝川が戻る。
届かない。
「アウト!」
チェンジ。
球場の音が、消える。
三塁側の一角だけが、沸いていた。
大島が立ち上がり、ユニフォームの土を払っている。
一人はマウンドを降りた。
途中で、大島と並んだ。
何も言わなかった。
大島も言わなかった。
二人で、同じベンチへ戻った。
*
伊丹は、戻ってくるKを見ていた。
歩かせろ、とは言っていない。
勝負しろ、とも言っていない。
二十一年前、マウンドの十八歳に言ったことがある。
首振るのは、好きにしろ。
ただし、理由持って振れ。
紅い防具は、理由を見つけたのかもしれない。
Kはグラブを持ってベンチの前に立っていた。
「今日はここまでだ」
Kは伊丹を見る。
そして、うなずいた。
八回、百七球。
今日の投球は、最高の出来に見えた。
だが、Kは投球の出来を気にしている様子はなかった。
伊丹も、何も言わなかった。
*
九回表。
一人はベンチの前に立っていた。
球場の雰囲気はあまり覚えていない。
時間は、やたらゆっくりと流れているように感じた。
フェニックス九番、早川が右前へ運んだ。
無死一塁。
岩瀬が送る。
一死二塁。
日下部は二塁へ転がした。
早川が三塁へ進む。
二死三塁。
打席は片瀬。
追い込まれてから、外の球を右へ運んだ。
打球が一、二塁間を抜ける。
早川がホームを踏む。
2対1。
大島が倒れ、チェンジ。
一点。
たった一点。
その一点は大きかった。
フェニックスの野手たちが、九回裏の守備へ向かう。
何度か、背中や腕を叩かれた。
柴崎には防具を叩かれた。
その柴崎がマウンドへ上がる。
竹田がしゃがむ。
江口を左飛に打ち取り、一死。
ファルコンズのベンチが動く。
出てきた代打を追い込んで、空振り三振、二死。
また、代打が出てくる。
初球を見送る。
次をファウル。
三球目は低い。
四球目も、ファウル。
五球目、六球目と、外野席へ切れていく。
七球目だった。
打った。
遊撃へ転がる。
捕る。
一塁へ。
「アウト!」
「ゲームセット!」
竹田が立ち上がった。
柴崎へ走る。
大島も飛び出した。
選手が次々にグラウンドへ出ていく。
一人も走っていた。
途中で、一度だけスコアボードを見た。
2対1。
三万人の球場が、静かになった。
三塁側の一角だけは、ひときわ大きな歓喜の音。
マウンドの近くで、竹田と目が合った。
竹田が何か言った。
歓声で、聞こえなかった。
だが、一人は何度かうなずいた。
*
しばらくしても、球場の音は消えなかった。
記者席では、原稿を送る音と声が重なっていた。
「結局、Kって誰なんだろうな」
誰かが言った。
「ここまで来ても何も出ないとは思わなかった」
「日本シリーズもこのままだろ」
「球団も徹底してるよな」
榊原遼介はグラウンドを見ていた。
彼らが知りたがっている名前を、榊原は知っている。
森川一人。
七年前。
甲子園のベンチにいた一年生。
母親を事故で失った少年。
そのあと、日本の記録から消えた。
数年後、北米でONOと名乗って投げていた。
そして今。
東条フェニックスのK。
森川一人。
榊原はもう疑っていなかった。
だが、その名前が分かったからといって、全部が分かったわけではない。
むしろ逆だった。
七年前の事故には東条の名前がある。
今、その男は東条の球団にいる。
広瀬和巳に似たものを持っている。
海外へ渡り、戻ってきた。
名前を隠している。
顔も隠している。
何も語らない。
森川一人という名前を知ってから、その一つ一つが重くなった。
榊原が知らない時間の方が長い。
どうやって投手になったのか。
どうしてここへ来たのか。
なぜ、Kでなければならないのか。
分からない。
ただ、フェニックスへ来てからのことなら見ていた。
今日、竹田は八回までKの球を受けた。
伊丹は、ほとんど動かなかった。
大島が、八回の打球を捕った。
最後は柴崎が投げた。
グラウンドには、まだ選手が集まっている。
紅と黒と金の防具が見える。
竹田はその近くにいる。
大島もいる。
少し離れて、伊丹がいる。
「なんで、そこまで隠すんだろうな」
後ろから声がした。
榊原は答えなかった。
森川一人。
名前は知っている。
それでも、今そこにいる男を、その四文字だけで説明できるとは思わなかった。
榊原はグラウンドを見た。
Kは、フェニックスの選手たちの中にいた。




