第31話 輪
車が走り出した。
一人は後部座席に座っていた。
隣にバッグがある。
中には、顔を覆う防具が入っている。
いつもの男は助手席にいた。
前を向いたまま言った。
「一人様」
一人は男に視線を向ける。
「球場へ到着する前に、防具をご着用いただけますでしょうか」
「今?」
「球場の関係者用入口から入りますが、選手、職員、業者の方々も出入りいたします」
男が振り返る。
いつもの笑顔だった。
「到着した時点から、Kとしてお入りいただく方がよろしいかと」
一人はバッグを開けた。
紅。
黒。
金。
取り出す。
頭から被った。
留め具を締める。
視界を確かめた。
男がもう一度振り返った。
笑顔は変わらなかった。
「よくお似合いでございます」
一人は返事をせず、窓の外へ顔を向けた。
防具の頬に、車窓から入る光が当たった。
しばらくして、車が速度を落とした。
「間もなく到着いたします」
一人は返事をしなかった。
男も、それ以上は話さなかった。
*
車が止まった。
ドアが開く。
外にスーツ姿の男が立っていた。
久世隆文。
東条フェニックスのGM。
一人は車を降りた。
久世の視線が、紅い防具で止まった。
「Kさんですね」
一人はうなずいた。
「久世です。お待ちしていました」
後ろで、いつもの男が頭を下げる。
「それでは、よろしくお願いいたします」
「承知しました」
久世が答えた。
一人は振り返らなかった。
「こちらです」
久世が歩き出した。
その後ろを歩く。
通路に入った。
すれ違う人間が、全員こちらを見た。
久世から必要な説明を受けた。
着替え用の個室も用意されていた。
監督とも会った。
本日付で登録。
登録名はK。
背番号89。
今夜、先発。
それ以降の起用は現場が決める。
聞いていた通りだった。
それだけ分かればよかった。
監督は、機嫌が悪かった。
当たり前だと思った。
朝まで名前も知らない投手が、今夜投げるのだ。
「十球で駄目なら、十球で代える」
一人はうなずいた。
十球あれば十分だと思った。
*
夜。
一人はベンチからグラウンドを見た。
昼に見た場所とは違っていた。
照明。
歓声。
三万人を超える人間。
声が重なって、形のないものが上から降ってくる。
海外でもここまで客の入った球場はなかった。
こんな音は初めてだった。
やがて場内アナウンスが流れた。
『東条フェニックス、本日の先発ピッチャー――K。背番号89』
ざわめきが大きくなった。
一人はベンチを出た。
マウンドへ向かう。
視線が集まる。
顔を隠しているから、余計に見られる。
おかしな話だった。
マウンドへ上がった。
土を踏む。
プレートを確かめる。
ホームを見る。
外野を見る。
スタンドを見る。
広い。
人が多い。
うるさい。
一人はボールを受け取った。
もう一度、ホームを見る。
距離は同じだった。
それならいい。
*
『四番――滝川祐希』
球場の音が変わった。
一人は打席を見た。
デカい。
最初に思ったのは、それだった。
四年続けて四十本以上。
その数字は知っていた。
数字より、打席に立った時の方が大きく見えた。
一人は投げた。
滝川が振った。
二ランホームラン。
滝川がベースを回る。
一人はマウンドに残った。
初めて対戦した日本のトップ打者に、いきなり打たれた。
腹が立った。
だが、次は勝つ。
それだけだった。
*
二回にも一点を取られた。
一人は球速を上げた。
(速くすれば、打てない)
だが滝川だった。
今度は直球だけではいかなかった。
だが、フェンス直撃。
二死二、三塁。
一人は二塁の滝川を見た。
直球でも打つ。
変化球でも打つ。
なら。
もっと速くする。
次の打者。
一五八。
一五九。
そして。
一六〇。
空振り。
球場が揺れた。
大型ビジョンに、
160 km/h。
と出ていた。
ベンチへ戻る。
周りでは百六十の話をしていた。
一人も同じことを考えていた。
速くすれば、打てない。
隣に竹田が座った。
「誰が百六十出せっつった?」
一人は黙っていた。
「数字じゃなくて、打者を見ろ」
打者を見ろ。
遠い昔。
広瀬にも、同じ事を言われたのを思い出した。
一人は、もう一度グラウンドを見た。
次の回から、球速を落とした。
*
七回。
また滝川だった。
一人は打席を見た。
待っている。
いや。
待っていることを、こっちに見せている。
竹田がサインを出す。
一人はうなずいた。
投げる。
スプリット。
空振り。
その夜一番大きな歓声が上がった。
一人はベンチへ戻った。
初めて日本のプロで投げた試合だった。
4対3。
勝った。
だが勝った感じは、しなかった。
三回のフェンス直撃。
あの打球が少し横へ跳ねていたら、走者は還っていた。
その先は、分からない。
今日は、運がよかっただけだ。
屋敷に戻ってからも、一人はその場面を何度も見返した。
広瀬なら、何と言っただろう。
打たれた球のことか。
跳ね返りのことか。
聞ける相手は、もういなかった。
一人は練習場の電気をつけた。
カイルを呼んだ。
「真似して」
「誰を」
「滝川」
カイルは何も聞かずにバットを持った。
*
それから、何度か投げた。
前の試合で通じた球は、次には待たれた。
直せば、また別のところを見られた。
竹田は、一人が何を見て首を振っているのかを、少しずつ分かるようになっていた。
ある日、紙とペンを差し出された。
一人は、ペンを取らなかった。
書けば、それはもう声と同じだった。
竹田は理由を聞かなかった。
だが、それで話は通じた。
一人も、竹田が何を見ているのかを見るようになった。
一度、竹田が譲らなかったことがある。
一人の読みとは、違う球だった。
投げた。
打ち取れた。
言葉は使わなかった。
それでも試合はできた。
そのことに、一人は特別な感想を持たなかった。
野球ができるなら、それでよかった。
*
ある日。
ロッカーのテレビから名前が聞こえた。
『広瀬和巳』
一人の手が止まった。
タオルを畳んでいた。
画面を見る。
自分の投球映像と、昔の広瀬の映像が並んでいる。
似ている。
当たり前だった。
ロッカーでは、笑い声が続いていた。
死亡偽装。
二十年若返った。
足し算で二百勝。
誰にも悪意はなかった。
広瀬はもう何も言えない。
なのに、勝手な話だけ増えていく。
気に入らない。
一人はテレビから目を離した。
広瀬はもういない。
*
フェニックスに入ってから、カイルは向こうから打撃のことを言わなくなっていた。
ピッチャーだから。
聞いてはいないが、そういう事なのかもしれない。
フェニックスの室内練習場。
誰もいない。
いつの間にかバットを持っていた。
カイルから何年も教わった。
海外でも打っていた。
久しぶりの打撃は、楽しかった。
いつの間にか大島が見ていた。
なぜか柴崎が勝負を挑んできた。
柴崎には勝ったと思った。
柴崎がそう思っていないことを知るのは、ずっと後だった。
伊丹には怒られた。
数日後、延長十二回。
一人は代打で呼ばれた。
伊丹からは振るなと言われた。
カウントは途中からだった。
二球見送った。
指示どおりだ。
三ボール二ストライク。
次。
(投手だから、振らないと思ってる)
(終わらせるために立ってるだけだと)
(なら、ストライクが来る)
(それなら打てる)
一人は振っていた。
打球が伸びた。
右翼席へ入った。
サヨナラホームラン。
ベースを回る。
ベンチから選手が飛び出してくる。
ホームへ戻った瞬間、何人もの手が飛んできた。
頭。
肩。
背中。
何か叫ばれている。
一人は聞いていなかった。
ただ、気持ちが良かっただけだった。
*
その夜。
家に帰ると普段とは違う匂いがした。
料理の匂い。
カイルが、屋敷の人間と一緒にパーティーの準備をしていた。
壁には「カズト初打席サヨナラホームラン」と書かれた横断幕が貼られていた。
カイルは上機嫌だった。
リモコンをカイルが手に取る。
「映像見ようぜ」
一人は答えた。
「やめろ」
映像が流れる。
「こりゃあカイル・ミラーのデビュー以来の衝撃だね」
カイルが笑った。
一人は答えずに映像を見ていた。
映像が終わる。
一人はカイルからリモコンを取り上げて言った。
「もう一回」
カイルはこっちを見て笑っていた。
*
翌日。
伊丹に叱られた。
振るなと言われたのに振った。
ホームランだった。
勝った。
それでも叱られた。
「ホームランだったから正解、じゃねえ」
一人には、少し分かりにくかった。
昨日は目の前に勝ちがあった。
だまって見送るなんてまっぴらだ。
伊丹が色々言っているが、頭には入ってこなかった。
「……勝ちたかったからか」
当たり前のことを聞かれた。
一人はうなずいた。
「命令無視はこれっきりにしろ」
今度も、うなずいた。
部屋を出る。
勝ったのに怒られた。
初めてだった。
*
広瀬が残した、横へ逃げる球。
一人は試合での使い方を分かっていなかった。
「この球は未完成」
広瀬自身がそういうことを言っていたからだ。
カイルには、簡単だと打たれた。
その球を、追い込んでから竹田が選んだ。
打者は振った。
次の打者には、自分で選んだ。
なんで今まで使わなかった、と聞かれた。
膝の上で、右手を力強く握った。
(広瀬さん)
(使えるぞ、これ)
*
しばらくして。
一人は打者として、完全に止められた。
投げるまでの時間を変えられた。
待つ。
早く投げる。
プレートを外す。
一人が動けば、相手も変える。
最後は内角のスライダー。
空振り三振。
うっとうしい。
何もできなかった。
試合後。
一人は誰より早く球場を出た。
家へ帰った。
練習場に入る。
防具を外す。
床へ叩きつけた。
乾いた音がした。
防具が跳ねた。
後頭部に白い傷がついた。
「壊すなよ」
入口から声がした。
カイルだった。
一人は防具を拾わなかった。
「打てなかった」
「見てた」
「メジャーでどうしてた?」
カイルは壁にもたれていた。
「どっしり構えて待っとけ」
一人がカイルを見る。
「小細工するってことはな、それだけ相手も苦しいってことだ」
それだけ言うとカイルはそのままどこかへ行った。
*
翌朝。
一人は誰よりも早く球場にいた。
足の位置。
タイミング。
何を変えてもしっくりこない。
だが、繰り返していた。
いつの間にか相沢が見ていた。
かまわず続けた。
その後、何打席か、同じようにやられた。
悔しかった。
ある日、登板中にやたらと相手が焦らしてきた。
何も感じなかった。
相手が構えたら投げるだけ。
そうすれば、打ち取れる。
竹田がマウンドに来て言った。
「向こう、嫌がってんな、正面から来れないんだよ」
その瞬間だった。
カイルの言葉の意味。
体の奥から理解できた気がした。
その後。
打席でも。
焦らされても苦になることはなくなった。
*
その頃には、ファンに声をかけられることも増えていた。
大人に呼ばれても、足を止めることはなかった。
ある日。
通路で子供が待っていた。
「K!」
一人が止まる。
ボールを差し出された。
「サインください!」
一人はペンを受け取った。
ボールに書く。
無意識だった。
K。
89。
返した。
「ありがとう!」
子供が走っていく。
後ろから竹田の声がした。
「そっちのサインは書くのかよ」
一人は歩き出した。
字は書かないと決めていたが、無意識で書いてしまった。
だが、書いたのは数字二文字とアルファベット一文字だけだ。
あの子が欲しかったのは、森川一人の名前ではない。
Kだった。
それなら、別によかった。
*
シーズンが終わりに近づいた。
一人は投げるだけではなくなった。
ある試合。
一塁に出た。
投手を見る。
全体を見る。
カイルに叩き込まれた塁上のルーティーンだった。
行ける。
一人は走った。
簡単に二塁へ着いた。
滑る必要もなかった。
試合にも勝った。
そのあと。
また伊丹に叱られた。
「成功したからいいんじゃねえんだ!」
一人は黙って立っていた。
「チームで野球やれ!」
その言葉だけが頭に残った。
部屋を出る。
廊下に竹田がいた。
「次から勝手に行くな。俺かベンチ見ろ」
一人は竹田を見た。
すぐにはうなずかなかった。
走れた。
成功した。
でも。
少ししてから、うなずいた。
夜。
カイルに話した。
「怒られた」
「だろうな」
「成功した」
「だから?」
一人はカイルを見る。
カイルが笑った。
「まだまだベイビーだな」
*
翌日。
ペナントレース最後の試合。
一人は指名打者だった。
試合の終盤。
伊丹からサインが出た。
送りバント。
一人はベンチを見た。
もう一度見た。
伊丹は変えない。
チームで野球やれ。
あの夜の声が、頭に残っていた。
一人はうなずいた。
打ちたかった。
打つ気だった。
だが相手が投げた直後。
バットを寝かせた。
送りバントは成功した。
戻ると、ベンチで声が聞こえた。
「下手だな」
少し腹が立った。
でも。
チームは勝った。
二位が決まった。
選手がグラウンドへ飛び出していく。
一人は少し離れたところに立っていた。
いつも通りだった。
「K」
大島の声がした。
一人が見る。
大島が顎で輪の中を示している。
「こっちだ」
一人は輪を見る。
竹田がいる。
高梨がいる。
柴崎がいる。
真壁に背中を押されている選手もいる。
一人は少しだけ止まった。
それから歩いた。
輪の中へ入った。
*
その夜
「バントってどうやんの」
「スターはバントはしねえ」
答えになっていなかった。
会話は終わった。
*
クライマックスシリーズ。
二戦目、一人が投げた。
相手は一人が首を振った後の球を狙い打ちしてきた。
ベンチへ戻ると、竹田が言った。
「首、振っていい」
一人が見る。
「ただ、振ったあと、俺が同じサイン出すことがある」
竹田が指を立てた。
「その時は、そのまま投げろ」
うまくいく。
打たれない。
一人はマウンドから竹田を見た。
竹田が返球する。
それだけだった。
でも。
自分だけでは、できないことだった。
一人には竹田が頼もしく見えていた。
*
フェニックスは二連勝した。
ファーストステージを勝ち抜いた。
誰かの手が肩に乗った。
一人は振り返った。
何か言われた。
聞こえなかった。
代わりに、その肩を一度叩き返した。
少し驚いた顔をされた。
すぐに笑われた。
気持ちが良かった。
ホームランを打ったときよりも。
ずっと気持ちが良かった。
悪くない。
そう思った。
*
次は、福岡ファルコンズだった。
プロで最初に投げた相手。
滝川もいる。
今日の一人は打者として試合に出た。
滝川との勝負は投げる時までお預けだ。
次は必ず勝つ。
相手の先発は有馬健吾。
来季、メジャーへ行くという。
三打席、三度、別々の方法で全部負けた。
有馬は、上手くて強かった。
完全にしてやられた。
次は必ずやり返す。
そう思った。
試合は続いた。
チームの空気が重苦しいのを感じていた。
相手が強すぎるからだ。
大島ですら震えているように見えた。
一人だけは妙に冷静だった。
このチームが負けるなんて、まったく思っていなかった。
でも。
誰かが。
盛り上げないとまずい。
一人にも分かった。
だが、喋らない一人にできることはなかった。
*
九回。
フェニックスが二点を取った。
6対5。
チームの重苦しさは吹き飛んだ気がした。
だが、緊張感は何も変わっていない。
最後。
滝川の打球が二塁へ飛んだ。
大島が捕る。
一塁へ。
「アウト!」
「ゲームセット!」
選手が走り出した。
ベンチからも飛び出していく。
一人も走った。
誰にも呼ばれていなかった。
それでも、そのまま走った。
マウンドに輪ができる。
一人は迷わず、その中へ入った。
肩がぶつかる。
背中を叩かれる。
目の前に、知っている顔がある。
竹田。
大島。
柴崎。
高梨。
黒田。
片瀬。
誰も、一人の顔を知らない。
本名も知らない。
どこで生まれたのかも。
誰に野球を教わったのかも。
母親の名前も。
翔のことも。
広瀬のことも。
カイルのことも。
何も知らない。
それでも。
一人が首を振れば、竹田は理由を考えた。
勝手に走れば、伊丹は怒った。
打てなくなれば、相沢は待った。
輪の外にいれば、大島が呼んだ。
そして今は。
誰にも呼ばれなくても、そこへ走る。
その輪の中が、最高に心地よかった。
*
ホテルに戻った。
福岡にカイルはいない。
他の選手は有馬から安打を打っている。
自分だけが、打てない。
夜通し考えた。
答えは出なかった。
*
そして、第六戦。
最終戦の朝が来た。




