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K ―背番号89―  作者: K2MA


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31/34

第31話 輪

 車が走り出した。

 一人は後部座席に座っていた。

 隣にバッグがある。

 中には、顔を覆う防具が入っている。

 いつもの男は助手席にいた。

 前を向いたまま言った。


「一人様」


 一人は男に視線を向ける。


「球場へ到着する前に、防具をご着用いただけますでしょうか」


「今?」


「球場の関係者用入口から入りますが、選手、職員、業者の方々も出入りいたします」


 男が振り返る。

 いつもの笑顔だった。


「到着した時点から、Kとしてお入りいただく方がよろしいかと」


 一人はバッグを開けた。


 紅。

 黒。

 金。

 取り出す。

 頭から被った。

 留め具を締める。

 視界を確かめた。

 男がもう一度振り返った。

 笑顔は変わらなかった。


「よくお似合いでございます」


 一人は返事をせず、窓の外へ顔を向けた。

 防具の頬に、車窓から入る光が当たった。

 しばらくして、車が速度を落とした。


「間もなく到着いたします」


 一人は返事をしなかった。

 男も、それ以上は話さなかった。


    *


 車が止まった。

 ドアが開く。

 外にスーツ姿の男が立っていた。

 久世隆文。

 東条フェニックスのGM。

 一人は車を降りた。

 久世の視線が、紅い防具で止まった。


「Kさんですね」


 一人はうなずいた。


「久世です。お待ちしていました」


 後ろで、いつもの男が頭を下げる。


「それでは、よろしくお願いいたします」

「承知しました」


 久世が答えた。

 一人は振り返らなかった。


「こちらです」


 久世が歩き出した。

 その後ろを歩く。

 通路に入った。

 すれ違う人間が、全員こちらを見た。


 久世から必要な説明を受けた。

 着替え用の個室も用意されていた。

 監督とも会った。


 本日付で登録。

 登録名はK。

 背番号89。

 今夜、先発。

 それ以降の起用は現場が決める。


 聞いていた通りだった。

 それだけ分かればよかった。

 監督は、機嫌が悪かった。

 当たり前だと思った。

 朝まで名前も知らない投手が、今夜投げるのだ。


「十球で駄目なら、十球で代える」


 一人はうなずいた。

 十球あれば十分だと思った。


    *


 夜。

 一人はベンチからグラウンドを見た。

 昼に見た場所とは違っていた。

 照明。

 歓声。

 三万人を超える人間。

 声が重なって、形のないものが上から降ってくる。

 海外でもここまで客の入った球場はなかった。

 こんな音は初めてだった。

 やがて場内アナウンスが流れた。


『東条フェニックス、本日の先発ピッチャー――K。背番号89』


 ざわめきが大きくなった。

 一人はベンチを出た。

 マウンドへ向かう。

 視線が集まる。

 顔を隠しているから、余計に見られる。

 おかしな話だった。


 マウンドへ上がった。

 土を踏む。

 プレートを確かめる。

 ホームを見る。

 外野を見る。

 スタンドを見る。

 広い。

 人が多い。

 うるさい。


 一人はボールを受け取った。

 もう一度、ホームを見る。


 距離は同じだった。


 それならいい。


    *


『四番――滝川祐希』


 球場の音が変わった。

 一人は打席を見た。

 デカい。

 最初に思ったのは、それだった。

 四年続けて四十本以上。

 その数字は知っていた。


 数字より、打席に立った時の方が大きく見えた。


 一人は投げた。

 滝川が振った。

 二ランホームラン。


 滝川がベースを回る。

 一人はマウンドに残った。

 初めて対戦した日本のトップ打者に、いきなり打たれた。

 腹が立った。

 だが、次は勝つ。

 それだけだった。


    *


 二回にも一点を取られた。


 一人は球速を上げた。


(速くすれば、打てない)


 だが滝川だった。

 今度は直球だけではいかなかった。

 だが、フェンス直撃。

 二死二、三塁。


 一人は二塁の滝川を見た。

 直球でも打つ。

 変化球でも打つ。


 なら。

 もっと速くする。

 次の打者。


 一五八。


 一五九。


 そして。


 一六〇。


 空振り。

 球場が揺れた。

 大型ビジョンに、

 160 km/h。

 と出ていた。


 ベンチへ戻る。


 周りでは百六十の話をしていた。

 一人も同じことを考えていた。

 速くすれば、打てない。


 隣に竹田が座った。


「誰が百六十出せっつった?」


 一人は黙っていた。


「数字じゃなくて、打者を見ろ」


 打者を見ろ。


 遠い昔。

 広瀬にも、同じ事を言われたのを思い出した。

 一人は、もう一度グラウンドを見た。

 次の回から、球速を落とした。


    *


 七回。

 また滝川だった。

 一人は打席を見た。


 待っている。

 いや。


 待っていることを、こっちに見せている。


 竹田がサインを出す。

 一人はうなずいた。

 投げる。

 スプリット。

 空振り。


 その夜一番大きな歓声が上がった。

 一人はベンチへ戻った。

 初めて日本のプロで投げた試合だった。


 4対3。


 勝った。

 だが勝った感じは、しなかった。

 三回のフェンス直撃。

 あの打球が少し横へ跳ねていたら、走者は還っていた。

 その先は、分からない。

 今日は、運がよかっただけだ。


 屋敷に戻ってからも、一人はその場面を何度も見返した。


 広瀬なら、何と言っただろう。


 打たれた球のことか。


 跳ね返りのことか。


 聞ける相手は、もういなかった。


 一人は練習場の電気をつけた。

 カイルを呼んだ。


「真似して」

「誰を」

「滝川」


 カイルは何も聞かずにバットを持った。


    *


 それから、何度か投げた。

 前の試合で通じた球は、次には待たれた。

 直せば、また別のところを見られた。

 竹田は、一人が何を見て首を振っているのかを、少しずつ分かるようになっていた。


 ある日、紙とペンを差し出された。

 一人は、ペンを取らなかった。

 書けば、それはもう声と同じだった。

 竹田は理由を聞かなかった。

 だが、それで話は通じた。


 一人も、竹田が何を見ているのかを見るようになった。


 一度、竹田が譲らなかったことがある。

 一人の読みとは、違う球だった。


 投げた。


 打ち取れた。


 言葉は使わなかった。

 それでも試合はできた。

 そのことに、一人は特別な感想を持たなかった。

 野球ができるなら、それでよかった。


    *


 ある日。

 ロッカーのテレビから名前が聞こえた。


『広瀬和巳』


 一人の手が止まった。

 タオルを畳んでいた。

 画面を見る。

 自分の投球映像と、昔の広瀬の映像が並んでいる。


 似ている。


 当たり前だった。


 ロッカーでは、笑い声が続いていた。


 死亡偽装。


 二十年若返った。


 足し算で二百勝。


 誰にも悪意はなかった。


 広瀬はもう何も言えない。

 なのに、勝手な話だけ増えていく。


 気に入らない。


 一人はテレビから目を離した。


 広瀬はもういない。


    *


 フェニックスに入ってから、カイルは向こうから打撃のことを言わなくなっていた。

 ピッチャーだから。

 聞いてはいないが、そういう事なのかもしれない。


 フェニックスの室内練習場。


 誰もいない。

 いつの間にかバットを持っていた。

 カイルから何年も教わった。

 海外でも打っていた。

 久しぶりの打撃は、楽しかった。


 いつの間にか大島が見ていた。

 なぜか柴崎が勝負を挑んできた。

 柴崎には勝ったと思った。

 柴崎がそう思っていないことを知るのは、ずっと後だった。

 伊丹には怒られた。


 数日後、延長十二回。

 一人は代打で呼ばれた。

 伊丹からは振るなと言われた。

 カウントは途中からだった。

 二球見送った。

 指示どおりだ。

 三ボール二ストライク。

 次。


(投手だから、振らないと思ってる)


(終わらせるために立ってるだけだと)


(なら、ストライクが来る)


(それなら打てる)


 一人は振っていた。


 打球が伸びた。

 右翼席へ入った。

 サヨナラホームラン。


 ベースを回る。

 ベンチから選手が飛び出してくる。

 ホームへ戻った瞬間、何人もの手が飛んできた。


 頭。

 肩。

 背中。


 何か叫ばれている。

 一人は聞いていなかった。


 ただ、気持ちが良かっただけだった。


    *


 その夜。

 家に帰ると普段とは違う匂いがした。

 料理の匂い。

 カイルが、屋敷の人間と一緒にパーティーの準備をしていた。

 壁には「カズト初打席サヨナラホームラン」と書かれた横断幕が貼られていた。

 カイルは上機嫌だった。

 リモコンをカイルが手に取る。


「映像見ようぜ」


 一人は答えた。


「やめろ」


 映像が流れる。


「こりゃあカイル・ミラーのデビュー以来の衝撃だね」


 カイルが笑った。

 一人は答えずに映像を見ていた。

 映像が終わる。

 一人はカイルからリモコンを取り上げて言った。


「もう一回」


 カイルはこっちを見て笑っていた。


    *


 翌日。

 伊丹に叱られた。

 振るなと言われたのに振った。

 ホームランだった。

 勝った。

 それでも叱られた。


「ホームランだったから正解、じゃねえ」


 一人には、少し分かりにくかった。

 昨日は目の前に勝ちがあった。

 だまって見送るなんてまっぴらだ。

 伊丹が色々言っているが、頭には入ってこなかった。


「……勝ちたかったからか」


 当たり前のことを聞かれた。

 一人はうなずいた。


「命令無視はこれっきりにしろ」


 今度も、うなずいた。

 部屋を出る。

 勝ったのに怒られた。

 初めてだった。


    *


 広瀬が残した、横へ逃げる球。

 一人は試合での使い方を分かっていなかった。


「この球は未完成」


 広瀬自身がそういうことを言っていたからだ。

 カイルには、簡単だと打たれた。

 その球を、追い込んでから竹田が選んだ。

 打者は振った。

 次の打者には、自分で選んだ。

 なんで今まで使わなかった、と聞かれた。

 膝の上で、右手を力強く握った。


(広瀬さん)

(使えるぞ、これ)


    *


 しばらくして。

 一人は打者として、完全に止められた。


 投げるまでの時間を変えられた。

 待つ。

 早く投げる。

 プレートを外す。

 一人が動けば、相手も変える。

 最後は内角のスライダー。

 空振り三振。


 うっとうしい。

 何もできなかった。


 試合後。

 一人は誰より早く球場を出た。

 家へ帰った。

 練習場に入る。


 防具を外す。

 床へ叩きつけた。

 乾いた音がした。

 防具が跳ねた。

 後頭部に白い傷がついた。


「壊すなよ」


 入口から声がした。

 カイルだった。

 一人は防具を拾わなかった。


「打てなかった」

「見てた」

「メジャーでどうしてた?」


 カイルは壁にもたれていた。


「どっしり構えて待っとけ」


 一人がカイルを見る。


「小細工するってことはな、それだけ相手も苦しいってことだ」


 それだけ言うとカイルはそのままどこかへ行った。


    *


 翌朝。

 一人は誰よりも早く球場にいた。


 足の位置。

 タイミング。


 何を変えてもしっくりこない。

 だが、繰り返していた。


 いつの間にか相沢が見ていた。


 かまわず続けた。


 その後、何打席か、同じようにやられた。

 悔しかった。


 ある日、登板中にやたらと相手が焦らしてきた。


 何も感じなかった。

 相手が構えたら投げるだけ。

 そうすれば、打ち取れる。


 竹田がマウンドに来て言った。


「向こう、嫌がってんな、正面から来れないんだよ」


 その瞬間だった。


 カイルの言葉の意味。


 体の奥から理解できた気がした。


 その後。


 打席でも。


 焦らされても苦になることはなくなった。


    *


 その頃には、ファンに声をかけられることも増えていた。

 大人に呼ばれても、足を止めることはなかった。


 ある日。

 通路で子供が待っていた。


「K!」


 一人が止まる。

 ボールを差し出された。


「サインください!」


 一人はペンを受け取った。

 ボールに書く。

 無意識だった。


 K。

 89。

 返した。


「ありがとう!」


 子供が走っていく。

 後ろから竹田の声がした。


「そっちのサインは書くのかよ」


 一人は歩き出した。

 字は書かないと決めていたが、無意識で書いてしまった。

 だが、書いたのは数字二文字とアルファベット一文字だけだ。

 あの子が欲しかったのは、森川一人の名前ではない。

 Kだった。

 それなら、別によかった。


    *


 シーズンが終わりに近づいた。

 一人は投げるだけではなくなった。

 ある試合。

 一塁に出た。

 投手を見る。

 全体を見る。


 カイルに叩き込まれた塁上のルーティーンだった。


 行ける。


 一人は走った。


 簡単に二塁へ着いた。

 滑る必要もなかった。

 試合にも勝った。


 そのあと。

 また伊丹に叱られた。


「成功したからいいんじゃねえんだ!」


 一人は黙って立っていた。


「チームで野球やれ!」


 その言葉だけが頭に残った。

 部屋を出る。

 廊下に竹田がいた。


「次から勝手に行くな。俺かベンチ見ろ」


 一人は竹田を見た。

 すぐにはうなずかなかった。


 走れた。

 成功した。


 でも。


 少ししてから、うなずいた。


 夜。

 カイルに話した。


「怒られた」

「だろうな」

「成功した」

「だから?」


 一人はカイルを見る。

 カイルが笑った。


「まだまだベイビーだな」


    *


 翌日。

 ペナントレース最後の試合。

 一人は指名打者だった。


 試合の終盤。

 伊丹からサインが出た。


 送りバント。


 一人はベンチを見た。


 もう一度見た。


 伊丹は変えない。


 チームで野球やれ。

 あの夜の声が、頭に残っていた。


 一人はうなずいた。


 打ちたかった。

 打つ気だった。

 だが相手が投げた直後。


 バットを寝かせた。

 送りバントは成功した。


 戻ると、ベンチで声が聞こえた。


「下手だな」


 少し腹が立った。


 でも。


 チームは勝った。

 二位が決まった。


 選手がグラウンドへ飛び出していく。

 一人は少し離れたところに立っていた。

 いつも通りだった。


「K」


 大島の声がした。

 一人が見る。

 大島が顎で輪の中を示している。


「こっちだ」


 一人は輪を見る。


 竹田がいる。

 高梨がいる。

 柴崎がいる。

 真壁に背中を押されている選手もいる。


 一人は少しだけ止まった。

 それから歩いた。

 輪の中へ入った。


    *


 その夜


「バントってどうやんの」

「スターはバントはしねえ」


 答えになっていなかった。

 会話は終わった。


    *


 クライマックスシリーズ。

 二戦目、一人が投げた。

 相手は一人が首を振った後の球を狙い打ちしてきた。

 ベンチへ戻ると、竹田が言った。


「首、振っていい」


 一人が見る。


「ただ、振ったあと、俺が同じサイン出すことがある」


 竹田が指を立てた。


「その時は、そのまま投げろ」


 うまくいく。


 打たれない。


 一人はマウンドから竹田を見た。

 竹田が返球する。

 それだけだった。

 でも。

 自分だけでは、できないことだった。


 一人には竹田が頼もしく見えていた。


    *


 フェニックスは二連勝した。

 ファーストステージを勝ち抜いた。

 誰かの手が肩に乗った。

 一人は振り返った。

 何か言われた。

 聞こえなかった。

 代わりに、その肩を一度叩き返した。

 少し驚いた顔をされた。

 すぐに笑われた。


 気持ちが良かった。


 ホームランを打ったときよりも。


 ずっと気持ちが良かった。


 悪くない。


 そう思った。


    *


 次は、福岡ファルコンズだった。

 プロで最初に投げた相手。

 滝川もいる。

 今日の一人は打者として試合に出た。

 滝川との勝負は投げる時までお預けだ。

 次は必ず勝つ。


 相手の先発は有馬健吾。

 来季、メジャーへ行くという。

 三打席、三度、別々の方法で全部負けた。


 有馬は、上手くて強かった。

 完全にしてやられた。

 次は必ずやり返す。

 そう思った。


 試合は続いた。

 チームの空気が重苦しいのを感じていた。

 相手が強すぎるからだ。


 大島ですら震えているように見えた。

 一人だけは妙に冷静だった。

 このチームが負けるなんて、まったく思っていなかった。


 でも。


 誰かが。


 盛り上げないとまずい。

 一人にも分かった。


 だが、喋らない一人にできることはなかった。


    *


 九回。

 フェニックスが二点を取った。


 6対5。


 チームの重苦しさは吹き飛んだ気がした。

 だが、緊張感は何も変わっていない。


 最後。

 滝川の打球が二塁へ飛んだ。

 大島が捕る。

 一塁へ。


「アウト!」

「ゲームセット!」


 選手が走り出した。

 ベンチからも飛び出していく。


 一人も走った。

 誰にも呼ばれていなかった。

 それでも、そのまま走った。


 マウンドに輪ができる。

 一人は迷わず、その中へ入った。


 肩がぶつかる。

 背中を叩かれる。

 目の前に、知っている顔がある。


 竹田。

 大島。

 柴崎。

 高梨。

 黒田。

 片瀬。


 誰も、一人の顔を知らない。

 本名も知らない。

 どこで生まれたのかも。

 誰に野球を教わったのかも。

 母親の名前も。

 翔のことも。

 広瀬のことも。

 カイルのことも。

 何も知らない。


 それでも。


 一人が首を振れば、竹田は理由を考えた。

 勝手に走れば、伊丹は怒った。

 打てなくなれば、相沢は待った。

 輪の外にいれば、大島が呼んだ。


 そして今は。


 誰にも呼ばれなくても、そこへ走る。


 その輪の中が、最高に心地よかった。


    *


 ホテルに戻った。

 福岡にカイルはいない。


 他の選手は有馬から安打を打っている。

 自分だけが、打てない。


 夜通し考えた。


 答えは出なかった。


    *


 そして、第六戦。

 最終戦の朝が来た。


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