第30話 K
広瀬が来なくなっても、練習場はそこにあった。
ネットも。
マウンドも。
ボールも。
広瀬に教わったスプリットも、一人の指には残っていた。
そして、広瀬が最後までものにできなかった球も。
一人は投げた。
思ったように動かなければ、握りを変えた。
横へ逃げても球速が死ぬなら戻した。
早く変化が見えてしまうなら、別の投げ方を試した。
抜ければ、また投げた。
広瀬はいない。
聞く相手もいない。
投げた。
直した。
また投げた。
「もう一回」
*
広瀬が死んでから、しばらく経った頃だった。
カイル・ミラーが屋敷へ来た。
今度は、広瀬がいなかった。
初めて会った頃なら、広瀬が間に入らなければまともな会話にならなかった。
今は違った。
海外を転々としているうちに、一人の英語も上達していた。
野球と、日常生活なら困らない程度には。
カイルの日本語も以前より上手くなっていた。
どちらの言葉で話しているのか、二人とも気にしなくなっていた。
「メジャー」
「辞めた」
一人は顔を上げた。
「東条と契約したの?」
「俺はお前の親父に金で買われたんだよ」
カイルは笑っていた。
一人は深く息を吐いた。
また、あいつの金か。
カイルは、それ以上何も説明しなかった。
一人は、聞かなかった。
*
翌朝、リビングへ行くとカイルがくつろいでいた。
「遅え」
「まだ七時」
昼にもいた。
夜にもいた。
次の日もいた。
その次の日も。
いつの間にか、屋敷の中にカイルの荷物が増えていた。
一人は何も聞かなかった。
*
カイルは、広瀬とは違った。
広瀬も厳しかった。
だが、広瀬は一つずつ理由を話した。
なぜそう動くのか。
なぜその球を投げるのか。
なぜ打たれたのか。
分からなければ、一人に考えさせた。
カイルも教えた。
ただ、やり方が違った。
*
練習場の壁の一面は鏡だった。
一人がバットを振る。
「ストップ」
カイルが言った。
「何」
「なってねえ」
バットを受け取る。
構える。
「右足」
少し開いたところから、内へ戻る。
踏み込む。
「それから腰」
ゆっくり身体を回した。
「最後に手だ」
「こう?」
一人が真似をする。
「腰が早い。手もだ。ダンスと同じだ。相手に合わせろ」
「はぁ」
「下手だな」
「もう一回」
一人が振る。
「今のは?」
「違う」
カイルがもう一度見せた。
「ベイビーのカズトには分かんねえか」
一人はバットを構え直した。
「もう一回」
一人ががむしゃらに繰り返す。
「ストップ」
一人が振り向く。
「カズトは地図を持ってねえな」
「あ?」
「迷子になる努力してる」
「意味分かんね」
「考えてなかったら何万回振っても、ダメだ」
一人はバットを床につけた。
「俺は昔から、せいぜい一日十回だ」
(数……じゃないのか)
一人はすぐに構え、鏡に向き直った。
*
カイルが打つ。
一人が追う。
捕る。
送球する。
「遅い」
「送球?」
「その前」
カイルが一人のところまで歩いてきた。
「ルパンって知ってるか」
「は? 泥棒の?」
「アイツは盗む前には逃げ切ったあとの酒の味まで決まってる」
一人は怪訝そうな顔をする。
「グラブでボールを追いかけるな。足で先に場所を取れ」
自分で構える。
「打球が来る」
一歩。
「ここで身体を入れる」
捕球する動作。
「捕ってから次を考えるな。捕る前には、もう投げるところまで決まってる」
「分かった、やってみる」
(毎回、たとえ話いるか?)
次の打球。
一人が動く。
捕る。
投げる。
「今のは?」
「三十点」
「あ?」
「さっきは二十点だった」
「あんたは何点なんだ」
「俺はいつも百点だった、本気をだせば百二十にもなる」
「……」
映像のカイルはすごかった。
そして実物は映像の何倍もすごいことが分かっていた。
一人は言い返せなかった。
(……いつか超えてやる)
*
走塁。
一人の足そのものは速かった。
それだけなら、子供の頃から誰にも負けなかった。
広い練習場にグラウンドの一部が再現されている。
一人とカイルが、一塁から二塁へ同時に走り出した。
カイルは一人より体一つ先にいた。
「ブラボー! 速い!」
一人は顔を上げる。
「でも走る棺桶だな」
「それやめろ」
「フェラーリでも、乗ってるのが素人なら意味がねえ」
「どこを直す」
「走る前」
「前?」
「投手を見すぎだ」
「見ないと分かんねえ」
「投手を見るな。動きの前触れを見る」
カイルが構えた。
「肩。腰。重心。足」
「全部?」
「全部。カウントも打者も捕手もだ」
「どうすんの」
「まとめて見る」
「分かんない」
「そのうち分かる」
*
カイルは一人をよく見ていた。
できないことを見つける。
やり方を教える。
自分で見本を見せる。
一人がやる。
少しできるようになる。
そこで終わらせない。
「悪くない」
そう言ったあとに、
「俺と比べりゃまだまだだ」
と付ける。
言うと一人が倍食いつく。
*
投球についてだけは違った。
カイルは、一人のフォームを直さなかった。
握りにも触れなかった。
見ることはあった。
打席にも立った。
だが、投手として教えることはしなかった。
一人が投げた。
カイルのバットが空を切った。
「どうだ!」
「嫌な球だ」
「どこが」
「真っすぐに見える。でも振った時にはもう下にいる」
一人はボールを受け取った。
「メジャーであんたと対戦したら、俺の勝ち」
「それはない」
「何かアドバイス」
「そこはヒロセの領分だ」
一度だけ、カイルが別のことを言った。
「一つ聞いていいか」
「何」
「サインが決まってから、一回止まるだろ」
一人はボールを握り直した。
「止まってる?」
「止まってる。打つ方からは、あれが嫌だ」
一人は、自分では気づいていなかった。
広瀬が、そうしていただけだった。
*
広瀬が残した、もう一つの球。
横へ動く。
広瀬自身が、
これは俺もダメだった。
そう言った球。
一人は捨てなかった。
握りを変えた。
速さを変えた。
変化の始まる位置を変えた。
何度も使えない球になった。
何度も元へ戻った。
カイルに打席へ立ってもらうこともあった。
「見える」
「いつ」
「曲がる前に分かる」
直す。
もう一球。
「今は」
「さっきより嫌だ」
「打てる?」
「簡単だ」
打球が飛んだ。
「どうすれば使えるようになる?」
「俺は分かんねえ」
広瀬の球を再現しているわけではなかった。
広瀬にも完成させられなかった。
なら、自分で作るしかなかった。
少しずつ。
その球は一人のものになっていった。
*
一人の生活には、昔から時々現れる男がほかにもいた。
叔父夫婦の家から、この屋敷へ一人を連れてきた男だった。
いつ見ても身なりが整っていた。
背筋はまっすぐ。
言葉遣いは、不自然なほど丁寧だった。
そして、いつも笑顔だった。
嬉しそうなわけではない。
楽しそうでもない。
困ってもいない。
笑顔の形をした無表情。
一人が何を言っても、その顔が変わったところを見たことがなかった。
*
十七歳の頃にも、男は来た。
広瀬がまだ生きていた頃だった。
「一人様。来月、オーストラリアへ行っていただきます」
「やだ」
「かしこまりました。また参ります」
男は同じ笑顔のまま、一礼した。
やり取りは、それだけだった。
本当に帰った。
理由を聞かない。
説得もしない。
数日後。
広瀬が練習場で言った。
「オーストラリア、断ったんだって?」
「うん」
「もったいないな」
「なんで」
「ここで投げてるだけじゃ物足りないだろ?」
「別に」
「環境変えるのはいいぞ」
「面倒」
「じゃあ行かなくてもいいんじゃない」
一人が広瀬を見る。
「どうした」
「行った方がいいんだろ」
「俺はそう思う」
「……」
「大人相手に通用するか、気にならない?」
一人は返事をしなかった。
*
一週間後。
男は本当にまた来た。
同じ服。
同じ姿勢。
同じ笑顔。
「先日のオーストラリアの件でございます」
「やっぱ行く」
「かしこまりました」
「なぜ、何も聞かない」
「何をでしょうか」
「気が変わった理由」
「お聞きする必要がございますか?」
「……」
「では、手配を進めます」
一礼。
笑顔は変わらない。
北米へ行く時も、その次も、似たようなものだった。
一人は最初に難色を示すことが多かった。
男は理由を聞かなかった。
「かしこまりました。また参ります」
そう言って帰る。
数日から一週間ほどすると、本当にまた現れる。
その時には、一人の返事が変わっていた。
*
年月が過ぎた。
練習場の窓の外で、庭の木が何度も色を変えた。
海外へ出て、帰ってきた。
また出て、また帰ってきた。
そのたびに、カイルが待っていた。
二十を過ぎてから、二度、誕生日が来た。
一人は二十二になった。
肩が厚くなった。
脚が太くなった。
投げる球は速くなった。
打球も変わった。
守備も。
走塁も。
カイルと暮らす日々の中で、一人は何度も負けた。
技術で負けた。
判断で負けた。
知識で負けた。
「今の何が悪い」
「分からないのか?」
「ああ、分かんねえ」
「仕方ないな。じゃあ特別授業だ」
カイルがやってみせる。
一人が真似る。
「今のは」
「八十五点」
「あとの十五点は」
「俺との差だ」
*
ある日。
あの男が来た。
やはり笑顔だった。
一人はソファに座ったまま聞いた。
「次はどこ」
「海外ではございません」
「じゃあ何」
男は、最初から最後まで変わらない笑顔のまま言った。
「東条フェニックスでプレーしていただきたい、とのことでございます」
「やだ」
「かしこまりました。また参ります」
「来るな」
「かしこまりました」
一礼。
帰った。
*
一人はプロ野球が嫌いだったわけではない。
子供の頃から見ていた。
翔と一緒に真似もした。
いつかそこで野球をすることを、考えたことだってあった。
だが。
東条フェニックスだった。
東条一成の球団。
*
カイルは、フェニックスの話について何も言わなかった。
行けとも。
行くなとも。
いつも通り練習した。
三日ほど経った。
一人は打撃練習を終え、バットを置いた。
「日本のプロって、すげー奴いんのかな」
「俺よりすごいのはいない」
「なんだ。つまんね」
「でも、お前よりすごい奴なら、たぶんゴロゴロいるぞ」
*
一週間後。
男は来た。
来るなと言ったのに来た。
やはり、あの笑顔だった。
「先日の東条フェニックスの件でございますが」
「……行く」
「かしこまりました」
驚きもしない。
喜びもしない。
笑顔は一ミリも変わらなかった。
「条件」
「お伺いいたします」
「森川一人って名前は出さない」
「その点につきましては、こちらも身元の公表を望んでおりません」
一人が男を見る。
「理由」
「私から申し上げることではございません」
「そう」
一人にとっても、その方がよかった。
「名前以外に」
「と申しますと」
「顔もだ」
「承知いたしました」
「声もダメ」
「公の場で、でしょうか」
「全部」
「取材も会見もヒーローインタビューもしないということですね。承知いたしました」
「チームでも」
「競技上、意思疎通が必要となる場面もあるかと存じます」
「なんとかなる」
「確認いたします」
「無理なら行かない」
「かしこまりました」
男は何も聞かなかった。
一人は少し黙った。
「俺が東条の息子だってなったら」
男は同じ笑顔で待っている。
「母さんのことまで掘られる」
返事はなかった。
「俺のことは何書かれてもいい」
一人は言った。
「でも母さんはもう死んでる」
男の顔は変わらない。
「愛人だったとか、金目当てだったとか」
一人は視線を落とした。
「勝手なこと書かれても、母さんは何も言い返せない」
少し間を置いて続ける。
「……それだけは耐えられない」
「かしこまりました」
男は、いつもと同じ角度で頭を下げた。
顔も、声もダメだ。
あの男の息子として世に出るつもりはない。
母の人生を汚すつもりはもっとない。
喋れば、いつかは間違える。
そんなことは許されない。
*
そこからは、男の仕事だった。
書類を持ってくる。
持ち帰る。
また来る。
リーグへの確認。
選手資格。
本人確認。
契約。
公開情報の扱い。
顔を覆う防具。
競技上の安全確認。
一人が紅と黒と金の防具をつける。
「派手すぎ」
「こちらでリーグの承認は下りております」
「分かった」
顔さえ隠れれば、それでよかった。
*
「公開上のお名前はいかがなさいますか」
「何でもいい」
「何でも、という登録は難しいかと存じます」
「じゃあ一文字だ」
「ご希望は」
「好きに決めていい」
男は笑顔のまま少し考えているように見えた。
「Kはいかがでしょうか」
「何でもいい」
「かしこまりました」
男が書類へ記入する。
「背番号につきましては、空き番号で調整しております」
「気にしてない」
「かしこまりました」
一人にとって、名前も番号もどうでもよかった。
森川一人ではない。
それでよかった。
ただ、プロの世界は魅力的に見えていた。
*
一人は練習場で防具を身に着けていた。
「これじゃ隠れないな」
「顔隠してるのに?」
「顔は隠れる。だが存在感は十倍だ」
カイルは笑った。
言われて見ればそのとおりだった。
一人が防具を外す。
「意外と動けるし、暑くもない」
カイルが一人を見る。
それ以上、カイルは聞かなかった。
*
フェニックスへ行くことが決まっても、一人の生活は変わらなかった。
投げた。
打った。
守った。
走った。
カイルが教える。
一人がやる。
「違う。左が早い」
「ここ?」
「そう、そこ。残して、腰」
一人が真似る。
「今のは?」
「九十点」
「あと十点は」
「俺との差だ」
「何」
「俺は一五〇点だけどな。スターには特別加点があるんだ」
カイルは笑った。
「意味分かんね」
*
それからしばらくした朝。
あの男が来た。
「一人様」
「何」
「本日、球団へ向かっていただきます」
一人は顔を上げた。
「今日?」
「フェニックスの先発投手にアクシデントがあったとのことでございます」
一人は黙った。
「本日、選手登録を行う予定です」
「で?」
「今夜の試合に、先発していただきたいとのことでございます」
「今日登録して、今日?」
「その予定でございます」
「誰が決めた」
「初日の先発につきましては、こちらから球団へお願いしております」
「その後は」
「監督をはじめ、現場へ一任すると伺っております」
「行く」
「かしこまりました」
*
一人はバッグを持った。
中には、顔を覆う防具が入っている。
登録名。
K。
背番号。
89。
本名は出ない。
年齢も。
出身地も。
学校も。
これまでの経歴も。
顔も出さない。
声も出さない。
森川一人として、プロ野球へ行くつもりはなかった。
だが。
その日は来た。
正体は明かせない。
それでも、行きたかった。
玄関を出た。
車が待っている。
男がドアを開けた。
やはり、同じ笑顔だった。
「どうぞ」
一人は後部座席へ乗った。
ドアが閉まる。
車が走り出した。




