第27話 前へ
二日、試合がなかった。
台風が福岡の手前で速度を落とし、初戦は朝のうちに中止が決まった。
翌日も、雨が残った。
外野には水が浮き、内野にはシートがかかったままだった。
フェニックスにとって、その二日は大きかった。
ファーストステージを二試合。
九回までゼロが並んだ試合の翌日に、もう一試合。
そこから、移動もあった。
高梨は中五日になった。
打撃練習を減らした選手もいた。
運がよかったと言う者はいなかった。
それでも、身体は二日分だけ軽くなった。
大島忠宗は、その二日をほとんど室内で過ごした。
三十五歳の身体は、正直だった。
休めるだけ休んだ。
*
同じ二日を、ファルコンズは映像室で使っていた。
照明を落とした部屋に、バイソンズ戦とオーシャンズ戦が流れている。
選手たちは、映像から目を離さず見ている。
「シーズン中とは違うな」
フェニックスを一名ずつ分けた映像が流れている。
大島の映像が映る。
「もともと守備の上手い選手だが、一段上に行った気がする」
「勝負強さも相変わらずですね」
「ここぞ、と言うときは勝負を避けていい」
今度は竹田だった。
「こいつは変わった」
「配球、上手くなった気がする」
「いくつでしたっけ?」
「まだ二十三」
「安定感みたいなのを感じる」
「打線は今までのフェニックスバッテリーだと思うなよ」
「戸塚クラスが受けていると思って立とう」
そして画面の中、Kが映っていた。
「見た目の奇抜さは関係ない」
「この紅いの、どこかで必ず出てくる。前は上下だったが、今は横もある」
「グングン成長してるな」
「前とは別の投手と思ったほうがいいな」
「こいつが投げた二試合、ウチは両方落としてる。ジンクスは信じないけどしっかり分析しないとな」
捕手の男が言う。
「打つほうは、凄いんだけど未熟さ感じるな」
「未熟?」
「うん、何というか、若い。打ち気を隠しきれないっていうか」
「そこを捕まえればなんとかなるな」
捕手の男が隣を見て言う。
「お前なら簡単だろ?」
隣の男は答えずにモニターを見ていた。
有馬健吾。
二十八歳。
今季十五勝、防御率一点台。
最速一五六キロの直球に、カットボール、フォーク、カーブ。
どれか一つで押し切る投手ではない。
四つとも使えるから、一つも捨てられない。
来季のメジャー移籍が報道されている大投手だった。
分析は、遅くまで続いていた。
「よし、あとは、やることやるだけだ」
「滝川、頼むぞ」
「おう」
王者は、二日を待つだけには使わなかった。
*
二日ずれた開幕の夜、球場は超満員だった。
大型ビジョンに星取表が出る。
ファルコンズの横には、白い丸が一つ。
リーグ優勝チームに与えられる一勝だった。
フェニックスは、まだ一度も負けていない。
それでも、ファルコンズは一つ前にいた。
今季、九ゲーム差。
五年連続のリーグ優勝。
その五年で、日本一が三度。
大島は、その五年をずっと下から見てきた。
四番に滝川祐希がいる。
だが、滝川だけで五年は勝てない。
一番から九番まで、全員が嫌なことをやってくる。
それが、このチームだった。
「行くぞ」
竹田がマスクを持った。
高梨が先に歩いていく。
*
一回表、有馬の初球は一五〇キロだった。
岩瀬が外角のストライクを見送る。
二球目、カットボールはファウル。
三球目が外れ、四球目の直球で、空振り三振。
日下部は二球目を二塁へ転がした。
二死。
片瀬が四球で歩く。
大島は打席に入った。
初球のカーブを見送る。
二球目、直球。
振り切った。
中堅手が数歩下がって、捕った。
有馬は、普段と変わらぬ立ち上がりだった。
*
一回裏、高梨の三球目を水城が振った。
左中間を抜ける。
無死二塁。
二番の大楠が、初球から右へ打つ構えを見せた。
大島の前へ、打球が転がる。
捕って、一塁へ。
水城は三塁へ進んだ。
一死三塁。
野間に四球。
球場の音が変わった。
『四番――滝川祐希』
スタジアムが揺れる。
滝川は、打席の土をならしていた。
二ボール一ストライクからの四球目。
センターへ高く上がる。
早川が下がって、捕った。
水城が走る。
返球より先に、ホームを踏んだ。
0対1。
武藤を三振に取って、一点で終わった。
ベンチへ戻る、竹田と高梨。
大島も、その二人を見ながらベンチへ引き上げていた。
*
二回表、有馬が黒田と三好を続けて三振に取った。
七番、K。
スタンドの音が、一段上がる。
Kが球界に現れて以来、代わらぬ光景だった。
紅い防具が左打席に入った。
有馬が投げる。
外角の直球。
カットボール。
最後はフォーク。
空振り三振。
三者連続だった。
二回裏、高梨は走者を一人出して、ゼロで終えた。
三回表。
竹田が右前へ運び、早川が送る。
一死二塁で、岩瀬。
岩瀬は、チームに忠実な男だった。
相手に一球でも多く投げさせる。
塁に出れば、ピッチャーが嫌がることをする。
「周りの選手を活かすのが僕の仕事です。それがチームですから」
そうインタビューで言っていたこともあった。
大島はそれを全うする岩瀬を何年も見てきた。
ファルコンズもそれを知っている。
だが、今日の岩瀬は違った。
四球目。
岩瀬が振った。
左中間。
外野が走る。
届かない。
竹田が三塁を回り、ホームを踏んだ。
1対1。
岩瀬は二塁に立ち、小さく拳を握っていた。
その後は続かず、同点で終わった。
三回裏、高梨が三人で片づけた。
大島がベンチへ戻る。
スコアボードには、一と一が並んでいた。
*
四回表、黒田が右前へ運び、三好が四球を選んだ。
一死一、二塁。
K。
有馬は初球からカットボールだった。
遊撃の正面。
二塁、一塁。
併殺。
四回裏。
滝川が右中間へ二塁打を打った。
無死二塁で、五番の武藤。
滝川との勝負を避けた投手が、この男とは勝負する。
その打席を、武藤は何年も打ち続けてきた。
二球目。
センター前。
滝川が三塁を回る。
早川の返球は間に合わない。
1対2。
江口も右前へ運ぶ。
無死一、三塁。
さらに、矢崎の左飛で、武藤が還った。
1対3。
立花の打球が、大島の左へ来た。
追いつく。
二塁へ。
一塁へ。
併殺。
二点で止めた。
また、前を行かれた。
*
五回表。
竹田が倒れ、早川が右中間を破る。
岩瀬の二ゴロで、早川が三塁へ進んだ。
二死三塁。
日下部が打席に入る。
足の速い男だった。
打撃は、徹底して転がすことを美徳としている。
だが、三回の岩瀬の打席が、日下部に静かな変化を与えていた。
有馬が内を見せる。
次は外。
日下部は、どちらにも手を出さなかった。
一ボール一ストライク。
四球目。
低い球に、バットが出る。
日下部のスイングとしてはかつてない強振だった。
だが、当たり損ねた。
詰まった打球が、三塁線へ転がった。
三塁手が前へ出る。
日下部が走る。
送球。
「セーフ!」
早川がホームを踏んだ。
2対3。
日下部は、一塁で苦笑いをしていた。
*
五回裏。
二死満塁。
竹田が立ち上がり、一歩マウンドへ出る。
高梨は、武藤を見ていた。
竹田が足を戻す。
そのまま、しゃがんだ。
大島は二塁の守備位置から、それを見ていた。
高梨は、シーズン最終戦で一回に四点を失った。
それでも立て直し、その後を抑えた。
ファーストステージの初戦も任されてゼロを並べた。
チームの誰もが、高梨を信頼している。
武藤への三球目。
高梨のこの日、最速の球だった。
高く上がった。
左へ伸びる。
片瀬が下がる。
まだ下がる。
フェンスの手前で止まり、捕った。
三者残塁。
大島はベンチへ戻ると、高梨が帽子を取っていた。
真壁が、短く何か言う。
高梨がうなずいた。
五回、三失点。
一点差だった。
*
六回表。
大島が四球。
黒田が倒れ、三好が死球で出た。
一死一、二塁で、K。
有馬はフォークで空振り三振を取った。
ベンチへ戻ったKは、すぐには座らなかった。
バットを持ったまま、マウンドの有馬をじっと見ている。
三打席とも、仕留められていた。
一度も、同じ形ではなかった。
竹田も倒れる。
六回、百四球、二失点。
スタンドから、大きな拍手が落ちた。
有馬はグラブを置いた。
六回裏、園田は安打を一本許したが、ゼロで終えた。
2対3。
*
七回表。
ファルコンズは三浦に代えた。
一五四キロまで出る右腕だった。
有馬が降りても、打者が楽になるわけではない。
早川が三振。
岩瀬が左前へ運ぶ。
日下部は右飛。
二死一塁。
次は三番、片瀬。
片瀬は長距離打者ではない。
それでも、伊丹と相沢が片瀬を三番に置く理由を、大島は知っていた。
安定感だった。
打席を論理で組み立て、結果を残す。
そんな打者だった。
だが、片瀬は今日、一本も打てていない。
一ボール二ストライク。
次、外の球にはバットを止めた。
片瀬が打席を外す。
これまでの投球を頭に巡らせる。
一瞬、岩瀬、日下部が頭によぎる。
片瀬は、考えるのをやめた。
五球目。
少し低い直球を、振り抜いた。
右中間。
二人の外野手の間を、打球が抜けていく。
岩瀬が二塁を蹴った。
三塁も回る。
ホーム。
3対3。
大島はネクストで見ていた。
岩瀬と手を合わせる。
あの紅い防具が来てからの二か月半で、このチームは変わった。
そんな気がした。
その後、大島は左飛に倒れた。
同点。
*
だが、七回裏。
フェニックスは園田から吉村に変わっていた。
吉村が水城に右前打を許し、大楠が送った。
一死二塁。
三番、野間。
初球。
野間が振った。
センター前。
水城が三塁を回る。
早川は、ホームへ投げなかった。
3対4。
滝川に四球。
武藤の打球は、大島の正面だった。
二塁へ送り、一塁へ。
併殺。
一点で止めた。
それでも、また前に出られていた。
三回に追いついた。
五回に、一点差まで戻した。
七回に、片瀬が追いついた。
そのたびに、次の回で取り返される。
回を重ねるごとにフェニックスのベンチは重苦しくなっていった。
大島も、その空気の中にいた。
ちょっとした、チームの変化。
そんなものが通用しないほど、ファルコンズは強い。
そう思えてきた。
Kが、一瞬こちらを見た気がした。
気に留める余裕はなかった。
*
八回表。
ファルコンズは左の松永を出した。
黒田が二ゴロ。
三好が三振。
二死、走者なし。
打席にK。
初球、外角。
見送る。
二球目、内側。
ファウル。
三球目、低い。
止める。
一ボール二ストライク。
四球目。
Kが振った。
センター前。
歓声が上がる。
Kが一塁を踏んだ。
二塁へは向かわなかった。
今日の初ヒットだった。
Kは腰を落とし、両手をだらりと下げている。
その姿勢でKはベンチを少し見た。
*
記者席で、榊原のペンが止まった。
何かが引っかかった。
Kが一塁にいるだけだった。
腰を落としている。
両手に力が入っていない。
投手を見ている。
榊原はノートへ目を落とした。
何を書こうとしたのか、分からなくなった。
もう一度、一塁を見る。
見たことがある。
そう思った。
どこで。
分からない。
場内アナウンスが、竹田の名前を呼んだ。
*
竹田が四球を選んだ。
二死一、二塁。
九番、早川。
チームの主役ではない、地味な男だ。
だが、常に努力を継続しているのを大島は知っていた。
居残り練習に付き合ったこともある。
だが、努力だけでプロの試合に出られるほど、この世界は甘くない。
なんとか食らいついているだけ、本人はそう言っていた。
それでもたまにヒーローになれる、そんな瞬間が幸せだとも言っていた。
松永の球を、早川が右へ運んだ。
Kがスタートを切った。
二塁を蹴る。
三塁も回る。
右翼からの返球より、先にホームを踏んだ。
4対4。
竹田も二塁を回っていた。
「行け!」
三塁へ滑り込む。
右翼からの送球。
「アウト!」
三つ目だった。
同点。
それ以上は取れなかった。
だが、フェニックスベンチは少しだけ息を吹き返していた。
*
八回裏。
秋山が六番の江口に左中間を破られた。
無死二塁。
矢崎が送る。
立花の犠牲フライで、江口が還った。
4対5。
三人で、一点だった。
派手な得点ではない。
二塁打、送りバント、犠牲フライ。
六番から始まって、それで足りている。
大島は、グラブの中で右手を握り直した。
四番が怖いのではない。
一番から九番まで、誰も休ませてくれない。
追いついたところで、また同じことをやってくる。
五年間、ずっとこれに負けてきた。
三十五歳の身体で、あと何度これができるのか。
大島は、その先を考えるのをやめた。
九回がある。
*
九回表。
ブルペンの扉が開いた。
佐伯修平。
スタンドが立ち上がる。
今季三十八セーブ。
一五六キロの直球と、フォーク。
ファルコンズが一点を持って九回に入れば、ほとんどの試合はそこで終わってきた。
先頭は岩瀬。
四球目の直球を見送って、三ボール一ストライク。
五球目をファウルにする。
六球目が外れた。
四球。
岩瀬は一塁へ走りながら振り返った。
日下部が、もう打席へ向かっていた。
二球目。
一五四キロ。
振り抜いた。
右前。
岩瀬が二塁を蹴り、三塁へ。
無死一、三塁。
片瀬。
佐伯の直球を、センターへ高く上げた。
中堅手が捕る。
岩瀬が走った。
ホーム。
5対5。
日下部も、捕球を確かめてから二塁へ走っていた。
送球はホームへ行く。
一死二塁。
四番の大島は、バットを持って打席へ向かった。
球場が、一段大きくなる。
佐伯が外へ外す。
内へ入れて、ファウル。
低い球を、大島は見送った。
外の直球も、見送った。
三ボール一ストライク。
次は、大きく外れた。
バットは動かなかった。
「ボール、フォア!」
一死一、二塁。
大島は、バットを渡して一塁へ走った。
悔しくないと言えば嘘になる。
三十五歳になっても、ここで打ちたいと思う。
五年間、この球場で何度も負けてきた。
しかし、何度も見てきた。
自分が打てなかった日にも、点が入った。
今日は佐伯から、一点返している。
あとは、こいつらに任せるだけだ。
大島は一塁を踏み打席を見た。
打席には、黒田がいた。
七年前、ドラフト。
四球団競合でフェニックスが黒田を引き当てた。
三割、三〇本。
それが入団前に期待されていた数字だった。
だが、入団後の成績がその数字を上回ったことはない。
メディアもファンも黒田を叩いた。
だが、黒田はひょうひょうとしているように見えた。
何を考えているのか分からない、と大島は思っていた。
黒田が二年目、数試合無安打だった。
それでも、表情は変わらなかった。
その夜、人のいないロッカールーム。
黒田は泣いていた。
大島は入口でそれを見た。
声を掛けられず、すぐにロッカーを出た。
大島は黒田の中に燃える小さな火を見たような気がした。
今日のこの打席。
相変わらずひょうひょうとしている。
今、黒田が何を思ってあそこに立っているのか。
大島には分からなかった。
佐伯の初球。
一五五キロ。
ファウル。
二球目、フォーク。
見送る。
三球目、内角。
詰まってファウル。
一ボール二ストライク。
佐伯がセットに入る。
投げた。
黒田が振った。
センター前。
日下部がスタートを切る。
三塁を回った。
中堅手が前へ出る。
送球。
日下部が滑り込む。
「セーフ!」
大型ビジョンの数字が変わる。
6対5。
球場の音が、一瞬遠くなった。
この試合で初めて、前へ出た。
黒田が一塁で右手を上げる。
二塁の大島も、右手を上げた。
続く三好が三振。
Kが二ゴロ。
追加点はなかった。
*
九回裏。
柴崎がマウンドへ上がる。
水城を二ゴロ。
大楠に中前打を許し、野間を左飛。
二死一塁。
球場中が立った。
『四番――滝川祐希』
大島は、二塁の深い守備位置で腰を落とした。
一発出れば、サヨナラ。
アウェーのスタンドは、このクライマックスで、滝川の一発を待っている。
初球、直球。
ファウル。
二球目、低い。
滝川は振らない。
三球目、外。
ファウル。
一ボール二ストライク。
竹田がサインを出す。
柴崎がうなずいた。
投げる。
滝川が振った。
強い打球が、ワンバウンドして二塁へ来る。
大島は、身体を横へ投げ出した。
捕る。
立ち上がる。
一塁へ。
黒田のミットに、白球が入った。
「アウト!」
「ゲームセット!」
手のひらに、打球の感触が残っていた。
黒田がボールを返してきた。
柴崎は大島を見ながら拳を突き上げた。
竹田が立ち上がる。
大島はボールを持ったまま、マウンドへ走った。
ベンチから選手が出てくる。
Kも走っていた。
そのまま輪ができる。
6対5。
ファイナルステージ第一戦。
始まる前からあった一つの差が、消えた。
大島は、手の中のボールを黒田へ渡した。
*
東条グループ本社、会長執務室。
モニターの中で、選手たちがマウンドの上に集まっていた。
紅い防具が、その中にいる。
東条一成は、手元の書類にサインを入れた。
次の一枚をめくる。
リモコンを取り、モニターを消した。
次の書類に、Kの名前があった。
一成は、そこにもサインを入れた。
*
記者席では、人が立ち始めていた。
榊原は座ったままだった。
書くことは、いくらでもある試合だった。
ノートを閉じかけて、手が止まる。
八回。
一塁。
K。
腰を落とす。
両手を下げる。
投手を見る。
榊原はノートを開き直した。
スコアの下に、二文字だけ書いた。
〈一塁〉
しばらく、それを見ていた。
意味は、まだ分からない。
ただ。
あれを、どこかで見ていた。




