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K ―背番号89―  作者: K2MA


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28/34

第28話 名前

 ホテルへ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。

 榊原は上着を脱がずに、机にノートを置いた。

 開いたページに、試合のスコアが残っている。


 6対5。


 その下に、二文字。


〈一塁〉


 パソコンを開いた。


 どこかで見た。


 それも、昔ではない。


 最近だ。


 その感覚だけが残っていた。


 顔ではない。

 打ち方でもない。

 投げ方でもない。


 一塁に立っている人間だった。


 腰を落とす。

 両手を下げる。

 投手を見る。


 榊原は、ここしばらくで開いた映像を片端から見直した。


 フェニックスの試合。

 ファーストステージ。

 Kの初登板。

 広瀬和巳。

 四年前のONO。


 止める。

 違う。

 次へ行く。

 また止める。

 違う。


 一塁に映る人間を、片端から見た。

 画面の隅の時刻が、一時間進んだ。

 コーヒーを入れて、また戻る。


 桐明翔。


 七年前の甲子園。

 これは、もう見た映像だった。

 準々決勝。

 八回まで投げた一年生。

 最後の直球を、何度も戻した。

 再生する。

 八回が終わる。


 九回。

 桐明はいない。

 榊原は早送りしかけた。


『一塁ランナーに代わりまして、森川』


 指が止まった。

 戻す。


『一塁ランナーに代わりまして、森川』


 画面が切り替わる。


 一塁。


 高校生が立っていた。


 ヘルメットをかぶっている。


 顔は、よく見えない。


 腰を落としている。

 両手を、だらりと下げている。

 投手を見ている。


 榊原は動かなかった。

 昨夜の八回。


 K。


 同じ一塁。


 同じ立ち方。


 もう一度、七年前の甲子園を再生する。


 腰を落とす。

 両手を下げる。

 投手を見る。


 前に見たときも、この走者は映っていた。

 実況も聞いていたはずだった。

 その時は、自分は画面を戻してしまっていた。


 八回へ。

 桐明の最後の直球へ。


    *


 榊原は大会資料を開いた。


 七年前。


 登録選手。

 背番号。

 学年。

 名前。


 一年生の欄を追う。

 そこにあった。


 森川一人。


 ふりがなが振られている。


 もりかわ、かずと。


 知らない名前だった。

 この大会で打席にも立っていない。

 投げてもいない。

 代走で、一度出ただけの一年生だった。


 それでも、榊原は椅子にもたれた。


 森川。


 どこかで見た。

 検索履歴を開く。

 桐明翔。


 七年前。

 甲子園。

 事故。


 一本の記事を開いた。

 前にも読んだ記事だった。


 甲子園が終わったあとの、建設現場の事故。

 作業員と通行人が巻き込まれている。


 森川みさき、四十四歳が死亡。


 高校生二人が重傷。

 うち一名が、桐明翔。


 榊原は大会資料へ戻った。


 森川一人。


 記事へ戻る。


 森川みさき。


 同じ名字。

 同じ夏。


 甲子園。

 事故。


 両方に、桐明翔がいる。


 そして、事故の記事には、残る高校生の名前がない。

 榊原はノートを開いた。


 森川一人。

 森川みさき。


 その間に線を引こうとして、やめた。

 まだ、引けない。


 先日、二人を知る人間に会っていた。


 桐明翔。


    *


 朝になっても、答えは増えなかった。


 森川一人を検索しても、出てくるものは少ない。

 甲子園の登録名簿。

 試合記録。

 それだけだった。


 甲子園の先がない。

 榊原は事故の記事へ戻った。


 施工した会社の名前がある。

 その会社の資料を辿った。

 会社概要。

 当時の事業資料。

 出資。

 何度か別の名前を経て、東条が出てきた。

 榊原は手を止めた。


 東条グループ。


 別の画面には、東条フェニックスのKがいる。

 七年前のあの事故も、今のKも、同じ名前の中にあった。

 榊原は、そのどちらにも問い合わせた。


 グループの広報は、当時公表した内容以上には答えられないと言った。

 球団の広報は、これまでと同じ返事だった。


 公表していること以外は、お答えできません。


 どちらも、隠している口ぶりではなかった。

 答える義務がない、という口ぶりだった。


    *


 その夜、フェニックスは第二戦を落とした。

 二勝一敗。

 アドバンテージを含めて、一つ差だった。


 翌日の第三戦を、フェニックスが取った。

 二勝二敗。

 まだ、先は長い。


 三戦後の記者席。


 毎晩、調べていた。

 だが、調査は、進展しなかった。


 Kの正体まで、あと一歩。

 探し求めた真実が、目の前にぶら下がっているように思えた。


 福岡を離れるのはCSが終わってから。

 そう思っていた。

 榊原は手帳を開き、翌日のスケジュールを確認した。


 記者席では、第四戦の話が続いていた。

 榊原は輪から少し離れ、携帯を取り出した。


 桐明翔。

 発信する。


    *


 第四戦の朝、榊原は福岡を離れた。


 荷物は、取材鞄が一つだけだった。

 夕方には戻らなければならない。

 夜には試合がある。


 新幹線を降り、在来線に乗り換えた。

 前と同じ景色が流れていく。


 今日は、見ていなかった。

 腕時計を見る。

 取材に使えるのは、一時間ほどだった。


 東条からは、何も出なかった。

 球団からも出なかった。


 森川一人という少年を知る人間は、桐明しかいなかった。


    *


 二度目も、同じ喫茶店だった。

 前と同じ席は空いていない。

 窓際の二人掛けに、榊原が先に座った。

 桐明は、約束の時間より少し早く来た。


「すみません。また」

「いえ」


 前回より、桐明の方が榊原を見ていた。


「何か分かったんですか」


 榊原はノートを置いた。


「一つ、名前を見つけました」

「名前?」

「森川一人さん」


 桐明の顔が動いた。


「……一人?」

「ご存じですね」

「知ってます。というか」


 桐明は少し笑った。


「幼なじみです」

「幼なじみ」

「家が近くて。小さい頃から、ずっと一緒でした」

「野球も」

「はい。高校も同じです」


 榊原は大会資料のコピーを机に置いた。


 森川一人。

 一年。


 桐明が、それを見た。


「甲子園にも、ベンチ入りしています」

「してましたよ」

「試合には」

「一回だけです。代走で」

「足が速かったんですか」

「めちゃくちゃ速かったです」


 桐明の声が、少しだけ軽くなった。


「運動神経はすごかったんですよ。何やらせても、すぐできるし」

「野球も」


 桐明は首を傾けた。


「野球は、上手くなかったですね」

「上手くなかった」

「普通に補欠でした。身体はすごかったですけど」


 榊原は、何も書かなかった。


「森川みさきさん」


 桐明の表情が曇った。


「一人のお母さんです」

「七年前の事故の記事に、名前があります」


 桐明はうなずいた。


「その記事には、高校生が二人負傷したと書かれています」

「はい」

「一名は、桐明さんでした」


 少し間があった。


「もう一名は」

「一人です」


 榊原の指が、ノートの上で止まった。


 店の奥で、食器の重なる音がした。


「そのあと、森川さんは」

「知らないです」


 桐明は、榊原を見なかった。


「僕も、学校を離れたんで」


 それ以上は聞かなかった。


 七年前から先を、桐明は持っていない。


「もう一つ、見ていただきたいものがあります」


 榊原は携帯を机に置いた。


 四年前。


 北米の独立リーグ。


 再生する。


 細身の右投手が、マウンドに立っている。


 直球。

 九十一マイル。


 桐明は、何も言わなかった。

 榊原は映像を進めた。


 投手がベンチへ戻る。

 帽子を取る。


 若い顔が映った。


 止める。


 桐明の手が、動かなくなった。


 画面へ顔を近づける。


 榊原は待った。


 桐明が榊原の携帯を手に取った。


 少し戻す。


 もう一度、顔が映る。


 止める。


 長い間、何も言わなかった。


「……似てると思います」


 桐明は、まだ画面を見ていた。


「でも」


 眉が寄る。


「あいつ、野球下手くそでしたよ」


 榊原は書かなかった。


 桐明の目が、赤くなっていた。

 唇を結び、一度だけ強く瞬きをした。

 それでも、画面からは目を離さなかった。


 桐明が、もう一度最初から流した。

 マウンドにONOが立つ。

 直球を投げる。


「桐明さん」

「はい」

「私は、Kが森川一人さんだと思っています」


 桐明が顔を上げた。


「……まさか」


 それから、首を振った。

 笑おうとして、うまく笑えていなかった。


「でも、Kってカイル・ミラーだって言われてますよね」


 声が、少しだけ高かった。


 榊原は、静かに返した。


「捕手の竹田選手は、Kは若いと言っていました」


 言ってから、榊原は口を閉じた。


「……今のは、できれば誰にも言わないでください」

「え?」

「記事には使わないと、約束した話でした」


 桐明は、少し榊原を見ていた。


「分かりました」


 それから、また画面へ目を戻した。


 四年前のONOが、次の球を投げた。


    *


 福岡へ戻る列車の中で、榊原はノートを開かなかった。

 窓の外を見ていた。

 球場に着いたのは、試合開始の直前だった。


 第四戦は、ファルコンズが取った。

 三勝二敗。


 フェニックスが、また追う側に戻った。

 明日には、ファイナルステージが終わるかもしれない。


 榊原は記事を書き、送った。

 試合の記事だった。


    *


 ホテルへ戻り、机に座った。

 ノートを開く。

 何ページも使っていた。


 名前。

 日付。

 球速。

 矢印。

 疑問符。


 最後のページに、三つ書いた。


 森川一人。


 ONO。


 K。


 線は引かなかった。


 もう、必要がなかった。


 森川みさきは、もういない。


 広瀬和巳も、もういない。


 東条は答えない。


 球団も答えない。


 桐明が知っているのは、十五歳までの森川一人だった。


 本人は、何も語らない。


 本人確認の取れるものは、最後まで出てこなかった。

 それでも、榊原の中では答えが出ていた。


 記事にはできる。

 証拠を並べ、断定を避け、見出しに疑問符をつければいい。

 Kの正体に迫る。


 七年前の事故。

 消えた高校球児。


 いくらでも形にはなる。

 読まれるだろう。


 榊原は、ノートの上に手を置いた。


 書けば、一本の線が引かれる。


 覆面の野球選手。


 七年前の事故と、その工事をした巨大企業の球団。


 今日、向かいの席で目を赤くしていた、かつての甲子園のエース。


 死んだ大投手、亡くなった森川みさき。


 全てに、一本の線がつながる。


 その線を引くのは、自分だ。


 決定的な証拠はない。

 そして、書いた瞬間にどうなるのかは分かる。


 十五歳の少年がいた。

 母親を失った。

 そのあと、日本の記録から消えた。

 何年か経って、異国で投げていた。

 今は、名前も顔も隠して野球をしている。

 その始まりと今に、東条の名前がある。


 その事実を並べれば、足りない部分は読者が埋める。


 Kが隠しているのは、顔だけではない。


 榊原は、森川一人という四文字をしばらく見ていた。


 答えは、出ている。


 誰かに確かめに行く必要も、もうなかった。


 ノートを閉じた。


 パソコンは、開かなかった。


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