第24話 ゼロ
クライマックスシリーズ、ファーストステージ第一戦。
試合前のグラウンドは、いつもと同じはずだった。
同じ土。
同じマウンド。
それなのに、竹田哲平は、いつもより早く防具をつけ終えていた。
三試合のうち、二つ取れば次へ進む。
一つ落とせば、残りが一つ減る。
オーシャンズの先発は、倉橋直哉だった。
今季十二勝、防御率一点台。
これより勝っている投手も、速い球を投げる投手もいる。
それでも、短いシリーズの初戦で当たりたいかと聞かれれば、話は別だった。
フェニックスの先発は、高梨。
Kは、今日は投げない。
七番、指名打者。
「今日は長くなるぞ」
真壁が、竹田の横で言った。
「何人使うかは、向こう次第だ。準備しとけ」
「分かってます」
竹田は三塁側を見た。
倉橋が、戸塚と並んで座っている。
何か話しているが、笑ってはいない。
緊張しているようにも見えない。
戸塚が立つ。
少し遅れて、倉橋も立った。
「行くぞ」
伊丹の声が飛んだ。
竹田はマスクをかぶった。
*
一回表、高梨は二死から戸塚を歩かせた。
四番の皆川に内角を強く引っ張られた。
打球は一、二塁間へ。
大島が横へ動いて、追いつく。
一塁へ。
アウト。
高梨がグラブを上げ、大島が右手を上げた。
最初のゼロが入った。
一回裏、倉橋は岩瀬と日下部を六球で片付けた。
片瀬が左前へ運ぶ。
歓声が上がる。
二死一塁で、大島。
ファウルで粘って、最後は強い当たり。
二塁手の正面だった。
立ちかけた客が、そのまま座る。
倉橋は、小走りで三塁側へ戻っていった。
二回。
両軍ともに三者凡退。
Kは遊直に倒れた。
0対0。
三回表。
高梨は八番、九番を打ち取ったあと、一番と二番を歩かせた。
戸塚を打ち取り、点はやらなかった。
三回裏、竹田と早川が倒れ、岩瀬が四球を選んだ。
日下部の二打席目。
外へ、外へと投げられる。
追いかけて、二球ファウル。
最後は、外れた球に手を出して空振り三振だった。
日下部はベンチへ戻り、バットを置いた。
それから、バットの先を一度だけ見た。
竹田は防具をつけ直しながら、それを見ていた。
三回を終えて、ゼロが三つずつ並んでいた。
*
四回表。
高梨が、先頭の皆川を歩かせた。
竹田はタイムを取って、マウンドへ行った。
高梨は、ボールを握ったまま待っている。
「悪くない」
高梨が竹田を見た。
「今の四つ、向こうが見ただけですよ。変えなくていい」
高梨は何も言わなかった。
竹田は戻った。
次打者が送る。
一死二塁。
また、オーシャンズの走者が得点圏へ進んだ。
竹田は打者を見た。
その向こうで、伊丹が立っていた。
真壁を呼んで、短く何か言う。
真壁の視線が、ブルペンへ向いた。
ブルペンでは、フェニックスの中継ぎ、園田が肩を作っている。
竹田も見た。
高梨は、後続を二人とも打ち取った。
四つ目のゼロ。
大きな拍手の中を戻ってくる。
伊丹は何も言わない。
真壁も、高梨には声をかけなかった。
ブルペンでは、投球が続いていた。
*
四回裏、片瀬が倒れたあと、大島が出塁した。
ベンチの何人かが立つ。
客席から声が飛んでいた。
動かせ。
送れ。
走れ。
相沢が伊丹を見た。
伊丹は、小さく首を振った。
まだ四回だった。
黒田も三好も、打ち取られた。
大島は、一塁から帰れなかった。
四回を終えて、0対0。
*
五回表。
高梨が先頭の八番を打ち取り、九番に左前へ運ばれた。
一死一塁。
打順は、下位から一番へ戻る。
竹田が返したボールを、高梨が受け取った。
伊丹が出てきた。
球審に向かう。
歓声より先に、ざわめきが広がる。
竹田はスコアボードを見た。
五回。
一死。
0対0。
高梨も、伊丹を見ていた。
高梨がマウンドを降りる。
拍手が起きた。
最初はまばらで、やがて大きくなった。
四回三分の一。
無失点。
竹田は、そこに立っていた。
ベンチに戻った高梨は、座ってグラウンドを見ていた。
二人目の園田がマウンドへ向かう。
今季、中継ぎで一番長いイニングを投げた左腕だった。
真壁は、投球練習が始まるのを確かめてから、高梨の横へ行った。
高梨は、マウンドを見たままだった。
「信用してなきゃ、初戦は任せない」
高梨が、ようやく真壁を見た。
「今日は、こういう試合だ」
真壁はグラウンドへ視線を戻した。
竹田は、園田の投球練習を受けていた。
高梨とは、球筋が違う。
落ちる球の角度も、腕の出る位置も違う。
園田は、高梨の残した走者を一塁に置いたまま、二つのアウトを取った。
五つ目のゼロ。
三塁側では、倉橋がベンチの奥に座っていた。
タオルで顔を拭く。
戸塚が隣にいる。
フェニックスは、もう二人目を出している。
オーシャンズには、まだ倉橋だけだった。
*
五回裏。
倉橋は変わらなかった。
Kが打席へ向かった。
スタンドのあちこちで、スマートフォンが上がる。
派手な紅い防具、左打席。
もう見慣れた姿だった。
それでも、Kが打席に入ると、音が少し変わる。
倉橋は変わらない。
低い球を見せる。
内をファウルにさせる。
外へ逃げる球に、Kのバットが止まった。
次の球を、Kが振った。
二遊間を抜ける。
中前。
球場が沸いた。
Kは一塁ベースを踏んだ。
腰を落として両手をだらりと下げ、投手を見ている。
次は、竹田だった。
竹田の打球は遊撃の正面へ転がった。
二塁、一塁。
併殺。
早川が右飛。
チェンジ。
ベンチで、Kと竹田が並んだ。
一本出た。
でも、それだけだった。
五回を終えて、ゼロが五つずつ並んだ。
*
六回表。
フェニックスは、また投手を替えた。
三人目は、梶だった。
今季から中継ぎに回った右腕で、長いイニングは投げない。
投球練習を受けながら、竹田は指を組み直した。
高梨とも、園田とも違う。
球が重い。
腕がいつ出るかが読みにくい。
一人目に四球を与えた。
皆川。
竹田がサインを出す。
梶が首を振った。
もう一度。
また、振る。
三つ目で、うなずいた。
皆川が詰まった。
大島の前へ転がる。
二塁へ送って、一つ。
一死一塁。
五番に四球を与えた。
竹田は、次の打者への初球に、皆川のところで使わなかった球を要求した。
空振り。
最後は二ゴロ。
七番も打ち取った。
六つ目のゼロ。
竹田はマウンドへ行き、梶からボールを受け取った。
グラブを一度叩く。
二人で戻った。
ベンチで、高梨がその姿を見ていた。
*
六回裏、岩瀬が左中間を破った。
日下部と片瀬が倒れ、二死二塁。
大島が打席に入った。
初球を振った。
左中間へ、強い打球が伸びる。
客が立つ。
中堅手が走る。
まだ走る。
最後に、グラブを上げた。
グラブの中にボールが入った。
ため息と一緒に、客席が沈む。
大島は一塁へ向かう足を緩め、そのままベンチへ戻った。
若い選手が場所を空ける。
大島は何も言わず、守備用のグラブを取った。
それからスコアボードを見た。
「またゼロだ」
誰に言ったのかは、分からなかった。
大島は守備へ出ていった。
*
七回表。
フェニックスは秋山がマウンドへ上がる。
四人目。
投手交代のアナウンスに、もう驚きはなかった。
八番に四球、九番に右前打。
一番を打ち取ったが、二番にも四球を与えた。
一死満塁。
真壁の横で、伊丹が立っていた。
ブルペンでは、次の投手が作っている。
戸塚へ、秋山が投げる。
遊ゴロ。
日下部から大島。
一塁へ。
併殺。
スタンドが大きく揺れた。
秋山が息を吐く。
竹田はマスクを外した。
ベンチへ戻ってきた秋山に、高梨が少し身体をずらした。
秋山が、そこへ座る。
二人とも、何も言わなかった。
七つ目のゼロ。
*
七回裏。
黒田が四球を選び、三好が左前へ運んだ。
無死一、二塁。
Kが打席に入った。
倉橋は、同じ攻め方をした。
内を見せる。
外へ逃がす。
低めを一つ落とす。
Kは、最後の球を見送らなかった。
振って、空振り三振。
打席を出る前に、一度だけマウンドを見た。
それから、ベンチへ戻った。
竹田も倒れた。
早川の内野安打で満塁になったが、岩瀬は打ち取られた。
三者残塁。
倉橋がベンチへ戻る。
百球を超えていた。
戸塚が水を渡す。
倉橋が飲む。
オーシャンズの野手たちは、それぞれの場所でグラブを置き、汗を拭いていた。
誰も、倉橋のところへは行かない。
そこだけは、聖域になっていた。
戸塚が、倉橋の隣にいた。
竹田は、防具をつけ直しながらそれを見ていた。
三塁側のブルペンには、誰も立っていない。
七回を投げ終えて、まだ誰も作っていなかった。
こっちは、今日四人。
向こうは、一人だった。
隣に、Kが座った。
スコアボードではなく、三塁側を見ている。
竹田も、そちらを見た。
「明日は、お前だぞ」
Kがうなずいた。
「今日のうちに、全部見とけ」
もう一度、うなずいた。
*
八回表。
フェニックスは、五人目の吉村を出した。
一軍に上がって二年目の右腕で、この夏から終盤の場面を任されるようになった。
真壁が動き、竹田が新しい球を受け、伊丹がベンチの前へ出る。
その繰り返しが、この試合の景色になっていた。
先頭は、皆川。
打球が高く上がった。
片瀬が下がる。
フェンスが近づく。
だが、片瀬が捕る。
一死。
五番に四球。
六番が右前へ運び、一死一、二塁。
七番を左飛に打ち取ったが、八番にも四球。
二死満塁。
真壁が伊丹を見た。
伊丹はブルペンへ目をやる。
柴崎がいる。
その奥にも、まだ投手がいた。
伊丹は、視線を戻した。
九番が一ゴロ。
チェンジ。
竹田が立ち上がった。
八つ目のゼロ。
ベンチへ戻ると、相沢がブルペンの方を見ていた。
真壁が、手元のメンバー表を見る。
投手の名前には、いくつも線が引かれていた。
それでも、全部ではない。
「延長になっても足りる」
伊丹は、もう攻撃の方を見ていた。
*
八回裏。
日下部が四球を選んだ。
先頭走者。
それだけで、球場の音が変わった。
片瀬が打席へ向かう。
送りバント。
片瀬は、初球を三塁線へ転がした。
一死二塁。
四番、大島。
客席のかなりの人間が立っていた。
打った。
一、二塁間。
抜ける。
そう見えた。
二塁手が追いついた。
一塁へ。
アウト。
大島はベースを駆け抜け、そのままベンチへ戻った。
日下部は三塁へ進んでいた。
黒田と三好が四球を選び、二死満塁。
Kの打球は、遊撃手の正面だった。
三者残塁。
八回を終えて、0対0。
スコアボードの上段にも、下段にも、同じ数字が並んでいた。
*
九回表。
柴崎が出た。
アナウンスが名前を告げると、歓声が上がる。
抑えが、同点の九回に出てくる。
今日は、そういう試合だった。
先頭を二ゴロ。
一死。
次打者に中前へ運ばれる。
一死一塁。
戸塚が右飛。
二死。
皆川。
柴崎がロジンを触った。
竹田はしゃがんだ。
以前、柴崎は皆川に打たれている。
竹田は、それを口にしない。
柴崎も、皆川を長く見なかった。
追い込む。
皆川が二球粘った。
最後の球。
バットが空を切った。
竹田のミットに収まる。
「ストライク! バッターアウト!」
柴崎は拳を握らなかった。
竹田と共にベンチへ戻る。
高梨が立っていた。
秋山も立っている。
この日、マウンドをつないだ投手たちが、並んでグラウンドを見ていた。
九つ目のゼロ。
*
倉橋が、マウンドへ戻っていった。
百二十球を超えている。
それでも戸塚はいつも通りホームへ向かい、倉橋はいつも通りボールを受け取った。
フェニックスのベンチでは、真壁がメンバー表を見ていた。
投手は、まだ残っている。
野手も、使い切ってはいない。
伊丹は、ベンチの一番前に立っていた。
真壁がメンバー表を畳む。
延長の準備は、十分だった。
*
九回裏。
打順は、竹田からだった。
初球を見送る。
二球目。
三遊間を抜けた。
左前打。
歓声が落ちてくる。
一塁を踏んだ竹田が顔を上げると、伊丹がもうベンチを振り返っていた。
「今井」
代走が出る。
竹田はヘルメットを外し、ベンチへ戻った。
早川が送る。
一死二塁。
岩瀬の二ゴロで、今井が三塁へ進んだ。
二死三塁。
日下部。
竹田は、ベンチの前で立ったまま見ていた。
今日、この打者に安打はない。
打席に入る。
倉橋がプレートを踏む。
戸塚がしゃがむ。
初球、ストライク。
二球目、外。
日下部は見送った。
三球目、ファウル。
一ボール二ストライク。
竹田は、倉橋のグラブを見ていた。
今日、ここまで外を使い続けた投手だった。
日下部が、一度だけバットの先を見た。
三回に、ベンチで見たのと同じ仕草だった。
構える。
倉橋が投げた。
低い。
外ではなかった。
日下部のバットが出る。
鈍い音がした。
打球は、倉橋の正面へ転がった。
戸塚が立つ。
倉橋が前へ出る。
日下部が走る。
今井も、三塁を離れた。
投手ゴロだった。
倉橋がグラブを出す。
白球が、マウンドの傾斜に入った。
跳ねた。
倉橋の手が、空を切った。
その横を、白球が抜けていった。
二塁手が遅れて前へ出る。
捕球、一塁へ。
今井がホームを踏んだ。
そして一塁。
「セーフ!」
*
一拍、遅れた。
それから、音が来た。
スタンドが揺れる。
今井が両腕を上げた。
ベンチから選手が飛び出していく。
日下部は、一塁を回ったところで仲間に捕まっていた。
1対0。
サヨナラ。
竹田も、輪の中へ走った。
大島がいる。
柴崎がいる。
秋山も、高梨もいた。
Kが、そこへ入ってくる。
輪の外ではなかった。
伊丹は、少し遅れてベンチを出た。
その途中で、一度だけマウンドの方を見た。
戸塚が、ホームの後ろに立っている。
やがて、足元のマスクを拾った。
倉橋は、マウンドの前にいた。
最後まで投げた。
最後の打者にも、芯では打たせなかった。
野手の失策もない。
倉橋は、足元を見ていた。
打球が跳ねたあたりに、特別なものは何もない。
ならされた土があるだけだった。
やがて顔を上げ、ベンチへ歩き出した。
戸塚が、少し遅れてその後を追う。
スコアボードには、ゼロが十七個と、最後の一つだけが残っていた。
竹田は、輪の中でマスクを持ったままだった。
明日は、Kが投げる。
今日と同じ試合には、するつもりはない。




