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K ―背番号89―  作者: K2MA


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23/34

第23話 カイル・ミラー

 古い動画だった。

 タイトルは英語だった。


『Kyle Miller Takes the Mound!』


 八年前。

 シーズン中に行われた、チャリティーイベントの映像だった。

 マウンドに立っているのは、投手ではない。


 カイル・ミラー。


 当時二十五歳。

 メジャーリーグを代表する遊撃手だった。


 捕手役のチームメイトが、大げさにミットを構える。

 カイルは笑っていた。

 セットに入る。

 足を上げる。

 投げた。

 ミットが、乾いた音を立てた。


 客席が沸く。


 電光掲示に、九十五マイルと出た。


 野手が余興で投げた球だった。

 表示を見たカイルが、自分でも笑っている。


 もう一球。

 今度は、少し力を入れた。

 また、歓声が上がった。


 たった、それだけの動画だった。


 八年間、そこにあった。

 それを、日本の誰かが、日本語字幕をつけて再投稿した。


〈カイル・ミラーって普通に投げれるんだな〉

〈肩強かったからこんなもんだろ〉

〈いや待て〉

〈Kじゃね?〉


 そこからは、早かった。


 カイル・ミラー、三十三歳。

 右投左打。

 百八十六センチ、八十五キロ。


 Kは、百八十五センチ、八十五キロ。


 カイルは二年前、三十一歳で現役を退いている。


〈体格ほぼ同じ〉

〈右投左打〉

〈二年前に突然引退〉

〈で、二年後にKが出てきた〉

〈顔隠してる理由まで全部説明つくじゃん〉


 別の誰かが、二つの打撃映像を横に並べた。


 左に、現役時代のカイル。

 右に、フェニックスのK。

 どちらも、左打席。

 再生される。

 止まる。

 巻き戻される。

 今度は、同時に流れた。


〈おい〉

〈これ似てるとかいうレベルか?〉


 二つの身体が、ほとんど同じ順序で動いた。


〈Kの足これカイルじゃん〉

〈足だけじゃない〉

〈スイングまで似てる〉


 さらに、映像が集められた。

 カイルが一塁から走る。

 Kが一塁から走る。

 スタート。

 加速。

 歩幅。


〈足も同じくらいじゃね?〉


 次は、カイルの守備だった。

 三遊間の深い位置から、身体を流したまま一塁へ投げる。

 そこへ、さっきのマウンドの映像が繋げられた。

 その次に、Kの投球。


〈この肩なら投手やっててもおかしくなくね?〉

〈Kだろ〉

〈むしろなんで今まで誰も気づかなかった〉


 Kの正体。


 カイル・ミラー説は、その日のうちに大きくなった。


    *


 榊原は、最初の動画を三度見た。

 四度目は、見なかった。

 代わりに、カイルの現役時代の打席を開いた。

 比較動画ではない。

 メジャーリーグの中継映像だった。


 左打席。

 投手を見る。

 右足が、わずかに開いている。

 投手がセットに入るより前に、戻る。

 そこから、待つ。

 投手が動く。

 踏み出す。

 打った。


 榊原は止めた。

 別の年。

 別の投手。

 また、止めた。


 似ている。

 打撃フォームが似ることは、ある。

 だが、ここまで似ていて、体格もほとんど同じだった。


 右投左打。

 走れる。

 肩も強い。

 そして、投げられる。


 榊原はノートを開いた。


 カイル・ミラー。


 その横に、書いた。


 K?


 これまでにも、何人も書いてきた。

 そのたびに、線を引いた。

 カイルの名前には、まだ引かなかった。


    *


 カイル・ミラーは、メジャーに現れたときからスターだった。

 三遊間の深い打球に追いつき、身体を流しながら一塁へ刺す。

 次の映像では、左打席からスタンド上段へ運んでいる。

 また別の映像では、二塁を蹴っていた。


 強肩。

 守備範囲。

 長打。

 走力。


 若くしてレギュラーを奪い、そのまま米球界を代表する遊撃手になった。


 ゴールドグラブを複数回。

 MVPも、一度ではない。

 本塁打王にもなった。

 打つだけではなかった。

 走るだけでも、守るだけでもなかった。

 全部やった。

 そして、全部を大勢が見ていた。


 打席に入れば、カメラが追う。

 守備位置につけば、歓声が飛ぶ。

 試合が終われば、記者が待っている。

 カイルが何かをすれば、それがニュースになった。

 そういう選手だった。


 二年前。


 その男が、突然、引退を発表した。


    *


 会見は、本拠地の球場の会見室で行われた。

 後ろの壁は、球団とスポンサーのロゴで埋まっている。

 その前に、長机が一つ。

 椅子は、三つ並んでいた。

 座っているのは、真ん中だけだった。


 三脚のテレビカメラが、壁際まで何列も並ぶ。

 前列には、カメラマンが座り込んでいた。

 カイルが入ってきた瞬間から、シャッターの音が途切れない。

 水を一口飲む。

 また、鳴る。


 三十一歳。

 長期離脱はなかった。

 成績も落ちていない。

 前年も、リーグを代表する遊撃手の一人だった。


 記者が手を挙げた。


「なぜ、今なんですか」


 カイルは少し笑った。


「今だからだよ」

「まだプレーできます」

「知ってる」


 会場に、小さな笑いが起きた。


「野球への情熱を失った?」

「まさか」


 返事は早かった。


「明日だってやりたいよ」

「では、なぜ引退を?」


 カイルは、少しだけ考えた。


「選手として、やりたいことはやった。それだけだ」

「復帰の可能性は?」

「ない」

「断言するんですか」

「うん」


 カイルは笑ったままだった。


「選手としては、もう終わりだ」


 会見が終わる。

 立ち上がったカイルを、カメラが追った。

 通路に出ても、シャッターは鳴り続けている。

 球団の職員が、人を分けながら前を歩く。

 その後ろを、カイルだけが普通に歩いて消えていった。

 画面には、誰もいなくなった長机と、ロゴの並んだ壁が残った。


    *


 榊原は映像を止めた。

 当時の記事も開いた。


 故障説。

 家庭の事情。

 球団との不和。

 燃え尽き。

 新しい事業を始めるという説まであった。

 どれも、決定的な理由にはならなかった。


 引退の後、カイルは公の場に出ていない。

 解説も、イベントも、事業の話も、一つも出てこなかった。


 三十一歳。

 まだ、一流だった。

 そして二年後、日本にKが現れた。


 出来すぎている。

 そう思った。


 榊原は、Kの投球映像を開いた。

 百六十キロ。

 問題は、そこではない。

 カイルの肩なら、速い球を投げること自体は不思議ではなかった。

 問題は、その次だった。


 スプリット。

 落ちた。

 巻き戻す。

 もう一球。

 落ちる。


 ただ落ちる球ではない。

 伊丹登が、二十一年前を思い出した球だった。


 広瀬和巳。


 榊原は椅子にもたれた。

 三十一歳まで、メジャーリーグの遊撃手。


 そこから二年。


 その二年で、先発投手になった。


 百六十キロを投げるだけではない。


 試合を作る。

 打者を見る。

 球を組み立てる。

 そして、あのスプリット。


 榊原は、カイルの投球映像を探した。


 チャリティー。

 ファンイベント。

 試合前の余興。


 いくつかあった。

 どれも、肩は強い。

 本職の投手ではない人間が投げる球としては、十分すぎた。

 だが、スプリットを投げている映像は、一つもなかった。

 当たり前とも思えた。

 遊撃手なのだから。


 榊原はノートを見た。


 K?


 その疑問符が、大きくなった気がした。


    *


 それでも、名前は消さなかった。


 カイルの過去を追う。

 記事を遡った。


 一年。

 三年。

 五年。


 古いインタビュー。

 オールスター。

 遠征。

 日本人選手との対戦記事。


 指が止まった。

 写真があった。

 カイル・ミラーが笑っている。

 その隣に、日本人の男がいた。

 榊原は、その顔を知っていた。


 広瀬和巳。


 榊原は画面を拡大した。

 同じ顔を、この一か月で何百回も見ている。


 引退会見。

 ブルペンの写真。

 訃報に添えられた一枚。


 どれとも違う場所で、その男は笑っていた。


 違う記事の日付を見た。

 広瀬が海を渡って、二年目の夏だった。

 記事を開く。

 別の記事も探した。

 一枚では、なかった。


 試合前。

 オールスター。

 グラウンド。

 二人が話している写真。

 肩を組んでいる写真もあった。

 互いについて触れたインタビューも残っていた。


 対戦相手というだけでは、なかった。

 二人には、親交があった。


 榊原は、そこで初めて画面から目を離した。

 さっきまで、カイル説には大きな穴があった。


 広瀬和巳。


 その穴の中心にいた男が、カイルの隣で笑っていた。


 もう一度、Kのスプリットを再生する。


 広瀬。


 次に、Kの打席。


 カイル。


 ノートに、一本線を引いた。


 広瀬――カイル。


 その下に、書き足す。


 カイル――K?


 三十一歳まで、野手だった。

 それでも、もし。

 榊原はペンを止めた。


 広瀬から、投球を教わる機会があったとしたら。


 資料はない。

 スプリットを教えたという証言もない。

 それでも、二人が知り合いだったことは事実だった。


 二年間。

 投球を覚えるには短い。

 短すぎる、と思った。

 それでも、さっきまでよりは説明できる。


 打撃。

 走力。

 肩。

 体格。

 左右。

 突然の引退。

 そして、広瀬。


 四年前の映像が、頭に浮かんだ。

 ONO。

 九十一マイル。

 あの間。

 あの沈む球。

 榊原は、その映像を開き直した。

 帽子の下の顔は、若い。

 二十歳前後だ。


 四年前のカイルは、二十九歳だった。

 ONOは、カイルではない。

 そこは、はっきりしている。

 だから、ONOがKなら、カイル説は消える。

 だが、ONOがKだという証拠はない。

 あるのは、一本の映像だけだった。


 一方のカイルには、名前がある。

 経歴がある。

 映像が、何百打席分もある。

 説明できることが、多すぎた。

 榊原はノートの二つの名前を見た。


 ONO。


 カイル・ミラー。


 その日は、どちらにも線を引かなかった。


    *


 フェニックスは、もう次を見ていた。

 長かったペナントレースが、終わっていた。


 最終戦まで身体に残っていた重さも、少しずつ抜けている。

 疲れていないはずはない。

 長いシーズンを戦い、最後はあの一試合だった。

 それでも、グラウンドへ出てくる選手たちの足取りは、どこか軽かった。

 順位表を見なくていい。

 他球場の途中経過も、気にしなくていい。

 長い競争は、終わった。

 今度は、目の前の相手だけだった。


 クライマックスシリーズ、ファーストステージ。

 相手は、オーシャンズ。

 二位のフェニックスが、本拠地で迎える。

 勝ち抜けば、ファルコンズの待つ次のステージへ進む。


 打球音が、秋のグラウンドに続いていた。


「追い込まれてからじゃ遅いぞ」


 相沢の声が飛ぶ。

 ケージの中で、日下部が打った。

 次は、片瀬。

 その後ろで、大島がバットを持って待っている。

 いつもと変わらない顔で、前の打者の打球を見ていた。

 ただ、ケージへ向かう足取りは軽かった。


 まだ、野球が続く。


 誰も、それを口にはしなかった。

 少し離れたところで、Kが走塁練習をしていた。

 前の走者が戻る。

 入れ替わるように、一塁へ出た。

 リードを取る。

 投手役がセットに入った。

 Kが、三塁側を見る。

 コーチのサインを確認する。

 それから、投手へ視線を戻した。

 スタートは、切らなかった。

 竹田が、それを見ていた。


    *


 練習が終わるのを待って、榊原は竹田を捕まえた。


「少しいいですか」

「CSの話っすか?」

「それも聞きます」

「それも?」


 榊原は手帳を開いた。


「Kの正体が、カイル・ミラーじゃないかと言われています」

「ありえないっすよ」


 早かった。

 榊原が顔を上げる。


「ずいぶん即答ですね」

「だって俺、あいつのこと普通に『お前』とか呼んでますよ」

「年齢を知ってるんですか」

「知らないっす」

「では、なぜ」


 竹田が眉を寄せた。


「なんでって……」


 少し考える。


「若いっすよ、あいつ」

「カイル・ミラーは三十三歳です」

「三十三?」

「はい」

「大島さんと二つしか違わないってこと?」

「そうなります」

「ないない」


 竹田は笑った。


「そこまで分かりますか」

「毎日一緒にいますからね」

「顔は見ていない」

「見てないっすよ」

「声も」

「聞いてないです」

「それでも」

「分かりますよ、なんとなく」


 榊原はペンを動かした。


「どういうところで」

「どういうって言われてもなあ」


 竹田が頭を掻いた。


「仕草とか。反応とか。そういうの全部ですよ」


 少し、間があった。


「あいつ、変な格好してますけど、カイル・ミラーみたいなオーラなんかないですよ」

「オーラ?」

「カイルって、ずっとスターだった人でしょ」

「ええ」

「ずっと自分が主役だったっていうか。そういう選手じゃないですか」


 竹田はグラウンドを見た。

 Kは、用具を片付けていた。


「K、そういう感じじゃないんですよね」

「目立つのが嫌い?」

「嫌いかどうかは知らないですけど」


 竹田が笑う。


「あの格好で目立つの嫌いって言われても」


 榊原も、少し笑った。


「でも、自分から真ん中に行く感じはないっすね」


 最終戦。

 勝利が決まった後。

 輪の外に立っていた紅い頭部を、榊原は思い出した。

 大島が呼んだ。

 それでKは輪の中へ入った。


「英語は」


 竹田が振り向く。


「英語?」

「Kと英語で話したことはありますか」

「ないっすよ」

「全部、日本語ですか」

「そうです」

「通訳は」

「いないです」

「野球の細かい話も、日本語で」

「そりゃそうですよ」


 竹田は、少し不思議そうな顔をした。


「通じなかったら、俺、あいつの球受けられないですから」


 少し考えて、付け足す。


「喋んないだけで、こっちの言ってることは普通に分かってます」


 榊原は書いた。


 若い。

 日本語。


 その下に、もう一行。


 三十三歳?


「ありがとうございました」

「カイル説、追うんですか」

「追います」


 竹田は首を傾げた。


「絶対違うと思うけどなあ」

「プレーは、かなり似ています」

「そうなんすか」

「打撃は特に」


 竹田は少し考えた。


「じゃあ、相沢さんに聞いた方がいいんじゃないですか」


 そう言って、竹田が歩き出す。

 二歩進んで、止まった。


「プレーは似てるかもしれないっすね」

「そう思いますか」

「でも、俺は毎日あいつ見てるから。カイルって言われても全然そんな気しないですけど」


 竹田は、少し間を置いた。


「これ、記事にするんすか」

「まだ分かりません」

「できれば、しないでほしいっす」


 榊原は竹田を見た。


「なんとなくですけど」


 竹田は、グラウンドの方へ目をやった。


「あいつ本人も、正体を詮索されるの、嫌がってるような気がして」

「本人が、そう言ったんですか」

「言わないですよ。喋んないんで」


 竹田は少し笑った。


「なんとなくです」


 榊原は、手帳を閉じた。


「今日伺った話は、記事には使いません」


 竹田が榊原を見た。

 少しして、頭を下げた。

 そのまま、戻っていった。

 榊原は、その背中を見ていた。


 約束したのは、今日の話だけだった。


    *


 榊原はスタンドに残った。

 誰もいなくなったグラウンドを見る。


 カイル・ミラー、三十三歳。

 世界最高峰で十年以上を過ごした男。

 見られ続けた。

 期待され続けた。

 主役であり続けた。


 K。

 年齢は分からない。

 顔も分からない。

 声も知らない。


 だが、毎日そばにいる人間は、若いと言った。

 日本語を理解する。

 細かい野球の話まで。

 そして、主役であることに慣れていない。


 榊原は、手を止めた。

 今聞いたのは、証言ではない。

 顔も年齢も確かめていない人間についての、印象だ。

 記事にはできない。

 使わないと、約束もした。

 それでも、毎日数十メートルの距離で見ている捕手の印象だった。

 榊原自身が持っているものより、ずっと近い。


 手帳を開いた。


 カイル・ミラー=K?


 その文字を見る。

 消さなかった。

 その下に、三つ書いた。


 若い。

 日本語。

 人物像が合わない。


 カイル本人だと考えると、合わないものが増えていく。

 それでも、似ているものは一つも消えていない。


 そして、広瀬和巳との親交。


 榊原はページを戻す。


 ONO。


 四年前。

 若い投手。


 顔も映っていた。

 あの男がKだという証拠は、まだない。


 榊原は、二つの名前を囲んだ。

 線では、結ばなかった。


    *


「倉橋は初戦だろうな」


 伊丹が言った。

 監督室の机には、オーシャンズの資料が広がっている。


「向こうも、外してこないでしょう」


 伊丹は資料をめくった。


 倉橋直哉。

 皆川壮介。

 戸塚。


 何度も対戦した相手だった。

 伊丹は相沢に顔を向けた。


「チャンスは少ない。野手はしっかり準備させておけ」

「直近の映像は、もう渡してあります」


 伊丹は、それ以上言わなかった。

 次に、真壁を見る。


「中六日ある。うちは高梨だ」

「疲労は感じません。いけます」

「ブルペンは早めに立てろ。使える投手は、先に準備させておけ」

「そういう試合ですね」

「そうだ。絶対に落とせん」


 真壁がうなずいた。


「二日目は」

「Kだ」

「準備させます」

「投げる日は打たせん」


 真壁が、少しだけ相沢を見た。

 相沢は、何も言わなかった。


「だが、まずは初戦が全てだ。何としても勝ちに行く」


    *


 ブルペンで、竹田が座った。

 Kがマウンドに立つ。


 何度か受けたあと、竹田はKのところへ行った。

 ミットを動かしながら、皆川の癖を改めてKに教えていた。


 Kは素直に聞くようにうなずいていた。


 竹田には、このKが三十三歳のスター、カイル・ミラーとはとても思えなかった。


 CSファーストステージ。

 初戦は迫っていた。


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