第21話 残り一つ
残り一週間。
二位という場所が、毎日動いていた。
オーシャンズが勝てば、フェニックスが落ちる。
バイソンズが勝てば、その差が縮まる。
ファルコンズは、もうずっと上にいた。
残っているのは、その下だった。
三つのチームが、一つの場所を争っていた。
*
フェニックスは残り六試合。
「Kを指名打者で使いたいです」
相沢が言った。
監督室の机には、残り試合の日程が置かれていた。
「七番です。八番には竹田」
伊丹は日程から目を上げた。
「第二のクリーンナップか」
「はい」
若槻から本塁打を打ったあとも、Kは代打で使われていた。
四球。
左前打。
空振り三振。
右中間への二塁打。
結果だけではない。
投手が持つ時間を変えても、以前のようには崩れなくなっていた。
伊丹は真壁を見た。
「どうだ」
「反対です」
真壁はすぐに答えた。
「Kは先発です」
「分かってます」
相沢が言った。
「今やることじゃない」
「今だからです」
真壁は相沢を見た。
「打席に立つだけじゃない。走る。調整も変わる。疲労の出方も変わる」
相沢は黙って聞いた。
「今は投球に影響が出てない。でも、出てから戻せる保証はない」
投げて打つ投手を、真壁は一度も預かったことがなかった。
どんな変化が出て、どこから崩れるのか。
真壁は分からない。
「残り試合で、使える打者を使わない余裕はありません」
「先発を一人失う余裕は、もっとない」
部屋が静かになった。
伊丹は、机の日程を見た。
しばらくして、言った。
「使う」
真壁は何も言わなかった。
「先発の日は投手だけ。守備はなしだ。少しでも何か変わったら、お前が止めろ」
真壁を見る。
「壊すなよ」
伊丹がその言葉を真壁に言うのは、二度目だった。
「分かりました」
伊丹は相沢へ向いた。
「打つ方は任せる」
「はい」
最後に、日程を指で叩いた。
「一つも落とせん」
*
その日の打順表に、Kの名前が入った。
七番、指名打者、K。
八番は竹田。
竹田は紙を見て、Kを見た。
「俺ら、第二のクリーンナップらしいぞ」
Kは何も返さなかった。
「反応しろよ」
それでも返事はない。
竹田は肩をすくめた。
「まあ、打ちゃいいか」
試合が始まった。
相手も、もうKを代打とは見ていなかった。
外を使う。
内を突く。
左をぶつける。
持つ時間を変える。
Kも、全部は打たなかった。
それから数日。
凡退する日があった。
一本だけの日もあった。
四球で歩く日もあった。
投げる日は、マウンドだけに立った。
真壁は、そのたびに映像を並べた。
足の上がる高さ。
重心の移動。
腕の位置。
投げ終わった身体の向き。
今のところ、変わっていなかった。
*
残り四試合。
七回裏。
2対2。
一死。
Kが、一塁にいた。
打席には竹田。
相手投手がセットに入った。
Kがリードを取る。
投手が一度、見る。
Kは戻らない。
投手が前を向いた。
足が上がった。
Kが走った。
「え」
竹田の声が漏れた。
捕手が立つ。
送球が二塁へ飛ぶ。
Kは滑り込まなかった。
そのまま二塁を駆け抜けるように踏み、止まった。
「セーフ!」
球場が沸いた。
竹田は打席から二塁を見た。
「……お前、走れんのか」
Kはベースの上に立っていた。
伊丹は笑っていなかった。
その二球後。
竹田が直球を左前へ運んだ。
Kは二塁を蹴った。
三塁を回る。
送球は返ってこなかった。
Kがホームを踏んだ。
3対2。
フェニックスが、そのまま勝った。
「誰が走れっつった!」
試合後。
監督室に、伊丹の声が響いた。
Kは立っていた。
「サインは出してねえ。勝手に行ったよな?」
Kがうなずく。
「成功したからいいんじゃねえんだ!」
伊丹が机を叩いた。
「お前がどれだけ走れるか、こっちは知らねえんだ!」
Kは動かなかった。
「何を見て行ったのかも、こっちは知らねえ!」
伊丹はKを見た。
「チームで野球やれ!」
少し間があった。
Kが、うなずいた。
「行け」
Kが頭を下げ、部屋を出た。
廊下に竹田がいた。
「走るなら先に教えろよ」
Kが止まる。
「こっちは普通に打とうとしてたんだぞ」
竹田はKの横に並んだ。
「次から勝手に行くな。俺かベンチ見ろ」
Kは竹田を見た。
少ししてから、うなずいた。
*
その夜。
「怒られた」
「だろうな」
「成功した」
「だから?」
「まだまだベイビーだな」
*
翌日。
「オーシャンズ、明日からファルコンズと三連戦っすね」
ロッカーで、若手が言った。
「じゃあ三日間、ファルコンズ応援っすね」
別の選手が笑った。
「でも、もう優勝決めてるからな」
「主力、休ませるかもしれないですよね」
「一個でも勝ってくれたら、だいぶ楽になるんだけどなあ」
竹田がグラブをバッグへ入れた。
「その前に、俺らが勝たないと意味ないだろ」
「それはそうですけど」
「だったら、まずそっちだろ」
竹田はファスナーを閉めた。
「やること変わんねえよ」
少し離れたところで、大島が聞いていた。
何も言わなかった。
やがて選手たちが帰っていく。
ロッカーの照明が、少しずつ落ちた。
大島だけが残った。
壁のテレビでは、別の球場の試合が続いていた。
画面の端に、順位表が出ていた。
大島は座ったまま、それを見ていた。
三十五歳。
来年も同じ場所にいられるとは、考えていなかった。
*
残り二試合。
九回表。
一点差。
二死。
柴崎は、マウンドで皆川を見た。
少し前。
この打者に、本塁打を打たれている。
一ボール二ストライク。
柴崎は竹田のサインを見た。
うなずいた。
四球目。
振った。
空振り。
「ストライク、バッターアウト!」
試合が終わった。
フェニックスが、一点差を守った。
試合後。
人のいなくなった通路を、Kが歩いていた。
向こうから柴崎が来た。
二人は、そのまますれ違う。
直前。
柴崎が拳を出した。
Kが止まった。
一度、拳を見る。
少し遅れて、自分の拳を当てた。
柴崎は歩き続けた。
「俺、こないだの勝負、負けたと思ってねえから」
振り返らなかった。
Kだけが、その背中を見た。
*
榊原は、四年前の映像を何度も止めていた。
ONO。
今のK。
二つの映像を並べる。
速度は違う。
身体の厚みも違う。
それでも。
足の上げ方。
重心の移り方。
腕の出る位置。
投げ終わった身体の向き。
似ている。
同じ投手だ。
そう書きたくなる。
書けない。
Kの顔を知らない。
ONOの本名も知らない。
榊原は、もう一つ映像を開いた。
広瀬和巳。
三人を並べる。
スプリット。
サインが決まってから、打者を見直す短い間。
そこには、広瀬がいた。
だが、直球は違った。
ONOとKの直球は似ている。
広瀬の直球とは、そこまで似ていない。
榊原はノートに書いた。
――広瀬から教わった?
その下。
――なら、直球は?
答えは増えなかった。
問いだけが、一つ増えた。
*
〈元投手だろ〉
〈野手じゃないとあの打ち方は無理〉
〈海外いたんじゃね〉
〈何歳なんだよ〉
〈知らん。顔も見えんし〉
〈てか足速すぎだろ〉
少し前なら、それだけで何百件も返信がついた。
今は違った。
〈オーシャンズ勝った〉
〈バイソンズも勝ってる〉
〈明日落としたら終わるぞ〉
〈二位どこだよ〉
Kが誰なのかより。
どのチームがどこで終わるのか。
そちらの方が、先に来ていた。
*
東条グループ本社。
夜。
久世が報告を終えた。
「以上です」
東条一成は、手元の資料を見ていた。
久世は、その場を離れなかった。
「会長」
「何だ」
「89が打てることを、最初からご存じだったんですか」
一成が顔を上げた。
「久世」
「はい」
「余計な詮索はするな」
久世は黙った。
「言われた通りにしていればいい」
「……承知しました」
久世が部屋を出た。
扉が閉まる。
一成は、手元の資料へ視線を戻した。
*
夜。
ロッカーに残っていたのは、三人だった。
竹田はバッグを肩にかけた。
「明日だな」
Kが竹田を見る。
「最後」
Kの指が止まった。
「シーズンの話だよ」
「縁起でもねえこと言うな」
後ろから、大島が言った。
「まだ先がある」
「勝ったら、ですけどね」
「勝つんだよ」
大島はロッカーを閉めた。
三人が出ていく。
照明が消えた。
長かったペナントレースも、残すところ一試合。
二位を争う三チームの順位も、その一日で決まる。
そして翌日。
ペナントレース、最後の日がやってきた。




