第30話:迷子の魔王と、最強の四天王
しん、と静まり返っていた。
第一の宮『賢者の宮』から、第二の宮『天頂の宮』へと続く、どこまでも真っ白な大理石の回廊。
そこに響くのは、フィーリアが引く荷車の車輪が軋む音と、俺たちの重い足音だけだった。
三時間にも及ぶ、魂を直接ヤスリで削るかのような悪口のシャワーは、俺たちの精神力を根本からごっそりと削り取っていた。
もはやツッコむ気力すら、砂漠の砂粒ほども残ってはいない。
「…………」
鉄の棺桶と化した鎧の中から、俺、田中健太は深く、深ぁい溜め息を吐いた。
RPGなら、そろそろセーブポイントか回復の泉があってもいい頃合いだろう。
だが、この世界はそんな親切設計からは程遠い。
俺の隣では、フィーリアが固く唇を結び、無言で荷車を引いている。
その横顔は普段よりも険しい。
無理もない。
聖域での決戦という神聖な場を、三時間もの下劣な悪口で汚されたのだ。
その侮辱に対する純粋な怒りが、氷点下のオーラとなって漏れ出していた。
その後ろからは、カインが「これも女神が与えたもうた試練……」「我が信仰は揺るがない……」などとブツブツ呟いている声が聞こえる。
完全に自己暗示をかけて精神の崩壊を防ごうとしている。痛々しい。
そんな地獄のような雰囲気の中、唯一人、女神アスタルトだけが春の野原にでもいるかのように上機嫌だった。
「いやー、さっきのレグルスの理論、マジ画期的だったわ! アルミホイルで受信感度が改善するなんて、完全に盲点だったんですけどー! これ、全信者に配布するよう教皇に言っとかなきゃ!」
キラキラと目を輝かせながら、俺の肩をバンバン叩く女神。
その致命的なまでの空気の読めなさは、もはや神の御業と呼ぶべきだろう。
(頼むから黙っててくれ……)
だが、俺が今一番懸念しているのは、この女神のポンコツぶりではない。
トイレを口実にこの地獄から唯一人脱出した、俺たちのメインアタッカー。
魔王、姫川麗奈の不在だ。
この先のボスを、一体誰が倒すというのか。
しかし、俺たち三人の心には、口には出さないかすかな、本当に蜘蛛の糸のような細い希望があった。
――もしかしたら、ゲーマーの彼女なら、とっくに第二の宮にワープして俺たちを待っているんじゃないだろうか。
その淡い期待だけを杖に、俺たちは絶望的な道のりを、一歩、また一歩と進むのだった。
◆ ◇ ◆
その頃、一行の希望の星である姫川麗奈は、あらぬ方向へと進んでいた。
「うーん、一本道って飽きるなー。普通こういう場所って、壁とかに隠し通路があるもんでしょ」
ぶつくさ言いながら、麗奈は壁をコンコンと叩いて回る。
完全にゲームの攻略気分だ。
すると、ある一点で、明らかに他の場所と違う、少し軽い音がした。
「ビンゴ! この壁のシミ、絶対隠しスイッチだって!」
麗奈が、ただの経年劣化による壁の汚れを、ゲームのギミックだと断定して力いっぱい押し込む。
――ゴゴゴゴゴ……
「え、マジで開いたし! このゲーム、作り込み半端ないわー!」
回転する壁の向こうには、薄暗い小部屋が出現した。
申し訳程度のカウンター、薄汚れた棚、そして猫背のローブ姿の男が、しょぼくれた様子で商品を並べている。
その寂れた雰囲気は、まさにゲーム中盤にひっそりと存在する秘密のショップそのものだった。
「うおー! やっぱり隠しショップあった! すいませーん、ハイポーションとエリクサー、あと唐揚げくださーい!」
「へ、へい毎度……って、唐揚げ!?」
店主と思わしき男――ベルフェゴールが手配したサポート役の下級悪魔――は、麗奈の突拍子もない注文に素っ頓狂な声を上げた。
「え、ないの? 唐揚げないとかショップとして三流でしょ。じゃあポテトで」
「は、はぁ……」
(ベルフェゴール様……私にはこの御方の思考が読めません……なぜ聖域で揚げ物を……)
悪魔は心の中で泣き言を言いつつも、どこからかホカホカの唐揚げとフライドポテトを取り出した。
「いやー助かるわー。あ、この先のボスのヒントとかない感じ? チート級に強いとか?」
「へ? あ、えーと……この先におわす御方は……その、何もお考えになられない方が……かえって、その、力が……」
「なるほど、『Don't think. Feel.』ってことね! OK、OK、サンキュー!」
悪魔の必死のヒントを、麗奈は超ポジティブに誤解し、ホクホク顔でフライドポテトの袋を片手に、秘密のショップを後にした。
◆ ◇ ◆
第二の宮『天頂の宮』は、光に満ちていた。
ドーム状の高い天井、ステンドグラスから差し込む七色の光、そして満ちる清浄な空気。
その空間の中央、宙に浮かぶ巨大な蓮華座の上に、一人の女性が目を閉じて座っている。
白銀の髪、陶器のように白い肌。
神々しいまでの美貌を誇るその女性こそ、第二の四天王、『至高の光輝』イシス。
レグルスの下劣な悪口が、すべて嘘だったのではないかと思わせるほどの、荘厳で、絶対的なオーラが彼女を包んでいた。
(やばい……空気が違う。レグルスの粘着質な悪意とは真逆の、清浄すぎて逆に息が詰まるようなプレッシャーだ……!)
健太が鎧の中で冷や汗を流す中、フィーリアが荷車を置いて静かに剣を抜いた。
「――行くぞ!」
気合一閃、床を蹴ってイシスに斬りかかる。
だが、その刃が彼女に届くことはなかった。
イシスは目を開くこともなく、彼女の周囲に輝く光の壁――『天祐の障壁』が出現し、フィーリアの剣を柔らかく、しかし完全に受け止めたのだ。
キィン、という甲高い金属音の代わりに、ぽぅん、と気の抜けた音が響いた。
その時、イシスがゆっくりと目を開いた。
世界から音が消えたかのような静寂の中、鈴を転がすような、しかし感情の温度が一切感じられない声が響く。
「……滅せよ」
ただ一言。
それだけで、凄まじい光の圧力が健太たちを襲った。
抵抗も、防御も、回避も、思考することすら許されない。
なすすべなく吹き飛ばされた俺たちは、大理石の床に無様に叩きつけられた。
パーティは、戦闘開始からわずか数秒で、壊滅状態に陥った。
◆ ◇ ◆
イシスが、倒れたフィーリアたちに静かにとどめを刺そうと、ゆっくりと蓮華座から降り立った。
その時。
神殿の入り口の影から、一人の男が躍り出た。
「そこまでだ、四天王! このドブネズミのゼノがいる限り、好きにはさせん!」
ボロボロの法衣をまとったその男、カインの兄ゼノの登場に、かろうじて意識を保っていたカインが、心底迷惑そうな顔で振り返る。
「……なんだ、生きてたのか兄さん」
「なっ……! 弟よ、久々の再会だというのにその態度はなんだ! ……まあいい! 貴様が女神に最も近い女ならば、俺は最も泥に近い男だ!」
弟の塩対応に一瞬怯むも、ゼノはすぐに気を取り直しイシスを睨みつける。
「ふ、ドブネズミは何度でも巣穴から這い出す、そしてその牙はお前に喰らいつく! くらえ、ドブネズミの牙を! 『汚泥牙突』!!」
全身全霊、渾身の一撃。
汚泥のオーラをまとった拳がイシスに迫る。
しかし、イシスは差し出した優雅な指一本で、その拳をぴたりと受け止めた。
そして、まるで服についた埃を払うかのように、デコピンの要領で弾き返す。
ゼノは、ありえない勢いで神殿の壁まで吹き飛ばされ、派手に叩きつけられた。
だが、次の瞬間。
瓦礫の中から、ゼノがむくりと起き上がった。
口の端から血を流しながらも、その目は死んでいない。
「ふ……言ったはずだぞ。ドブネズミは、何度でも巣穴から這い出してくる、とな……!」
その常軌を逸したしぶとさに、見かねたカインの方がイラついてくる。
兄の無様で、無駄で、無意味な粘り強さに、彼の堪忍袋の緒が切れた。
(イライラ……)
「何してるんだよ、四天王最強なんでしょ! 兄さんくらいさっさと片付けてよ!」
◆ ◇ ◆
カインの叫びに、イシスはポカンとした表情で彼の方を向く。
やがて、こくりと一つ頷いた。
「……わかった。滅せよ」
その瞬間、イシスの全身から、これまでとは比較にならない神々しい光――神力が立ち上る。
神殿の空気がビリビリと震え、凄まじいエネルギーに満ちていく。
「きたーっ! あれがイシス最大の奥義、『神域宝輪』よ! 相手の五感を断ち、戦闘能力を永久に奪う、最強の精神攻撃なのよー!」
アスタルトの解説が響く。
だが、健太たちが焦る間もなく、奥義は炸裂した。
神殿の空間が歪み、俺たちの背後に、なぜか巨大な千手観音や極彩色の曼荼羅が、後光を放ちながら出現する。
(なんで仏像なんだよ! ここの教会の教義はどうなってんだ!)
健太の魂のツッコミも虚しく、圧倒的な光と衝撃が神殿内を吹き荒れる。
ゼノはもちろん、すでに倒れていた健太、フィーリア、カインもその衝撃に完全に巻き込まれ、意識が闇に沈んだ。
虫の息、という言葉すら生ぬるい。
パーティは、完全に沈黙した。
◆ ◇ ◆
静寂が戻った神殿。
そこには、ただ一人無傷で佇むイシスと、完全に沈黙した健太たち、そして今度こそピクリとも動かないゼノの姿があった。
完全、敗北。
その絶望的な静寂を破るように、神殿の入り口から、場違いなほど明るく、のんきな声が響き渡った。
「おっまたせー! いやー、ショップの唐揚げ、揚げたてでマジ美味かったわー!」
そこに立っていたのは、フライドポテトの入った紙袋を片手に持った、我らが魔王・姫川麗奈だった。




