第26話 ドブネズミの誓い
その村は、地図にも載らないような、山間の小さな集落だった。
背教者のリーダー、ゼノは、先の戦いで負った傷をこの村で癒しながら、世界の緩やかな変調を感じ取っていた。
季節外れの冷たい長雨が続き、日照不足で作物の育ちが悪いと、村人たちが不安げに囁き合っている。
空には、以前よりも淀んだ色の雲が、常に低く垂れ込めているようだった。
女神の限界が、世界の隅々にまで、確実に影響を及ぼし始めていた。
「兄ちゃん、これ今日の分。ちゃんと食えよ」
ゼノが隠れ住む掘っ立て小屋の戸口から、一人の少年が顔を覗かせた。
カインによく似た面立ちの、利発そうな少年だ。彼は、怪我人であるゼノを気遣い、毎日欠かさず食事を運んできてくれていた。
「フン…施しは好かんと言っているだろう」
ゼノが、包帯の巻かれた顔を顰めてぶっきらぼうに言うと、少年は悪びれもせずに小屋に入ってきた。
「いいじゃねえか、減るもんでもなし。それより、その傷、まだ痛むのか?」
少年は、ゼノの傷だらけの腕を、怖がるでもなく覗き込む。
「あんた、なんでそんなにボロボロなんだ? 悪いやつらと戦ってたのか?」
「……お前には関係ない。さっさと行け」
「ちぇっ。まあいいや。あんたが言ってた『何度でも這い出してくる』ってやつ、結構カッコいいから、俺、あんたのこと信じてるぜ」
少年は、黒パンとスープの入った椀を床に置くと、嵐のように去っていった。
残されたゼノは、スープの温かい湯気を見つめながら、泥と憎悪にまみれた自分の心が、ほんのわずかに温まるのを感じていた。
◆ ◆ ◆
その束の間の平穏は、一本の氷の矢によって、ガラスのように砕け散った。
ピシリ。
空気が凍る音。
小屋の壁を貫通し、ゼノの頬を紙一重でかすめた矢は、部屋の奥の壁に深々と突き刺さり、その周囲一帯を純白の霜で覆い尽くした。
「見つけたぞ、女神への反逆者、『ドブネズミ』よ」
小屋の外には、音もなく、純白の騎士鎧に身を包んだ一人の男が立っていた。
四天王『氷の騎士』ライアスの弟子を名乗るその男は、氷のように冷たく、一切の感情を映さない瞳でゼノを見下ろしている。
「我が師、ライアスのご命令だ。貴様のような、世界の調和を乱す汚物は、ここで完全に消毒せねばならん」
「……教会の犬が、わざわざこんな山奥までご苦労なことだ」
「黙れ。我が師、ライアスより賜りしこの凍気の前では、貴様の汚泥の技など無力と知れ」
男は、事あるごとに師の名を口にする。
その狂信的なまでの忠誠心は、彼を人間ではない、ただの処刑マシーンのように見せていた。
まだ傷の癒えきらないゼノは、ライアスの弟子が放つ絶対零度の闘気の前に、成すすべもなく打ちのめされ、泥の地面に膝をついた。
◆ ◆ ◆
「ぐっ…!」
「終わりだ、ドブネズミ」
ライアスの弟子が、止めの一撃を放とうと、その手に凍気の刃を生み出す。
だが、その動きがピタリと止まった。
彼の仲間が、先ほどの少年を人質として捕らえ、ゼノの前に突き出したのだ。
「これが我ら教会の『正義』だ」
男は、勝ち誇ったように、ゼノに教会の思想を説く。
「際限なく甘やかす女神と、際限なく求める愚かな民。我らはその間に立ち、聖なる秩序を守っているのだ。貴様のような害虫から、この世界の安寧を、女神様御自身を、お守りしているのだ!」
それは、民を守るためと称して、女神を鳥籠に閉じ込めるという、独善的で傲慢な正義だった。
しかし、その言葉が。
ゼノの魂に、逆鱗に、火をつけた。
「子離れできん女神と、その愛に甘えるだけの人間共に、自由などない!」
ゼノは、口の端から血を流しながら、獣のように叫んだ。
「己の足で立つために女神の手を振り払うことこそ、真の愛だ! 今の世界を見てみろ! あの空の淀みは、女神の涙だ! その悲しみが、苦しみが、貴様ら教会には分からんのか!」
◆ ◆ ◆
ゼノの魂の叫びに、人質にされていた少年が、何かを決意したように目を見開いた。
彼は、刺客の腕に、力の限り噛みついた。
「ぐっ! このクソガキィ!」
一瞬怯んだ隙に、少年は拘束から逃れ、安全な場所へと駆け出す。
人質を失い、逆上した刺客が「ならば、まず貴様からだ!」とゼノに止めを刺そうと、その拳に凍気を集中させる。
だが、ゼノは、もうそこにいない。
彼はいつの間にか、不屈の闘志をその目に宿して、立ち上がっていた。
「ドブネズミは…」
その声はか細いが、決して折れない鋼の芯を持っていた。
「何度でも巣穴から這い出してくる…!」
ゼノの脳裏に、そしてライアスの弟子の目の前に、不可思議な幻影が突如として広がる。
『――見よ、あれは生命の澱、都市の残滓が集う聖域…ゴミ箱! その中で、一匹のドブネズミが、飢えと寒さに耐えながら、ただ生きるために必死に残飯を漁る! その渇望、その執念こそが、彼の汚泥の力の根源なのだ…!』
「貴様ら教会の綺麗なだけの正義か、俺の泥にまみれたドブネズミの正義か…この拳に聞いてみるがいい!」
ゼノは、不屈の闘志を込めた拳を構える。
「くらえッ! 汚泥牙突!」
渾身の一撃は、ゴミを漁るネズミの幻影と共に、ライアスの弟子の腹部に深々と突き刺さった。
清廉な白の鎧は、汚泥の魔力によって醜く汚染され、腐食していく。
男は、自らの身体を蝕む汚濁の幻覚に「ひ、ひぃっ…!」と悲鳴を上げると、「我が師、ライアスぅぅぅ…」と無念の叫びを残し、その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
少年が見送る中、ゼノは傷ついた身体を引きずり、決意の目で東の空を睨む。
彼もまた、己の正義を証明するため、決戦の地『聖域』へと向かうことを固く誓うのだった。




