第25話 ブラック企業の悪夢と、SEの覚悟
地獄のセブンセンス覚醒修行は、日を追うごとにその狂気を増していた。
フィーリアはついに、道中で通りかかった川の流れを、その細腕で真正面からせき止めようとし始めていた。
「この奔流に我が身を委ね、触覚を麻痺させることで、真の感覚は開かれる…!」
などと、真顔で呟いている。
川の水は、彼女の圧倒的な力に押され、奇妙な渦を巻いていた。
一方の麗奈は、そこらで拾ったY字の木の枝をアンテナのように天に掲げ、一点をじっと見つめている。
「運営からの啓示…いわゆる『天啓』を受信する…! セブンセンス解放のヒントが、この大気に満ちているはず…!」
彼女の目は、完全に常人のものではなかった。
(もうダメだ、こいつら…)
健太は、荷車の上で完全に無力だった。
彼の常識的な制止の声は、修行に没頭する二人の耳には全く届かない。
かつて、仕様を理解しないクライアントに、どれだけ丁寧に説明しても無駄だった時の、あの虚無感が蘇る。
(俺の常識は、こいつらの圧倒的な強さと、純粋すぎるアホさの前では、何の役にも立たない…!)
心身ともに疲れ果てた健太は、ガタゴトと規則正しく揺れる荷車の中で、抗えないほどの強い眠気へと意識を手放していった。
◆ ◆ ◆
健太が次に目を開けると、そこは薄暗く、静まり返った執務室だった。
ガタゴトという不快な振動はない。
聞こえるのは、無数のウィンドウが明滅する光の板から発せられる、サーバーの静かな駆動音だけだ。
(どこだ…ここ…?)
健太が混乱していると、部屋の主らしき人物が、重々しく口を開いた。
「お待ちしておりました、田中健太殿」
声のした方を見ると、巨大な執務机の向こうに、一人の紳士が深く椅子に沈んでいた。
上質なスーツを着こなしているが、その首から上は、威厳のある巻角を持った羊だった。
羊頭の悪魔は、疲れ果てた中間管理職のように、光の板を前に肩を落としている。
ベルフェゴール。
フィーリアの主であり、魔王(麗奈)を召喚した張本人。健太にとっては、間接的に関わりはあったものの、顔を合わせるのはこれが初めてだった。
彼の声には、芝居がかった尊大さは欠片もなかった。
あるのは、プロジェクトの炎上を前にしたプロジェクトマネージャーのような、ひたすらに切迫した響きだけだった。
「単刀直入に申し上げます。レグルスが言った『セブンセンス』など、些末な問題。真の危機は、この世界そのものの存続にあります」
ベルフェゴールは、光の板の一つのウインドウを健太に見せる。
そこには、健太も見慣れた、システムのリソース使用率を示すグラフが表示されていた。
CPU、メモリ、ネットワーク……その全てが、危険水域を示す赤色で振り切れている。
「この世界は、女神アスタルトという名の、たった一つのサーバーで稼働する巨大なシステム」
「そして、先の『神の鎧』創出という無茶な実装により、サーバーは今、いつクラッシュしてもおかしくない極めて不安定な状態にあるのです」
「このままでは、世界はフリーズ…完全なデータ消去、つまり、消滅します」
◆ ◆ ◆
あまりにもスケールの大きな話だった。
だが、SEである健太は、その絶望的な状況を、専門家として冷静に理解してしまった。
そして、かつて自分がそうであったように、ただ一つの感想を口にした。
「そんな無茶なシステム、一人で背負う必要なんてないだろう。サーバーが物理的に壊れる前に、サービスを停止すればいい」
「女神であることを、放棄して。……逃げ出せばいいじゃないか」
それは、ブラック企業から逃げ出したかった、かつての自分自身の、心の叫びだった。
その言葉を聞いたベルフェゴールは、静かに光の板から視線を外した。
そして、その羊の瞳で健太の魂を真っ直ぐに見据えると、静かに、しかし、決して忘れられない問いを投げかけた。
「あなたは、残業から逃れたんですか?」
その一言は、健太の心の、最も柔らかく、最も傷ついた部分を、容赦なく抉った。
言葉に詰まる。
脳裏に、前世の記憶が鮮烈に蘇る。
煌々と光るモニター、冷え切ったコンビニ弁当の味、深夜二時の誰もいないホーム、朝日を浴びながら「死にたい」と呟いたこと。
それでも、彼は逃げなかった。
いや、逃げられなかった。
「自分が辞めたら、このプロジェクトは本当に終わる。他の人に迷惑がかかる」と、呪いのような責任感を自らに課し、身体が壊れるまで、トラックに轢かれる、その瞬間まで、走り続けた。
自分は、自らの意志で、あの地獄から逃げることなど、できなかったのだ。
◆ ◆ ◆
「――ッ!」
健太は、息を詰らせたまま、夢から覚めた。
目の前には、現実の青空と、川の流れを腕力で変えようとするフィーリアと、天啓を待つ麗奈の姿。
その光景は、眠りに落ちる前と何も変わらない、狂気に満ちた日常。
だが、健太の中の何かが、決定的に、そして静かに、変わっていた。
彼は、兜の中で一度、固く目を閉じた。
そして、次に目を開いた時、そこにあったのは絶望ではない。
かつて、大規模なシステム障害を前に、たった一人で「自分がやるしかない」と腹を括った時と同じ、静かで、しかし揺るぎない覚悟の光だった。
健太は、天を仰ぎ、誰に言うでもなく、はっきりと呟いた。
「……しょうがねえな」
それは、この理不尽で、欠陥だらけで、どうしようもなく愛おしい仲間たちがいる世界の「仕様」を、SE・田中健太として、本気で修正し、守り抜くことを決意した、覚悟の一言だった。




