第21話 鎧に選ばれし者(ただし最弱)
洞窟の最深部は、小規模な体育館ほどの広さがあった。
湿った空気はカビと土の匂いを運び、天井から滴る水滴が、不規則なリズムで水たまりを叩いている。
その中心に、不釣り合いなほど神々しい輝きを放つ鎧の『胴体』と『兜』が、天然の岩を削っただけの粗末な祭壇に安置されていた。
そして、その前で一人の男が腕を組み、一行を待ち構えていた。ゼノだ。
まるで何日もそこに立ち続け、世紀の対決を待ちわびていたかのような、悲壮感すら漂う立ち姿である。
「よく来たな、愚かなる者どもよ! そして…我が愛しき弟、カイン!」
ゼノの芝居がかった声が、洞窟の高い天井に反響する。
それに対し、カインは心底面倒くさそうに、美しい顔をわずかに顰め、吐き捨てるように言った。
「早く死んでくれないかな、兄さん」
「なっ…!」
ゼノの表情が、感動の再会を果たした兄から、実家に電話したら迷惑がられた父親のそれへと一瞬で変わる。
「相変わらず兄への情が薄い弟だ! だが、それもいい! その捻じ曲がった性根、この俺が愛の拳で叩き直してくれる!」
彼は、弟からの辛辣な言葉を振り払うかのように、大きく腕を広げ、戦闘態勢に入った。
◆ ◆ ◆
「まずは貴様からだ、魔王気取りの小娘ェ!」
ゼノは、この場で最も危険だと判断したのだろう、姫川麗奈にその痩せた身体を向けた。
腰を深く落とし、両掌に淀んだ泥色の魔力を集中させる。
それはまるで、ヘドロを練り上げ、呪詛を混ぜ込み、煮詰めて濃縮したかのような、見るだけで気分が悪くなる魔力だった。
「くらえ! 我が憎悪の結晶! 汚泥病魔拳!」
放たれた魔力の塊は、物理的な破壊力こそない。
しかし、生き物のようにうねりながら麗奈の全身にまとわりつくと、スッとその身体に吸い込まれていった。
麗奈は、一瞬キョトンとした顔をした。
次の瞬間、彼女の瞳から、ゲームに熱中していた子供のような輝きが、急速に失われていく。
「あれ…? なんか、急に…やる気なくなった…」
麗奈は、その場にへたり込んだ。
「もう戦うのとか、どうでもいいや…。クエストも、レベル上げも、全部面倒くさい…。部屋の隅っこで体育座りして、膝抱えて、壁のシミでも数えてたい気分…」
まるで、ゲーム画面からクエストログもHPバーも全て消え去り、ただの背景グラフィックになってしまったかのように、彼女の戦意は完全に喪失していた。
◆ ◆ ◆
「ふははは! 一人脱落! 次はお前だ、見るからに何の役にも立たなそうな凡人め!」
ゼノの次の標的は、パーティで最も脆弱な男、田中健太だった。
健太の心臓が、警鐘のように激しく脈打つ。
「させん!」
フィーリアが即座に反応し、重い鎧の重量を感じさせない踏み込みで、健太の前に立ちはだかろうとする。
しかし、ゼノの動きは、これまでの小物感からは想像できないほど素早かった。
彼は、地を這うネズミのように姿勢を低くすると、フィーリアの防御範囲を巧みにかいくぐり、一瞬で健太の懐に潜り込む。
世界が、スローモーションに見えた。
「死ねぇっ!」
ゼノの汚れた拳が、健太の顔面めがけて迫る。避けられない。防げない。
(終わった…!)
健太が、今度こそ己の死を覚悟した、その瞬間だった。
◆ ◆ ◆
カキン!
という硬質な音が、洞窟に響き渡った。
ゼノの拳は、健太の鼻先数センチで、見えない壁に阻まれたかのように弾かれていた。
祭壇に安置されていた神の鎧の『兜』と『胴体』が、自らの意思で動き出し、健太を守るようにその間に割り込んだのだ。
「なっ…鎧が勝手に!?」
ゼノが驚愕の声を上げる。
次の瞬間、洞窟全体が、太陽が落ちてきたかのようなまばゆい光に包まれた。
健太の脳内に、どこかで聞いたことがあるような、しかし版権的にはギリギリアウトな気がする、あの勇壮なメロディが直接鳴り響く。
一行が道中で回収した『籠手』『すね当て』『肩当て』『腰当て』のパーツが、光に引かれるようにひとりでに宙を舞い、光の中心にいる健太の身体へ、吸い寄せられるように飛来していく。
カシャッ、ガキン、と小気味よい金属音を立てて、鎧が次々と健太の身体に装着されていく。
肩を、腕を、脚を、そして胴体を。
最後に兜が頭部に収まった時、光が収束し、そこには神々しい黄金の輝きを放つ、完璧な全身鎧をまとった一人の戦士が立っていた。
それが、自分であるという実感だけが、健太にはなかった。
◆ ◆ ◆
「うおおお! イベントシーンきたー! 主人公覚醒キター!」
その神々しい光景を見て、精神汚染から回復した麗奈が、まるで自分のことのように目を輝かせて叫んだ。
彼女は、最高のクライマックスシーンを演出する監督のように、健太に力いっぱいのエールを送る。
「いまだ、ケンタ! 必殺の拳を叩きこめ!」
麗奈の声が、脳内に響く音楽が、そして全身を駆け巡る、これまで感じたこともない万能感が、健太の背中を押した。
(これだ…! これが、俺のチートなんだ! これなら、世界だって救えるんじゃないか…!?)
「うおおおおおおっ!」
健太は、人生で最も大きな雄叫びを上げ、渾身の力を込めて右ストレートを放った。
しかし、その拳は、彼の意志とは裏腹に、想像を絶する鎧の重さに耐えきれなかった。
油を差していないブリキの人形のように、腕がギシギシと悲鳴を上げる。
生まれたての子鹿のように、拳が情けなくプルプルと震えた。
ペチッ。
洞窟の静寂の中、あまりにも弱々しく、間の抜けた音が、虚しく響いた。
◆ ◆ ◆
健太は、自分の拳から伝わった「肉を叩いた」というよりは「熟れすぎたトマトを撫でた」かのような感触に、その場で完全に固まった。
しかし、その一撃を受けたゼノは。
まるで不可視の砲弾でも食らったかのように、目を大きく見開いて後方へ数メートル吹き飛んだ。
彼は、ゆっくりと、しかしどこか満足げに立ち上がると、晴れやかな顔で健太のもとへ歩み寄り、その鎧の肩にそっと手を置いた。
「どうやら…鎧に選ばれたのはお前のようだ…。弟を…頼んだぞ…」
そう言い残すと、ゼノの身体は、まるで役目を終えたかのように黒い粒子となり、風と共に跡形もなく消え去っていった。
洞窟には、気まずい静寂だけが残された。
何が起きたのか全く理解できず、鎧の中で立ち尽くす健太。
そんな兄の最期を見届けたカインは、心底どうでもよさそうに、ただ一言、毒づいた。
「だから早く死んでくれればよかったのに」
そして、麗奈は、少しだけ不満げに頬を膨らませて、この茶番劇の総評を述べた。
「うーん、もうちょっとダメージ演出欲しかったなー」
こうして、田中健太は、全く意図しない形で、そして誰も予想しなかった形で、神の鎧の新たな所有者となったのだった。




