第8話 学校での再接触と違和感 青野冷/Zero 視点
深夜の仮想空間で起きたバグのような現象を、青野冷は翌日の授業中も反芻していた。
(――非論理的だ。あまりにも非論理的すぎる)
ノートパソコンの画面には、現代文のデジタル教科書を開いたふりをして、裏で走らせている『Game Nexus』の戦績データと独自開発の分析ツールが映し出されている。
相棒としてマッチングした『Scarlet』の戦闘ログ。何度見返しても頭痛がしてくる。
事前の戦略共有なし。キャラクターの相性無視。遠距離ユニットの前線投入という狂気の沙汰。あまつさえ、味方である自分(ZERO)の指示を「めんどい」の一言で切り捨てる横暴っぷり。
戦術レベルで言えば、彼女のプレイは間違いなく最低評価のFマイナスだ。
だが、結果は「圧倒的勝利」。
敵の攻撃パターンの初見での見切り。フレーム単位での完全回避。そして間髪入れないカウンター。VRアクションにおける彼女の身体能力と反射神経は、理不尽なまでに突出していた。
(駒の動かし方も知らないノービスが、対人戦のベテランをアクションの腕だけで蹂躙した。……まるで、ゲームのルールそのものを直感と腕力だけでへし折るような戦い方だ)
「――青野。青野冷」
不意に、教卓からの声がノイズのように冷の思考を遮った。
顔を上げると、現代文担当でありクラス担任でもある佐藤友美が、少し困ったような、だが期待を含んだ目でこちらを見ている。
周囲の生徒たちの視線が一斉に冷に集まった。呆れ、好奇心、あるいは軽い嫉妬。『またあの変人が当てられたぞ』という空気が教室に満ちる。
「今読んだ段落における、筆者の主張の根底にある西洋的価値観のパラドックスについて、君ならどう解釈する?」
佐藤先生からの、高校一年生に対するものとしては明らかにオーバーワークな問いかけ。だが、冷にとっては「あらかじめ用意されたスクリプトを読み上げるだけ」の作業に等しい。
冷は立ち上がることもせず、淡々とした声で答えた。
「筆者は近代化を肯定しつつも、第4段落の『自己決定の限界』という記述において、西洋的な個人主義が孕む孤立の構造を批判しています。つまり、完全な自律を求めるほどにシステムへの依存度が高まるという矛盾です。これは本テキストのテーマである『連帯の再構築』への布石として機能しています」
教室が一瞬、水を打ったように静まり返る。
佐藤先生は満足げにうなずき、「完璧だ。皆も今の青野の視点をノートに取っておくように」と黒板に向き直った。
周囲から「マジかよ」「相変わらず辞書みたいなヤツ」というヒソヒソ声が漏れるが、冷は表情一つ変えずにパソコンの画面をGame Nexusのデータに戻した。
学年1位。それが、この学校における青野冷の表向きの記号だ。
だが、彼にとってその成績は、優秀さを誇示するためのものではない。教師からの余計な干渉を排除し、この空間を「ゲームのための生活習慣を維持する場所」として最適化するための、単なる免罪符でしかなかった。
他人の評価はどうでもいい。自分は一人で完結している。
冷の思考は、再び深夜の戦場――そして、あの暴れ馬のような相棒へと戻っていく。
(理屈を超えたポテンシャル。……あんな非論理的なエネルギーを持った人間が、世の中には存在するということか)
*
昼休み。
冷は混雑する購買や食堂を避け、いつも通り中庭を抜けて裏庭の静かなベンチへと向かおうとしていた。給食代わりのゼリー飲料を吸いながら、午後の授業中に回すAI操作のスクリプトを頭の中で組み立てる。
だが、中庭に差し掛かった瞬間、彼の求めていた静寂は物理的な音圧によって破壊された。
「そこのキミ! そう、キミキミ! 生徒会主催、『校則フリーダム化計画』の先行アンケート、絶賛受付中よー!」
声の震源地は、中庭の中央。
そこに、手描きのド派手な看板を掲げ、拡声器を持って演説している赤井温の姿があった。
入学早々、数日前に校舎前で理不尽な口論を吹っ掛けてきた、あの赤いツインテール。今日は太陽の光を浴びてさらに威圧感を増しているように見える。周囲には彼女の取り巻き――星野ひかりや中村舞が笑いながらビラを配り、さらにBクラスの男子人気グループのリーダー、瀬川陸までもが苦笑しつつ彼女の手伝いをさせられていた。
「目安箱に意見を入れてくれた人には、もれなくアタシのサイン入りポケットティッシュをプレゼント! さあさあ、ドシドシ書いてってー!」
「温、サイン入りティッシュとか誰もいらないから!」
「もう、温ったらまた勝手なこと始めて……でも面白いからいっか!」
ひかりと舞がツッコミを入れつつ盛り上げ、野次馬の生徒たちが面白半分で集まってくる。
秋には生徒会副会長に内定しているという噂は聞いていたが、これほどまでに承認欲求とエネルギーを撒き散らす人間を、冷は他に知らない。
(……相変わらず、異常なエネルギーレベルだ。視覚と聴覚へのテロ行為だな)
関わるべきではない。
冷は存在感を極限まで消し、騒ぎの円周を迂回するように足早に通り過ぎようとした。
その時だった。
中庭の端でサッカー部の生徒たちが軽いパス回しをしていたのだが、一人の蹴り損ねたボールが、綺麗な放物線を描いて温の頭部へと真っ直ぐに向かっていった。
(速度、角度、共に直撃コース。……危ないな)
冷が脳内でそう計算した瞬間。
拡声器で叫んでいた温は、ボールを一度も見ることなく、まるで後頭部に目がついているかのように、ヒラリと首をわずかに傾けた。
ボールは彼女の赤い髪を掠めて通過し――。
「あ、危なーい!」
「おっと」
温はくるりと振り返ると、そのまま落下してくるボールの軌道に合わせ、スカートが翻るのも気にせず、滑らかな動作で強烈なボレーキックを叩き込んだ。
ドゴォッ! という重い音が響き、ボールは蹴ったサッカー部員の足元に寸分狂わず突き刺さる。
「ちょっと! グラウンド以外での球技は没収って校則、忘れたの!? 次やったら生徒会権限でボールに顔の落書きするからね!」
ビシッと指を差して笑う温。周囲から「すげえ」「さすが赤井」と歓声が上がる。
だが、冷の足は完全に止まっていた。
ゼリー飲料のパッケージを握る手に、思わず力が入る。
(……今のは。今の見切りと、体勢の立て直しは……)
深夜のゲーム画面がフラッシュバックする。
敵の『Cat』の突撃を紙一重で回避し、即座に強烈なカウンターを叩き込んだ、あのSSR『Holy Knight』の非常識な動き。
ステータスに頼ったゴリ押しではない。生身の人間の、純粋な反射神経と空間把握能力。それが仮想空間のVRアクションに反映されていたのだとしたら。
(……いや。世の中には、あんな非論理的な動きを平然とやってのける規格外の人間が、ゲームにも現実にも存在するということか。信じがたいことだが)
仮想世界のバグのようなプレイヤーと、現実世界の嵐のような少女。
交わるはずのない二つの存在が、冷の中で奇妙にリンクし、説明のつかない違和感を生じさせる。
立ち尽くしていると、ボールを蹴り返したばかりの温が、ふとこちらに視線を向けた。
そして、獲物を見つけた肉食獣のように目を輝かせる。
「あ! そこのひょろいAクラスの男子!」
(……しまった)
冷が踵を返そうとした時には遅かった。温は拡声器を放り投げ、弾むような足取りで冷の目の前まで駆け寄ってきた。甘いシャンプーの香りが鼻を突く。
「昨日の朝ぶりね! なにコソコソ逃げようとしてるのよ。さてはアタシのカリスマ性にひれ伏しに来たのね?」
「……ただの通り道だ。用がないなら失礼する」
「あ、待ちなさいよ! アンタ、頭いいんでしょ? ほら、この目安箱のアンケート第一号になりなさい。アタシの素晴らしいアイデアに、論理的な称賛を書き込んでもいいわよ」
ぐいっと、デコレーションされたアンケート用紙を押し付けられる。
冷は小さくため息をつき、極めて冷淡な声で答えた。
「断る。強制的なアンケートは生徒の自主性という本来の目的に反する。そもそも、実現可能性の低い要求を無作為に集めたところで、生徒会のリソースを無駄に消費するだけだ。有意義なデータを得たいなら、まずはサンプリングの――」
「あーもう! ストップストップ!」
温は耳を塞ぐような仕草をして、大げさに顔をしかめた。
「ほんっと、理屈っぽーい! かわいくないわね! なにその長ったらしいセリフ、呪文か何か? さすがAクラスのガリ勉君は言うことが違うわね!」
「客観的な事実を述べたまでだ」
「それよそれ! そのカンジ!」
温はビシッと冷の鼻先を指さし、思い出したように口を尖らせた。
「アンタさー、昨日アタシがゲームで組んだ、すっごいムカつくヤツにそっくり! アイツもね、こっちの気も知らないで『ああしろ、こうしろ』『下がれ』って、後方からピーチクパーチクうるさかったのよ!」
冷の心臓が、微かに跳ねた。
(……まさか。いや、そんな偶然があるはずがない。あのゲームの初日の同時接続者数を考えれば、確率は天文学的だ。単に、彼女のような直感型の人間は、総じて僕のような論理型を煙たがるというだけの話だろう)
ポーカーフェイスを崩さないよう、努めて平坦な声で返す。
「……ほう。それは、君がよほど無謀なプレイングをしたから、相棒が注意したのではないのか?」
「はぁ!? なんでアンタがそんなこと言うのよ!」
図星を突かれたような反応で、温がムキになって詰め寄ってくる。
「アタシの動きは完璧だったの! 相手の攻撃、全部ヒラリヒラリってかわして、ザクッてやってやったんだから! むしろアイツはアタシの圧倒的な才能にビビって、後ろで震えてただけよ! ま、最後はアタシが『サポートありがと!』って大人の余裕で言ってから、華麗にログアウトしてやったけどね!」
「…………」
(お前が指示を無視して暴走した挙句、一方的に切断したんだろうが……!)
Scarletの行状と重なる発言に、脳内で凄まじい早口のツッコミが暴走するが、冷はそれを奥歯を噛み締めて封じ込める。
どうやら、現実世界の赤井温も、仮想世界のScarletと同じくらい、どうしようもない自己中心的な直感型プレイヤーらしい。
「おい、赤井。あんまりAクラスのヤツを困らせるなよ」
不意に、温の背後から爽やかな声がかけられた。瀬川陸だ。
彼は人懐っこい笑顔を浮かべながらも、冷に向ける視線には明らかな「見下し」があった。
「あいつ、いっつも一人で本読んでるような奴なんだから。青野も、Bクラスの俺たちのノリに無理に付き合わなくていいぜ。なんかあったら俺が代わるからさ」
「……誰の庇護も必要としていない。失礼する」
瀬川の牽制に構うことなく、冷は踵を返した。
背後で「ちょっと、逃げるなー!」という温の声が聞こえたが、振り返らない。足早に中庭を後にし、誰もいない校舎の裏手へと身を隠した。
冷たいコンクリートの壁に寄りかかり、小さく息を吐く。
頭の中で、状況を整理する。
赤井温。
学園で最も目立つ、関われば必ずトラブルに巻き込まれるであろう、制御不能の暴れ馬。
そして、あのScarletのような、理屈の通じない非常識なポテンシャルを持つ直感型の人間。
(……関わるべきではない)
冷の論理回路が、明確なアラートを鳴らしている。
現実世界でも仮想世界でも、ああいう騒々しい人間と関われば、平穏な日常が破壊される。
俺は一人でいい。一人で完結する強さを持っている。他人は不確定要素であり、バグであり、ノイズだ。瀬川のような現実の強者たちの輪に入る必要もない。
……だというのに。
『相手の攻撃、全部ヒラリヒラリってかわして――』
昨晩のゲーム画面と、先ほどの中庭での身のこなしが、脳内で幾度も交錯する。
あのデタラメな才能。論理の壁を軽々と飛び越えていく、圧倒的な感覚。
(もし、あの規格外のポテンシャルを「戦略」で完璧にコントロールできたら、どうなる?)
「……馬鹿な」
冷は自嘲気味に呟き、首を振った。
他人に期待などしない。誰かと組む強さなど、脆くて信用できない。
だが、冷の胸の奥底に生じた小さな「違和感」と、彼女の才能に対する説明のつかない「好奇心」は、論理の冷水では完全に消し去ることができず、チリチリと燻り続けていた。




