第10話 体育祭のバスケ対決
集団的熱狂というものは、いかにして人間の認知バイアスを歪ませるか。その最たる例が、この体育祭という名の非合理的なイベントだ。
喧騒に包まれた体育館。床を擦るバッシュの甲高いスキール音、ホイッスルの響き、そして鼓膜を物理的に揺るがすような生徒たちの歓声。
俺――青野冷は、コートから最も遠い壁際に並べられたAクラスのパイプ椅子に深く腰掛けながら、心の中で一人毒づいていた。
目の下にはくっきりと濃いクマが張り付いている。というより、全身の気怠さが限界を突破していた。
理由は明白だ。昨晩、正確には今日の明け方まで、『Game Nexus』のランクマッチに潜り続けていたからである。ランダムマッチングで組まされた相棒――『Scarlet』と名乗るあの無鉄砲で直感的なプレイヤーの突撃をカバーし、戦術が破綻しないようバックアップに徹するため、脳のリソースを限界まで酷使した。現在の俺のHPとMPは限りなくゼロに近い。
近未来において、ゲームの成績は通貨化され、社会的な評価や実際の収入に直結している。我が校のような進学校でも、ゲーム実績で入学した特待生は特別な評価を受ける。俺もその一人だ。
だからこそ、現実の体育祭でフィジカルなリソースを無駄に消費するなど、論理的に考えてリスクでしかない。転倒して指先の神経を痛めたり、反射速度にわずかでも遅れが生じれば、ゲームキャリアにおいて致命傷になり得る。
だから俺は「過度な情報処理による睡眠不足で、著しくパフォーマンスが低下しています。見学を申請します」と堂々と申告し、担任から呆れ顔で壁際に追いやられたのだ。
学校とは、社会との最低限の接続を維持するための施設に過ぎない。俺にとって世界とは分析対象であり、有象無象の他人はノイズだ。
そう、ノイズであるはずだった。
「いっけええええ! 温っ!!」
「そのまま決めちゃえー!!」
コートサイドから、星野ひかりの黄色い声援がドーム状の天井に反響する。
Aクラス対Bクラスの男女合同バスケ。我がAクラスは今、隣のBクラスの猛攻によって完全に蹂躙されていた。
視線の先、コートの中央を赤い彗星のように駆け抜ける人影。Bクラスの女子エース、赤井温だ。
さらにBクラスには、運動万能なイケメンとして名高い瀬川陸や、バスケで全国大会出場経験がありスポーツ推薦で入学した中村舞もいる。特に温のスピードと中村の的確なパスワーク、瀬川のフィジカルが噛み合った波状攻撃は、もはや災害レベルだった。
ただでさえ体格差と筋力差が顕著に出る男女合同というアンフェアな条件において、温は男子のディフェンスすら掻い潜り、チームの絶対的な得点源として君臨している。
「……非論理的な動きだ。リスクとリターンが釣り合っていない」
俺は微かに眉をひそめ、腕を組みながらその一挙手一投足を観察していた。いや、無意識のうちに脳内でプロファイリングしてしまっていたと言うべきか。
俺のクラスであるAクラスの男子二人が、長身を生かして温の前に立ち塞がる。常識的に考えれば、ここは後ろの瀬川や中村へパスを選択するか、一旦引いて陣形を立て直す場面だ。数的にも体格的にも不利な状況でペイントエリアに突っ込むのは、生存確率の低い愚策でしかない。
だが、彼女は止まらなかった。
赤いサイドテールを振り乱し、トップスピードから急激に減速。ディフェンスの重心が前に傾いた瞬間に、まるで重力を無視したような軽いステップでサイドへ抜け出す。
男子の伸ばした手が空を切る。そのままスリーポイントラインの少し内側から、ブロックに跳んだもう一人の男子の腕を掻いくぐるようにして、躊躇なくボールを放った。
美しい放物線を描いたボールは、リングに触れることすらなく、スパッと小気味良い音を立ててネットを揺らした。
「きゃあああああっ! 温、最高!!」
Bクラスのギャラリーが爆発したように沸き立つ。コートに戻りながら、温は誇らしげにVサインを掲げた。
その無駄にダイナミックで、自信に満ち溢れた姿は、入学初日に俺をバイク事故に巻き込んだ時と何ら変わらない。
衝動的で、自己中心的で、異常にエネルギーレベルが高い。
だが、その「直感」に全振りしたようなプレイスタイルには、どこか強い既視感があった。
(……理論や定石を完全に無視している。なのに、反射神経と空間把握能力だけで、結果的に最適解を引き寄せている。まるで、あの『Scarlet』のような……)
脳裏に、Game Nexusの仮想空間で暴れ回る紅いアバターの姿がフラッシュバックする。
いや、あり得ない。俺は小さく頭を振って、その思考をノイズとして処理した。
ゲームと現実は違う。彼女の運動神経が良いのは単なる物理的パラメータの偏りに過ぎない。あの苛立たしいほど噛み合わない、しかし不思議と背中を預けられるゲーム内の相棒と、目の前の騒がしいクラスメイトが同一人物である確証はどこにもない。
試合は第4クォーター、残り時間は3分を切っていた。
スコアは68対56。Bクラスが圧倒し、12点をリードしている。
このままBクラスがポゼッションを維持し、時間を消費すれば勝てる。確率論で言えば、無理に攻めずディフェンスに徹するのがほぼ間違いなく勝てる選択だ。
だが、赤井温というバグは、勝っている状況下ですら大人しくしているような概念を持ち合わせていない。
「もう一丁っ!」
ルーズボールを拾った中村から鋭いパスを受けると、温は再びAクラスの陣形へと切り込んでいく。
「させるかよっ!」
Aクラスのエース格である大柄な男子が、血走った目で立ちはだかった。彼はこれまでのマッチアップで温に幾度となく翻弄され続け、明らかに冷静さを失っていた。ゲームで言えば、完全に『アグロ(敵意)』を稼ぎすぎた状態だ。
ヘイト管理のミスは、致命的なクラッシュを招く。
温がフェイントをかける。左へ抜けると見せかけて、クロスオーバーで右へ。
完全にディフェンスの体勢を崩した。誰もがそう思った瞬間だった。
「あ……っ!」
抜かれまいと焦ったAクラスの男子生徒が、足をもつれさせながら無理な体勢で踏み出し、温の進行方向へ強引に体を割り込ませた。
それは、バスケットボールにおける正当なディフェンスではない。ただの物理的な質量による衝突。いわゆるチャージング、あるいは意図的な体当たりに近い不格好なプレイだった。
トップスピードで踏み切ろうとしていた温の身体が、空中で不自然に弾かれた。
視界の端で、彼女の足が床から完全に離れ、コントロールを失うのが見えた。
時間が、極端に引き延ばされたように感じた。
俺の脳は、現在の状況を一瞬にしてシミュレートし、最悪の演算結果を叩き出した。
温の空中での姿勢、床までの距離、落下の角度。
あのままいけば、彼女は無防備な背中、あるいは頸椎からフローリングの床に激突する。
人間というアバターは脆い。ゲームのようにHPバーが減るだけで済む話ではない。骨折、神経の損傷、深刻な後遺症。
(指の神経をやられたら、ゲームキャリアが――)
俺にとっての絶対的な恐怖の基準が、無意識に彼女の状況にオーバーラップする。
ドンッ!!
恐ろしいほど鈍い音が、体育館に響き渡った。
ホイッスルが鳴り響く。周囲の歓声が、一瞬にして悲鳴とどよめきに変わった。
「温ッ!!」
中村や星野の叫び声。
床に叩きつけられた温は、ピクリとも動かない。
「他人はノイズだ」。俺の世界のルールブックには、そう太字で記されている。他人が怪我をしようが、俺には何の影響もない。座ったまま教師の対応を眺めているのが一番論理的な行動だ。
だが。
ガタンッ! と派手な音を立ててパイプ椅子が倒れるのも構わず、俺は駆け出していた。
思考より先に、身体が動いていた。
「おい、大丈夫か!?」
「審判、タイム! タイム!」
パニックに陥った生徒たちが、倒れた温に群がろうとする。瀬川が慌てて駆け寄ってくるのも見えた。
俺は人垣を乱暴に掻き分け、誰よりも早く温の傍に膝をついた。
「触るな! 不用意に動かすな!」
俺の異常な剣幕に、手を伸ばそうとしていた男子生徒がビクッと肩を震わせて後ずさる。
俺は温の顔を覗き込んだ。目は閉じられ、呼吸は浅い。額には冷や汗が滲んでいる。
「……温。聞こえるか。首は痛むか? 手足の感覚はあるか」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、そして微かに震えていた。
「……う、ん……」
数秒の永遠のような沈黙の後、温が微かに呻き声を上げ、ゆっくりと瞼を開けた。
「……あれ、アタシ……」
焦点の合わない目で俺を見る。
「そのまま動くな。頭を打った可能性がある。今、保健の教師を呼んでいるはずだ」
俺は彼女の頭部を固定するように両手を添え、周囲の喧騒から守るように覆い被さった。
自分の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく警鐘を鳴らしているのがわかる。
こんな感情は、俺のデータベースには存在しない。完全に、計算外のエラーだった。
* * *
「……ん」
微かな消毒液の匂いが、鼻腔をくすぐった。
重い瞼を開けると、真っ白な天井が目に入る。医務室のベッドだ。窓の外はすでにオレンジ色に染まり、遠くから体育祭の閉会式を知らせるアナウンスが微かに聞こえてくる。
「意識が戻ったか」
ベッドのすぐ脇から、淡々とした、しかしどこか固い声が聞こえた。
温が首だけを動かして視線をやると、丸椅子にちょこんと座った青野冷が、スマートフォンを片手にこちらを凝視していた。
「あ、青野君……? なんでアンタがここに……」
「状況報告だ。君は俺のクラスの生徒と空中で交錯し、フローリングに落下した。気絶していた時間は約十五分。担任と星野たちは先ほどまでここにいたが、閉会式の点呼のために一旦グラウンドへ戻った」
俺は立ち上がり、ベッドの脇に立った。
「養護教諭の初期診断では、軽度の脳震盪と背中の打撲。骨には異常はないとのことだが、まだ油断はできない。両手を出せ」
「は……?」
「いいから出せ。指を一本ずつ動かしてみろ。神経の伝達速度に遅延を感じないか? 末梢神経にダメージがあれば、精密な入力操作に致命的なラグが生じる」
「ちょっと、落ち着いてよ! 大丈夫、別にどこもおかしくないから!」
温はベッドの上で上半身を起こし、両手をパーにしたりグーにしたりして見せた。
その滑らかな動きと、少し赤い顔をして怒る様子を見て、俺はようやく……肺の奥底に溜まっていた重い息を吐き出すことができた。
「……そうか。それならいい」
俺は丸椅子に座り直し、背もたれに深く寄りかかった。
「まったく、君のプレイスタイルはリスク管理が根本から破綻している。現実のアバターは破損すれば修理がきかないんだぞ。無闇にヘイトを買いすぎだ。もし指先に後遺症でも残ったら、今後のゲームキャリアが――」
「ちょっと待って。ゲームキャリアって何の話?」
温が、きょとんとした顔で俺を見た。
「アタシ、別にプロゲーマー目指してるわけじゃないし。ゲームの実績だけで生き残らなきゃいけないアンタたち特待生とは違うのよ。もちろん、アタシはゲームもバスケも全部凄すぎるから……それに、ウチのお父様がこの学校の最大スポンサーで一番寄付金を入れてるから、将来の進路なんてどうにでもなるし。とにかく、ゲームはただの趣味だもん。指の一本や二本怪我したって、別に死ぬわけじゃないでしょ?」
「…………あ」
その言葉に、俺は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
そうだ。
彼女は俺のような、ゲームの実績で生き残りを懸けている人間とは違う。
彼女にとって、指先の怪我は「人生の致命傷」ではないのだ。
では、なぜ。
なぜ俺は、あんなにも焦ったのか。
なぜ、彼女が床に叩きつけられた瞬間、自分の世界が崩れ落ちるような恐怖を感じたのか。
『彼女がScarletかもしれないから?』
いや、違う。仮にそうであったとしても、代替可能な相棒(駒)を失うことへの計算された損失回避だけで、あんな心臓が鷲掴みにされるような焦燥感の説明はつかない。
俺はずっと、世界は分析対象であり、他人はノイズだと思っていた。
一人で完結する強さこそが正常値であり、誰かを必要とすることは不確定要素を増やすだけのリスクだと。
だが、あの瞬間、俺を突き動かしたのは論理でも計算でもなかった。
純粋な、感情だった。
ただ、目の前で跳ね回るあの太陽のような光が、不様に地に堕ちて壊れてしまうのが嫌だった。
あの無駄にエネルギーが高くて、自己中心的で、予測不能な笑顔が、失われることが恐ろしかったのだ。
(ああ……そうか)
俺は、小さく息を吐いた。
認めるしかない。
俺は初めて、自分以外の人間を「機能」や「駒」としてではなく、一人の人間として認識したのだ。
この赤井温という少女は、俺にとって排除すべき「ノイズ」などではない。仮に彼女が本当に『Scarlet』であったとしても、単なる勝率を上げるための道具として見過ごせる存在ではなかった。
ゲームの世界だけでなく、現実でも――絶対に傷ついてほしくない相手だ。
俺は無意識のうちに、その真理を身体で理解してしまっていた。
「……どうしたのよ、急に黙り込んで。アンタらしくない」
温が、ベッドの上から不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……いや。俺の前提条件が間違っていただけだ」
「何よそれ。相変わらず意味わかんない」
温はぷくっと頬を膨らませた。しかし、すぐにその表情を和らげ、少しだけ照れくさそうに視線を彷徨わせた。
「あのさ……ひかりが言ってた。アタシが倒れた時、誰よりも早く飛んできて、すっごい怖い顔して周りの男子を怒鳴り散らしたって。……アンタが」
「……事実の曲解だ。俺は論理的に現場を保存しようとしただけで……」
「嘘ばっかり」
温はふっ、と小さく吹き出した。
夕日の差し込む医務室で、彼女の赤いサイドテールが柔らかく光を反射している。
「なんでアンタがそんなに必死になってくれたのか、全然わかんないけど。……でも、すっごく嬉しかった」
温は真っ直ぐに俺の目を見た。
「助けてくれて、心配してくれて……ありがとう、青野君」
そのストレートな言葉と、花が咲いたような無防備な笑顔に、俺は心臓が不規則なリズムを刻むのを感じた。
視線を合わせられず、咄嗟に窓の外へ顔を向ける。
「……礼を言われる筋合いはない。明日からまた、君の非合理的な行動で発生するノイズを聞かされるかと思うと頭が痛い」
「なんですってー!? せっかく素直にお礼言ってあげたのに、その言い草はなによ! やっぱアンタって最低のひょろひょろメガネね!」
医務室に、再び騒がしい声が響く。
だが、そのキャンキャンと吠えるような声すら、今の俺には心地よいBGMのように感じられた。
孤独で閉じた俺の小さな世界に、土足で踏み込んできた赤い嵐。
俺はこの日、「一人でいれば安全」という古い信念を手放し、後戻りできない新しい世界へと、明確に一歩を踏み出してしまったのだ。




