扉の向こうの光景
土曜日の夜
今日も山本は、兄の店の手伝いに出掛けている。
川野は早朝、ニコやかに彼を送り出したが、内心は気が気じゃない。
元々、相手を束縛をするタイプでは無く、嫉妬心もそれほど持ち合わせていない川野だったが、湯川からの忠告がどうしても頭から離れず、ついに店での彼の様子を見に行こうと決意したのだ。
家に持ち帰ってきた仕事を、夕暮れ時までに一気に片付け、いつもより念入りに身なりを整えた川野。
気合が入りすぎて濃くなった化粧を、慌てて直したりした。
そして、早まる気持ちを必死に抑え、薄暗くなった道をひたすら進む。
電車に飛び乗って、とうとう目的地の駅まで辿り着いた。
ここまで勢い良く来たが⋯。
川野の心の中に、どっと不安が押し寄せて来た。
自分が店に訪れる事を、哲也にも優也にも伝えていない。
店のドアを開けた瞬間、どんな光景が広がっているのか?
そして哲也は、どんな顔をするのか⋯。
そんな事を考えてしまい、徐々に足取りが重くなっていく。
(はぁ⋯、ついに来てしまった。帰ろうかな⋯。)
店の前で立ち止まり、ウジウジ、モタモタとしている川野。
すると、店のドアがそっと開いた。
カランカランッ―
「光ちゃん⋯だよね?やっぱり、光ちゃんだ!いらっしゃい!」
名前を呼ばれ、ハッとそちらに視線をやると、そこには彩が満面の笑みを浮かべて立っていた。
どうやら、店の大きな窓からは、川野の立ちすくむ姿が丸見えだったらしい。
「今晩は!ご無沙汰してます。」
川野は、彩の笑顔に応えるように、咄嗟に笑顔を返した。
「哲也のお迎えかな?閉店まで、まだまだ時間あるから、良かったら何か食べてって。ほらほら、とりあえず中に入って下さいな。」
彩に催促をされ、心の準備も出来ないまま、引きつった愛想笑いを浮かべて店内に入った川野。
店の中は、夕食時のピークを過ぎた事もあり、だいぶ落ち着いていた。
馴染みの客だろうか?
窓際のテーブルを何席か占めていて、談笑しながら酒と食事を楽しんでいる。
そして、カウンター席には女性客がズラリと並び、うっとりと優也の手捌きを眺めていた。
「いらっしゃいませ〜!えっ!?光ちゃんじゃ〜ん♪ねぇねぇ、まさか俺に会いに来てくれたの〜?」
厨房から身を乗り出した優也が、声を弾ませて嬉しそうに言った。
女性客の視線が、優也から川野に一斉に移った。
「こらこらっ、料理に集中して!」
すかさず、ツッコミを入れる彩。
「あはは、こんばんは〜。お邪魔します⋯。」
相変わらず、チャラいお兄さんだ。
想像通り、随分とおモテになられている。
川野は優也に軽く会釈をして、彩に案内されたカウンターの一番奥の席に着いた。
「いらっしゃいませ。」
ぶっきら棒な男の声。
川野が恐る恐る、目の前に視線をやると、哲也がグラスを布巾でキュッキュッと拭きながら、仏頂面でじっとこちらを見つめていた。
(あぁぁ〜!やっぱり!怒ってる?哲也君、怒ってるよね!?その表情は怒ってますよね〜!?)
彼の威圧感に押し潰されそうになりながら、川野はゆっくりと両手を合わせて、深々と頭を下げた。
「光ちゃん、お腹空いてるでしょ?何が良いかな?」
彩がメニュー表を開きながら、話しかけて来た。
川野は、山本の真顔に耐えられず、即座に退店する事も考えたのだが、ここで逃げても仕方が無いだろう。
「そうですね〜。じゃあ、生ビールとオードブルと、カルパッチョとラザニアと⋯。」
メニュー表を指さして、次々と注文し出した。
メモを取る彩の瞳が、とても輝いている。
「光ちゃん、思い切りが良いね〜!優也も哲也も、作り甲斐があるってものよ♪」
「今日は、美味しい料理を沢山食べさせてもらって、お酒をガンガン飲んで、売上に貢献させて頂きたいと思います!」
そう言い切って、川野は鼻からフンッと息を吐いた。
哲也に本心を悟られない様、優也の美味しい料理を目当てに来店しましたという風にでも、装いたかったのだろう。
実際、優也の料理は絶品だ。
「ふふふっ。俺、光ちゃんみたいに、料理を沢山食べてくれる女の子、大好き!」
優也の一声に、カウンター席がザワついた。
イケメンの彼がいる手前、ワインとオードブルのみで食欲を抑え、上品な女を演じていた人達が、次々と手を挙げて注文をし出した。
「今日のオススメは、ペスカトーレだよ。それと良かったら、デザートのティラミスも食べてみてね☆俺の料理の味、もっと知って欲しいなっ。」
甘い笑みを浮かべた優也のセールストークは、この人達にとっては完全にファンサービスだ。
見事に、川野を除いたカウンター席の女性客全員から、ペスカトーレとティラミス、その他諸々の注文を一気にかっさらった。
「へぇ〜!凄い。ドルチェのような甘い笑みで、女心をくすぐる無敵敏腕ちょび髭シェフ。」
その光景を目にした川野は、無駄にキャッチフレーズを考えたくなるくらい、彼の巧みな話術に感心していた。
「お待たせしました、生ビールです。それと、カルパッチョです。」
川野がよそ見をしていると、厨房から大きな手がサッと出て来た。
「ありがとうございます⋯。」
そうだ、不機嫌な哲也が目の前にいる事を、忘れかけていた。
ペコペコと頭を下げて、ビールを受け取る川野。
そっと哲也を見上げると、彼はスカした顔のまま、川野に向かって一瞬、パチリと片目を瞑った。
川野は驚いて、男前な険しい顔になり、そのまま固まった。
そして彼女の頭の中で、この事についての考察が始まった。
それはウインクなのか?
今、どんな気持ちでウインクをしたのか!?
事前に言わずに、いきなり店に押しかけた事を、怒っていたのではなかったのか?
いやいや、そもそもウインクをするくらいだから、実はそれほど怒っていないんだろう?
だったら、優也の様に少しは笑ってくれ。
微笑みながらウインクをしてくれ。
本来なら君も兄の様に、もっとチャラくなれるだろう?
頑張るんだ哲也!営業スマイル!
今、君に足りないのは、愛嬌だ!
それとも⋯わざとブスッとした態度をして、私の心を弄んでいるつもりか?
そうだとしたら、だいぶ悪い男だ。
私はそんな事で、翻弄されたりはしないぞ。
年上女の貫禄を、ナメてもらっては困る。
そうやってスカしていられるのも、今のうちだ!
ちゃんと、デレデレさせてやるからなっ。
覚えておけよ!
川野の中で、一人語りが止まらない。
哲也は、ウインクをしたっきり何も言わず、下を向いてあっさりと洗い物を再開させたのだが、川野はじっと彼の事を見つめている。
手に持ったジョッキを傾け、目線を逸らさずグビグビと豪快にビールを飲み出した。
はっきり言って川野は、哲也の周りに女の影が潜んでいないかを確認しに来たはずだった。
哲也が店にいるだけで、きっと優也の様にモテモテなのだろうと勝手に想像して、胸が苦しくなったりした。
ところが現状はどうだ。
女性達の熱い視線を集める優也の横で、食器の山の影に隠れて誰からの視線も浴びずに、仏頂面で黙々と皿洗いに励む、硬派な男、哲也。
彩とも、最低限の言葉を交わすだけ。
安心したと言えば、安心したが⋯。
本当は人懐っこい彼の、せっかくの魅力がここまで封印されているのは、惜しい気もする。
今や、川野の脳内では、最愛の推しのキュートな魅力を世に知らしめたい気持ちと、自分だけのものにしておきたいという独占欲が、ひしめき合っていた。




