上司の忠告
6月も下旬に差し掛かった。
これからいよいよ、今まで準備して来た数々の夏季イベントがスタートする。
横浜支社
企画・営業部オフィス
川野は、就業時間をとっくに過ぎても、ひたすら真面目な顔をしてパソコンに向かい、デスクから離れる様子が無い。
そこへ、本島がコソコソと人目を憚りながら寄って来た。
「あの〜、川野課長⋯。」
「ん?どうした?」
川野は顔を上げて、ニコッと微笑んだ。
「本来なら、残業したいところなのですが⋯。その、山口主任の方の企画も、私達と同じジャンルと言う事で⋯。意見交換をしたいと言われまして⋯。申し訳ございませんが、今日は先に上がらせて頂こうかと⋯。」
ほほう。
要は、山口から食事の誘いを受けたという事か。
それはそれは、ぜひ行くべきだ。
川野はそれ以上、顔がニヤつかないよう必死に堪えながら、また、余計な一言を言わないように細心の注意を払いながら、本島を送り出した。
「恵梨ちゃん、お疲れ様!また明日ね☆」
彼女の背中が見えなくなるまで、ニコやかに手を振る川野。
その様子を、どこかつまらなそうな顔をして眺めていた湯川が、椅子のローラーを両足で漕ぎながら、川野の隣までやって来た。
「なぁ、光〜。俺、ずっと疑問だったんだけどさ。恵梨と山口は、いつからああなんだ?恵梨はてっきり、俺に気があると思ってたんだけど⋯。」
湯川は拗ねているのか、片手に持っていたボールペンをいじりながら、口を尖らせている。
「えぇ、まぁ⋯。こういうのは、タイミングもありますからね。⋯ドンマイです。」
川野の、あまり慰めにならない言葉に、湯川は眉尻を下げながら、肩を落とした。
「俺も別に、恵梨と付き合いたかったとか、言ってる訳では無いんだよ。仮に付き合っても、性格の不一致ですぐダメになると思うし。でも、ああいう光景を見てしまうと、俺ってその程度の魅力だったのかな?って、さすがに自信をなくすよ。」
両手で、ボールペンの端と端をいじり回しながら、更に落ち込む湯川。
そうか。
意外と、湯川はその気だったのかも知れない。
でも、彼の言う通り、実際に本島と恋人になったとしても、きっと喧嘩三昧の日々が待ち受けていただろう。
「可愛い部下達が、楽しそうにしているんですから。ここは温かい目で見守りましょう。ほらっ、湯川次長にもきっと、また良い出会いが巡って来ますよ!」
そう言って川野は、湯川の背中を力強くポンポンと叩いた。
川野は何より、本島と山口が、以前の恋にさよならを告げ、新しい恋をスタートさせた事を、嬉しく思っていた。
色々とあったが、2人には幸せになって欲しい。
心から、そう思うのであった。
「そんな虫のいいこと言いやがって、全くっ。お前は最近どうなんだ?“私は別次元です”みたいな顔して話しているが、何事も、油断している時こそ危ないんだぞ?」
強引に励まされたのが気に食わなかったのか、湯川が川野の方をギロリと睨み、問いかけた。
「私ですか?私と彼は、ぼちぼちラブラブですよ。」
「ぼちぼちラブラブって、何だよそれっ。」
「だって、めちゃくちゃラブラブですなんて本当の事を言ったら、湯川次長にどつかれそうなので。」
「お前!しれっと本当の事言ってるんじゃないよ!全然、駄目だね。可愛いげが無い。夏のボーナス査定に響くな、これは。」
彼女の遠慮の無い発言に、ボールペンでメモを取る真似をする湯川。
「ほらっ、やっぱりそうなる!湯川次長、それはパワハラですよ〜。」
嫌そうな顔をして、湯川のボールペンの先に手を出し、ブンブンと振って、メモをかき消す真似をする川野。
4月当初は、あからさまな体育会系の厳しい上下関係だった2人だが、最近は川野が湯川を程良く弄る術を覚えたため、パワーバランスが安定して来ている。
「冗談は置いておいて。本当に気を付けろよ?仕事も順調!恋も順調!なんて、お前が思っているだけで、相手はそうでもないかも知れないぞ?そういう時が、一番危ないんだからな?すれ違いってのは、気付いた時には、手遅れって事もあるんだから。」
「そうですね⋯。」
湯川に真顔で忠告され、思い当たる節がある川野は、徐々に考え込みだした。
そう言えば、自分の仕事が忙しい事に加えて、佐渡の件でわだかまりがあったため、最近はスキンシップもほぼなく、2人きりでゆっくり過ごす時間も作れていない。
山本は優しいため、ご飯やら洗濯やら、家の事を嫌な顔一つせず、積極的にやってくれているが、実際はどう思っているのだろうか?
おまけに山本は、休日は1人で、兄の店に顔を出すことが多くなった。
どうやら、店の手伝いをするのが楽しいらしい。
週末はそのまま、実家に泊まってくる事もある。
彼が充実した週末を過ごせているならと、川野は微笑ましく思っていたのだが⋯。
「そういう時に、心の隙間にヌルリと入り込んで来るヤツもいるかな、気を付けろよ。経験者の俺が言うんだから、間違いないぞ。」
不安を煽るかのような湯川の言葉に、疑心暗鬼になる川野。
「えっ、大丈夫かな⋯。」
惚気ではないが、山本は見た目も中身も良い男だ。
普通に考えたら、引く手あまたのはずだ。
イケメン兄弟が営んでいるイタリアン店なんて、女性客を中心に、評判も右肩上がりに決まっているだろう!
そして店には、山本の初恋の相手である彩がいる。
ひょっとして、彼女の顔を見たくて、足繁く通っているのか⋯?
今は、山本が川野を好いてくれているから、平穏な日々が続いているだけであって、彼の気が変わってしまったら、あっさり崩れてしまうだろう。
川野は、先程までの余裕な顔とは打って変わって、青ざめた顔をしなが、週末の偵察を企てるのであった。




