飛び火
飲み会から数日経った。
あれから川野は、ずっと気が晴れない。
佐渡の気持ちを考えると、どっと気が重くなってしまう。
彼から責められたり、何かを求められている訳では無いのだが、それがむしろ逆に堪えるのだ。
「おうっ、おはよう⋯今日も早いな。」
湯川が、どこか気不味そうに事務所に入って来た。
「おはようございますっ。」
川野は会釈をして、書類の確認作業を次々と進める。
最近は、山本の力を借りずに早起きをして、誰よりも早く出社している川野。
こういう時は、プライベートの事を考えない様に、仕事に打ち込むのが一番気が紛れる。
そんな彼女を横目で見て、湯川が深い溜め息をついた。
「はぁ⋯。お前、山本と喧嘩でもしたのか?何だか暗いぞ?俺より早く出社して、そんなにせかせかと仕事して⋯。大丈夫か?」
川野の手が止まった。
湯川は、そこら辺の事情を知らないため、一から説明するのも大変だし、そんな事をベラベラと話したくはない。
「喧嘩なんてしてませんよっ。仕事が立て込んでいるだけです。」
「そうか、なら良いんだが。」
愛想笑いを浮かべる川野を見て、湯川はもう一度深い溜め息をつき、煙草を吸いに事務所を出て行った。
それからしばらくして、本島が出社をして来た。
彼女とは飲み会以降、関係がギクシャクしている。
「おはようございます⋯。」
「恵梨ちゃん、おはよう。」
本島から、ボソッと小さい声で挨拶をされ、穏やかに返す川野だったが、それ以上の会話は続かない。
どちらかと言うと、本島が川野を避けているというより、川野が本島を、どこか遠ざけている様子だ。
「川野課長、本島さん、おはようございます。」
「おはようっ。」
山口も出社をして来た。
川野は彼とも、相変わらずあまり上手く接する事が出来ていない。
それどころか山口は、いつの間にか川野の事を“姉さん”と呼ぶのをやめた。
最初に彼から課長呼びをされた時は、川野も戸惑ったが、正直、姉さん呼びの時より、親しさの距離が出来て良いのかも知れない。
山口については、川野はそれ以上考えない事にした。
佐渡や本島の事に加えて、山口の事まで気にしていると自分がパンクしてしまう。
書類の確認を終えて、今度はパソコンに向かい、メールチェックを始めた川野。
すると山口が、自身のデスクに鞄を置き、川野のデスクの前を通り過ぎて、本島のデスクの前に立った。
「本島さんっ、休憩室の自動販売機に、新しいフレーバーの紅茶が入ってましたよ。夏季限定らしいです。」
なんと、本島にニコやかに話しかけているではないか。
そんなに仲が良かったか?
いや結構、山口は本島を苦手に思っていたはずだが。
川野は、メールチェックに集中したいのだが、さすがに2人の様子が気になりだして、パソコンに目を向けるふりをして、チラチラと観察を始めた。
「そうですか。そしたら⋯見てみようかなっ。」
頬にかかった後れ毛をサッと耳に掛けて、本島が山口に微笑んだ。
「僕も買いに行こうかなっ。」
2人はぎこちなくも、どこか嬉しそうに、コソコソと事務所を出て行った。
(おっ、おぉっ!?そっち?⋯湯川次長、今休憩室にいるよな⋯。ショック受けないかな⋯。)
新しい恋が始まりそうだった湯川には気の毒だが、本島と山口が幸せならそれで良い。
しかし、本島が佐渡にワンナイトの真相をぶち撒けたのは、果たして正解だったのか?
本島は、それで謝ってスッキリしたのだろうが⋯。
お陰でこちらは、まだ心が乱されたままだ。
2人の成就を願いつつ、複雑な気持ちの川野。
と、まぁこんな感じで、川野自身も周りの者も、色々と心情の変化が起こっていた。
カチャッ、ガチャン―
「ただいま〜。」
冴えない顔で帰宅した川野。
「光!お帰りなさーい!」
山本がいつもの様に、エプロン姿で玄関まで駆け付けて来た。
「ここの所ずっと、夕飯作ってもらっちゃってごめんね。」
申し訳なさそうに頭を下げる川野。
「良いんだよっ。光は忙しい時期だって、ちゃんと分かってるから。今日はね、チキンソテー作ったよ!」
山本はそう言って、川野に優しく微笑みかけた。
「ありがとっ。」
川野も笑顔を浮かべ、パンプスを脱ぎ捨てて、部屋の中へ入った。
グィッ―
自分の前を通り過ぎようとした川野の腕を、山本が強く掴んだ。
「⋯⋯何か最近、変だよ。」
川野は驚き、山本の顔を見た。
彼は少し怒っているのか、目つきが鋭い。
「ちょ、ちょっと、そんな事ないから。仕事が忙しくて疲れてるのっ。」
そう言って躱そうとしたが、掴まれた腕に力を込められ、なかなか抵抗が出来ない。
「いいや、おかしい。⋯だって、いつもなら光は、疲れてれば疲れてるだけ、俺に抱きついてくるのに、最近は全然ハグして来ない。キスもしてくれないし、肩にもたれかかっても来ない。⋯⋯何があったの?飲み会に行ってから、ずっと変だよ?」
山本は、いつもの様に口を尖らせたり、拗ねたりせず、真っ直ぐに目を見つめ、言葉の一つ一つで川野を責め続ける。
「最近、恵介も変なんだっ。⋯⋯俺の事を、あからさまに避けるんだ。悪態を付くわけでもなく、毒を吐くわけでもなく、廊下ですれ違っても、ただ静かに俺から目線を逸らすんだ。おかしいだろ?⋯⋯恵介と、何があったの?」
やってしまった!
そうだ、山本は勘の良い男だった。
そんな彼に、飲み会で一悶着あった事を、ちゃんと説明していなかった川野。
口には出さなかったが、佐渡の事を気にかけてばかりいたので、山本へのスキンシップを、どこか遠慮していたのだ。
川野は、山本の気持ちを考えなかった自分を恥じた。
ギュッ!―
「⋯⋯哲也君、不安にさせてごめんっ!すぐ話せば良かったね。でも、誤解しないで⋯。ちゃんと話すからっ。」
彼をキツく抱きしめる川野。
山本はとても不安そうな顔で、そっと川野を両腕で包み込み、彼女の頭を撫でた。




