残業時間を減らしましょう
「ただいま戻りました〜。⋯はっ?」
川野は、困惑した。
「姉さん、立ち止まらず、中へ入って下さいっ。扉、扉!⋯もうちょっと開けてくださいっ。」
ウォークラリーの台紙の入った段ボールを、両手で抱えながら川野の後に続いていた山口が、キツそうにしている。
「ごめんごめん!どうぞっ!」
18:40
山口と共に外回りから帰ってくると、終業時間が過ぎていた事もあったが、事務所はもぬけの殻だった。
本島チームに頼まれて、忙しい中こちらは買い出しをして来たのだが、もしかして彼女達は定時で上がったのか?
川野の頭に、沸々と血が上って行く。
「ねぇ、山口君。これはちょっとね、あり得ないと思うんだけど。どう思う?」
両手に持っていた資料やら買い物袋やらを、フリースペースのテーブルにドンと置いて、険しい顔をした川野が言った。
「打ち合わせの予定は⋯入ってないですね。皆さん、帰られたんですね⋯。まぁ、色んな人がいますから⋯。」
川野の気持ちをなだめる山口だが、彼も当然、心穏やかでは無いようだ。
2人はまだこれから残務があり、最低でも1時間は掛かるだろう。
これらの買い出しは、そもそも急ぎであったのだろうか?
定時で帰れるなら、買い出しに行くタイミングが、あったのではないだろうか?
社用車だって、あと2台は残っていたはずだ。
ガチャン―
「おうっ!お疲れさん。」
川野が自分のデスクに着き、ムスッとしながらパソコンを開いていると、湯川が煙草の箱をスーツの内ポケットに仕舞いながら、事務所に入って来た。
「お疲れ様です。つい先ほど戻って来ました。次長の指示通り、買ってきましたよ。」
そう言って川野は椅子から勢い良く立ち、フリースペースのテーブルにスタスタと向った。
「バミリ用の蓄光テープと、ガムテープと、スズランテープと⋯。」
大きな買い物袋をガサガサと漁りながら、大量のテープ類を次々とテーブルに出していく川野。
川野の横で、無言でテープを種類ごとに綺麗に並べ直す山口。
その様子を腕組みしつつ、片手で顎を撫でながら眺めている湯川。
「これで以上です!指定された数量は全て揃いましたっ。ところで、なんで本島さん達は、既に帰られてるんですか?」
川野は湯川に一通り説明を終え、怒りを押さえながら冷静に尋ねた。
「あぁ⋯。俺が帰した。」
「えっ?」
湯川はバツの悪そうな顔をして、話を続けた。
「あれだなっ。本島は結構、ヒステリックだな。企画力はあるけど、設営の具体的な説明については未熟だったから、ミーティングしてる時に俺が口を挟んだんだよ。したら、顔真っ赤にして、目に涙を浮かべて“私はちゃんとやってます!”って怒っちゃって。俺も思わず“頭冷やせっ!”て怒鳴ったんだよ。それで話が進まなくなって。だから、今日の仕事は打ち切りっ。」
話を一通り聞いた川野と山口は、何とも言えない表情を浮かべた。
雑用を頼まれて良い気はしなかったが、自分たちが春風に吹かれながら、綺麗な花に囲まれてまったりとしている間に、会社は修羅場と化していたと知り、そこに居合わせた本島と湯川以外の皆が、大変気の毒だと、居た堪れない気持ちになったのだった。
「ところで⋯お前達は、もう上がれるのか?」
湯川が尋ねてきた。
そこに威圧感は無く、どちらかと言うと伺いを立てるような、少し自信の無さそうな様子だ。
「いえ、小一時間はかかります。」
何となく嫌な予感がして、川野はキッパリと言葉を返した。
「えぇ~?そんなに掛かるか?もっと早く終われないのか?」
湯川が駄々をこねだした。
「姉さん、打ち合わせの準備なら、明日に回せ⋯」
山口が気を利かせて、そう提案しかけたが、川野が鋭い視線で首を横に振り“それ以上言うな”と合図を送ったので、そのまま黙り込んだ。
だが、遅かった。
「そうだよな!山口は優秀だなっ!川野も臨機応変という事を、もっと学んだ方が良いぞ?じゃあ、この後、飲みに行くか!」
自分勝手な、いつもの調子の湯川。
川野には分かっていた。
彼が、いちいち残業時間を聞いてくるのは、勤怠の厳密なチェックではなく、仕事終わりに一緒に飲みに行けるかどうかの伺いである事を。
「次長、申し訳ございませんが、私は飲みには行けませんので。」
「なんでだよ。仕事終われば、あとはもう帰るだけだろ?」
「そうですけど。他の男性と飲みに行くのは、やめてるんです。浮気だと、誤解を招く恐れがあるので。」
あまり言いたくなかったが、この際、面倒臭い、勘違い女と思われても構わない。
ちゃんと飲みを断る事が出来れば、それで良いと川野は思った。
「へぇ~。以前のお前なら、相手がいようがいまいが、美味い酒が飲めるとなると、ホイホイ付いてきたのになっ。光は、可愛げがなくなったな〜。⋯分かった!じゃあ、茶をしばくぐらいなら良いだろ?」
逆上されるか、捨て台詞を吐かれるかのどちらかと思っていたが、湯川の言葉は意外なものだった。
「お茶ですか〜、お茶ぐらいなら⋯。」
川野は、ブレザーのポケットに入れていたスマホの画面をチラリと見た。
そこには、山本からのメールが届いていた。
どうやら今日は、増岡と佐渡と飲みに行っているようだ。
「分かりました。30分で切り上げますので。⋯山口君も行くよね!?」
川野は不安そうに、山口に顔を向けた。
山口は、自分の余計な一言のせいで、湯川の誘いを断りづらくさせてしまったと、罪悪感を抱いていた。
ここで、自分だけ逃れる訳にはいかない。
「もちろんです!僕も行きますよ!」
そう言って、彼は苦笑いをした。




