山と海
川野がほんの少し優しさを見せた事で、朝からすっかり機嫌が良い湯川。
彼の声は低く大きいため、普通の会話をしていてもどこか威圧感があり、話している相手は怒られている様な感覚に陥るのだが、今日は終始、控えめで穏やかな声色でニコニコとしているため、周りの者は逆に恐怖を覚えていた。
「光〜。GWの案件だけど、どちらに入りたい?俺とお前はここへ来たばかりだから、サポート役になるけど。」
キャスターのついた椅子を、座ったままスーッとスライドさせ、湯川が川野に近付いて来た。
「はいっ!」
普段は湯川に、大きな一声で呼び付けられる側なので、急に彼から近付かれてビクついた川野は、つい大きな声で返事をしてしまった。
「お〜いっ、何だよその反応。さては、ボーッとしてたな?はははっ。」
川野の引きつった顔を覗き込み、笑う湯川。
「いえ⋯。すみませんでした。」
とてもじゃないが、上司に“あんたの異様さに驚いたんだよ”なんて、言えない。
気を取り直して、川野は、差し出された企画書に目を落とした。
「う〜ん、どちらも良い企画ですね〜。迷います。」
「そうだよな〜。俺も迷ってるんだよ。」
そのGWの案件とは、以下の通りだ。
・緑に囲まれた公園で開催する子供向けのイベント
・海辺の公園で開催する地元アーティストの野外演奏会
どちらも、大変でやり甲斐のあるものだ。
仕事人間の2人にはどちらの案件も、どっぷりと首を突っ込みたいくらい、魅力的に映っている。
「では⋯。湯川次長は、こちらに入って頂けないでしょうか?色々と、ご指導下さればと思います。川野課長ではちょっと⋯。」
本島が、声を掛けて来た。
確かに、湯川は次長になるだけあって、様々な事が出来る男で、特に音楽イベントは得意だ。
音響も照明も、舞台の設営も、彼の手に掛かれば安泰だ。
現在は東京第二支社の課長をしている増岡は、新人時代に湯川から、設営のイロハを叩き込まれていた。
川野と増岡の面倒を見ていた湯川は、こうした設営のセンスは、増岡の方に才があると見抜いたためだった。
「そうか?じゃぁ、本島のご指名とあらば⋯こっちにするよ。」
湯川は、これまた機嫌良さそうに返事をした。
本島の席の奥で、嫌そうな顔をしている佐々木。
佐々木は、本島と他社員2名と共に、演奏会の方の案件をメインで取り組んでいるのだ。
本島は、本当は極力、自分と一緒に仕事をしたくないだけなのだろう。
一緒に働き出してまだ2週間も経っていない、湯川の本当の凄さを、知っているはずが無いのだから。
まぁ、仕方ない。こちらも同じ気持ちなのでちょうど良い。
企画は面白そうだったが⋯。
しかし、自分より7歳も若くて役職も下なのに、彼女はなんで、あんなに偉そうなのか?
川野はそう頭の中で、ブツブツと文句を言いながら、顔を曇らせた。
「姉さ、あっ⋯。川野課長は、こちらに入ってくれるんですね?さっそく一緒に仕事出来るなんて、嬉しいですよ!宜しくお願いします。」
ムスッと黙り込む川野を見兼ねて、山口がフォローした。
「そうよ〜!川野ちゃんがこっち来てくれて嬉しい!よろしくねっ。」
木村さんも遠くの席から、元気良く励ましてくれた。
「すみません、ありがとうございますっ。宜しくお願いします!」
周りに気を遣わせてどうするのか?
これではいけないと、嫌な気持ちを振り払い、川野は立ち上がって頭を下げた。




