始業前です
山本の作ってくれた温かい豚汁と白いご飯は、それはそれは美味しく、川野の心とお腹を、十分に満たしてくれた。
川野は、こうして喜んで、自分を甘やかしてくれる彼の事が、やはり好きでたまらない。
翌日の日曜日は、山本の提案で、吉祥寺の小さな映画館へ行った。
ここは以前、当初のデートの相手だった佐渡の代理として、山本が川野と初デートした場所だ。
「今度はホラー以外でねっ。」
チケット売り場で、川野の腕に自分の腕を絡ませながら、山本が微笑んだ。
初デート時、山本は後に予定があると言い、18:00までと時間に縛りをつけていたのだが、ここだけの話、その予定とは実家に顔を出す事だったのだ。
母親が夕飯を用意している事は、百も承知だったが、川野と少しでも楽しい時間を過ごしたくて、映画後のファミレスでつい、たくさん飲み食いしてしまったのは、今となっては良い思い出だろう。
色々あったが、結果的に楽しかった週末⋯。
ちゃんと山本と仲直りが出来た川野は、彼から溢れんばかりの愛情を注がれ、すっかり上機嫌だった。
しかし、今日からまた仕事が始まる。
山本よりも早く家を出て、赤い電車に乗り込み、横浜へ向かう川野。
吊り革を持つ彼女の後ろ姿は、肩が丸まり、力無く見えた。
「おはようございます!」
気持ちを切り替え、川野は元気良く事務所に入った。
「おうっ、おはようっ。」
湯川はすでに、自分のデスクでホットコーヒーを飲んでいた。
2人以外に、出勤している者はまだいない。
またこのパターンか。
この後、本島が出勤して来るのか?
そしてまた、苦手な2人との、気まずい雰囲気に呑まれなくてはならないのか?
それなら、まだ始業の時間まで余裕があるので、コーヒーを買いに行くふりをして、休憩所に逃げ込もうか。
湯川に会釈をしつつ、頭の中でグルグルと回避方法を考えながら、川野はとりあえず、自身のデスクに着いた。
「光っ、この前の飲み会は、すまなかったな。」
神妙な面持ちで、湯川が口を開いた。
確かに、先日の歓迎会の彼の姿は、とても褒められたものではなかった。
おまけに彼の残り香のせいで、山本との仲が危ぶまれた。
一言、迷惑だったと本音を言って良いものだろうか?
「いえ。でも、程々にして下さいよ。その後、大丈夫でしたか?」
川野は、文句を言うのをぐっと堪えて、そう返した。
「なんかさっ、久々に、光や皆の顔を見ながら酒飲んでたら、楽しくなっちまってな。横浜は、やっぱり良いよな〜。お陰で翌日は、酷い二日酔いだったけどな。」
「そうですか⋯。まぁ、無事で良かったです。⋯あっ!コーヒー買いに行こうっ。」
川野は、湯川の話を深掘りする事なくサラッと流し、勢い良く席を立った。
「俺もコーヒー買いに行こうかな⋯。」
湯川はボソッと呟き、川野に続いて席を立った。
後ろを付いてくる湯川に、思わず驚く川野。
彼から少しでも距離を取りたいがために、捻り出した作戦が、出だしから挫かれてしまった。
今の今まで、片手に持っていたホットコーヒーはどこへやったのか?
「あれっ?湯川次長。⋯コーヒー飲まれてなかったですか?」
川野は歩く速度を早めながら、つい尋ねてしまった。
「えっ?⋯あぁ、さっきのはブラック。次は甘いカフェオレにしようかな〜。」
いつの間にか川野に追い付き、彼女の横を歩きながら、会話を続ける湯川。
この状態で、さすがに上司を冷たくあしらえるほど、強くはないサラリーマン川野。
「あまり、コーヒーばっかり飲んでいると、体に良くないですよ?」
自分と話したそうな湯川に、仕方なく付き合うことにした。
珍しく、ニッコリと微笑む湯川。
「光、お前は、人を気遣うという心を学んだんだな。偉いぞっ!よしよし、コーヒー奢ってやる。⋯じゃあ、俺は緑茶にしようかな。」
どこか嬉しそうな湯川は、当たり前のように、川野にブラックの缶コーヒーを渡して来た。
「ありがとうございますっ。」
戸惑いながらコーヒーを受け取り、会釈をする川野。
湯川は川野が、コーヒーはブラックしか飲まない事を覚えていたのだ。
「光っ、ついでに一服もして行くか?」
そう言って、湯川はスーツの内ポケットから、煙草の箱を取り出した。
「あぁ、私、もう煙草やめたので。」
川野は右手を横に振り、断った。
「えっ!お前、やめたの?昔はよく一緒に吸ってたじゃないか⋯。いつ?山本が、喫煙者は嫌だって言ったのか?」
「違いますよっ、もっと前です。30歳を機に、やめました。喫煙者には厳しい世の中ですからね。やめてしまえば、意外と平気ですよ。湯川次長こそ、結婚を期に、禁煙しませんでしたっけ?」
「そうだな⋯。それはだな⋯。」
俯きながら、哀愁を漂わせ始めた湯川。
筋肉を鍛え上げ、精神も強い男だが、気が沈む時だってあるのだ。
「あっ!次長、そろそろ、いい時間なので、一服するなら早くした方が良いです。私、ここで待ってますから。」
「⋯ありがとうっ。光はやっぱり、優しい所あるよな。」
寂しそうに笑みを浮かべ、湯川は喫煙室に入って行った。
湯川の煙草物語が長くなりそうだったので、とりあえず彼を喫煙室に誘導する事に、成功した川野。
しかし、そのまま放置して、自分だけ事務所に戻ってしまっては、少し可哀想なので彼を待つことにした。
缶コーヒーを飲みながら、男前な顔で、休憩所の窓から差し込む朝日を浴びる川野。
(疲れた⋯。)
まだ始業前の一時を、まさか湯川とこんな風に過ごすなんて。
一日働いた分のストレスを、一気に溜めた気分だ。
それでも新人時代、湯川に厳しくされながらも、可愛がってもらった記憶が少し蘇り、懐かしさを覚える川野であった。




