家へ帰ろう
「ねぇ、光⋯好きって言って。」
自身の腕の中にいる川野の耳元で、山本が甘えるように囁いた。
「好きだよっ。」
川野は、素っ気なく答えた。
彼に情熱的に求められても、どうしても彩の影が頭から離れず、気持ちがずっと晴れなかった。
今こうして、相手の温もりを感じられるほど近くにいても、心が全く別の所へ、行ってしまった様だ。
これは、嫉妬や怒りの一種なのだろうか?
それとも彼への愛情が、徐々に冷めて来ているからなのだろうか?
「ふぅっ。」
つれない川野の態度に、山本は、短い溜め息をついた。
「あまり言いたくなかったけど⋯。なんかまだ、誤解されてるみたいだから。⋯⋯兄貴の事だけどさ。別に、仲が悪い訳では無いんだけど、近くにいると苦しくなる時があるんだよ⋯。劣等感てやつ?兄貴ってさ、俺よりずっと頭も良くて器用で、性格も穏やかでユーモアもあって、自分のやりたい事、どんどん実現させて。⋯比べても、仕方ないんだけどね。」
そう言って山本は、さらにギュッと、川野を抱き寄せた。
「だから、兄貴のことを喋って、光に興味を持たれたら嫌だなって思ったの。それに⋯何となく分かるでしょ?兄貴は、恋愛にだらしないんだ。普段から、店のお客さんにチヤホヤされて、彩ちゃんが側にいるのに、ホイホイ連絡先の交換してるらしいし。⋯さすがに、弟の婚約者には、軽々と手は出さないと思うけど。」
山本の話を静かに聞いていた川野は、彼の肩に優しく腕を回した。
「大丈夫、哲也君はとても素敵な人。⋯話してくれてありがとっ。」
山本の思いを知り、これ以上、彼を突き放す気になれなくなった川野。
立場は違えど、彼の、実の兄に対する感情と、自分の彩に対する感情は、どこか似ているのかも知れない。
以前の様に、彼の言い分をちゃんと聞かずに、シャットアウトしなくて良かったと、川野は思った。
「あ〜ぁっ。あれだけお兄さんの美味しい料理、食べさせてもらったのに、もうお腹空いてきちゃったな。⋯⋯夕飯は、哲也君の手料理、食べたいな〜。豚汁とか良いな。」
そう言って川野は、山本に微笑みかけた。
「豚汁で良いの?もっと手の込んだもの、作ろうか?」
嬉しそうに微笑み返す、山本。
「豚汁だって意外と、具材とか味のバランスとか難しいんだよ?哲也君は、お兄さんに劣らず、料理の天才だからなぁ〜。」
「ふふふ。⋯じゃぁ、ちゃんと好きって言ってくれたら作るよ。」
「さっき言ったじゃん。」
「いや、もっと心を込めて。」
「うわぁ〜、出た!哲也君って、そういうとこ細かいよね。分かりましたよっ。⋯好き!好きっ!大好き〜!豚汁作って下さーい!」
「ふふふ、喜んで。俺、買い物して、先に家に帰ってるから、光はしばらく、ここの掃除でもしてから、ゆっくり帰って来てね。」
「うん、ありがとっ。」
山本は張り切りながら、家を出て行った。
川野にお願い事をされたのが、とても嬉しいようだ。
気付けば、時刻はもう18:00を回っていた。
レースカーテン越しの窓から見える、真っ青だったはずの空は、いつの間にか黄金色に変わり、徐々に弱くなっていく日差しが、優しく部屋へ降り注いでいる。
一人、残った川野は、部屋の中を感慨深そうに、ぐるっと見渡した。
もうすぐ、この部屋ともお別れだ。
引っ越して来て、まだ何ヶ月も経っていないのだが、ここには、東京第二支社に勤務していた時の思い出や、山本との思い出も沢山つまっている。
「いざ、離れるとなると、寂しいものですね⋯。」
川野はそう呟くと、窓を開け、ベランダに出た。
そして、目を閉じながら両腕を上に伸ばし、ほのかに漂う潮の香りを、ゆっくりと吸い込んだ。




