第三百八話 君が隣に居れば怖いものなんてないのだから
「いや~、思ったよりも時間がかかっちゃって。ゴメンね?」
「しくじって消滅してれば良かったのに」
「ひどいなぁ!」
しばらくぶり、と思えてしまうのは。ここでミカの登場が意味するモノとはなんなのか。
お調子者による場の変化は凄まじく、世界の意思に対する畏怖の感情が各々消えていく事を自覚していく。
風が吹く。ピタリと動かなかった白の風景がカーテンの如く揺らぎ始めて。
勿論それは視覚的にそう見えているということではなく言ってしまえば、そんな感じがするというもの。
契約した時と同じように。ミカを中心とした渦が何もかもを引き込んでかき乱す。
強く羽ばたくことができない小鳥が怯え身を固まらせるように。
無知に牙を前にしても逃げることのない生まれたばかりの獣のように。
目を丸くさせ首を傾げるだけ。驚きにただ精一杯の声を響かせるだけ。
不安。無意識に潜んだぐるぐるとした感情。
自覚しないままに、きっと恐怖とはこんな時に抱く感情なんだろうといった風な考察をするだけ。
世界の意思にとっては“変化”が何よりも怖かった。
自身の理解している法則から外れた世界に変わってしまうことが何よりも不安だったのだ。
失敗するのが怖いのではない。何も分からなくなるのが嫌なのではない。
世界が変わってしまった後、どうすればいいのか“答えを見つけられないかもしれない”ことに身体が震えてしまうのだ。
存在が不要になるのが怖いのかもしれない。
役割が無くなるのが怖いのかもしれない。
居場所が消えてしまうのが怖いのかもしれない。
もしも誰かに話すことができていたのなら。
もっと早くに決断をすることができていたのかもしれない。
「扉は開いてきたよ。後は、誰かが繋げてくれればオッケーって感じ」
「説明が不十分ですよ。裏切りの精霊さん」
「裏切り……? って、誰を?」
笑ったまま。とぼけているのが丸わかりのミカの態度は、だからこそ分からなくなる。
それがいつも通りのマイペースなミカであるのか、何かを隠そうとしているからこそなのか。
そもそも、その姿が本性であるのかも今となっては不鮮明に濁ってしまっているような。
「味方のフリをして最後の最後でミィを奪った僕はジーンからしたら裏切者、って言いたいの?」
それは本人から出た言葉。嘘であってくれとチャチャが神子がリィが心の内で密かに願っていただけに、随分と衝撃に表情がズレて。
「あれ、皆どうしたの? いつも五月蠅いのに静かになっちゃって」
挑発なのか。疑いを向けられたまま、そのミカの言葉には誰も反応を示すことがなかった。
空調の役割は果たして何が誰が担っているのか。
嵐のように激しく突風の如く吹き抜けるものではないがしかし。
確かに。確実に。
ミカの登場によって変化が起こってきていたのは疑うまでもない事実であった。
「とぼけるのもいい加減になさい。無駄話に付き合っている時間は無いのですから」
「イイ感じに登場しろって言ったのはお母様なのに」
「ええ、言いました。言いましたが想定していたものとは随分と違っていたので無駄と言いたくもなります」
世界の意思の整った顔が崩れているのか崩れても美しいままなのか認識が浮かび漂ったまま、そう。ただただ曖昧なままに。
ため息という人間のような仕草を見せてくる。
それを静観するのは誰なのか。顔色を変えず動揺を見せず。
そも心の波が大きく立っていない彼はただ今は世界の意思を見つめるだけ。
そう。ジーンはただ待つだけであった。
「それで、仕掛けのほうは上手くいったのかしら」
「そりゃもう万全って感じ?」
「そう。この上なく不愉快です」
「提案してきたのは誰だったのかな」
「勘違いしないでください。最善を提示、行動を命じただけなので」
何の話をしているのか。理解しているのは世界の意思とミカの二人だけである。
ジーン含め、誰しもが置いて行かれているこの状況では誰しもが口を開けるだけの勇気は。
「ちょっと何の話をしてるのよ。私にも分かるように説明してよね!?」
「おっと、調子が戻ってきたみたいでなにより……」
「変なこと言い出したらタダじゃ済まさないから!」
「ちょっとジーンこの狂犬、首輪でもつけてないと危ないんじゃない?」
「がるるるるる……!」
……ミカの語る通りに最早獣畜生の如く果たしてそれは威嚇なのか喉を鳴らすのはチャチャ。
勇気があるというか考えなしというか。
それがチャチャらしさに満ちている行動だろうと言われれば……そうなのか? なんて疑問に思ってはいけないのだろうか。
当初。出会った頃と比較をすれば随分と変化しているのは間違いがないが。
どちらが本性なのか。受け子であった彼女にしてみれば人格なんて不安定なものであり、一年いや数日かそれだけの時間で歪み丸まりそしてまた歪みの繰り返し。
「ジーンからも何か言ったらどうなの!?」
「……そうだな」
「何が可笑しいのよ」
チャチャは不服を解消されないままに言葉の代わりに少しの笑顔を贈られてしまう。
意味が分からない。しかし、そこに生まれたのは怒りでも困惑でもなく。
それは恥じの感情。羞恥。
空が徐々に赤く染まっていくように。季節が移り木々の葉が紅く色付いていくように。
「もぅ、なんなのよ……!」
チャチャの顔が赤く、紅く。
彼女は、今の彼女はいつまでこうして自分の隣に居てくれるのだろうかと。
穢れという要素が存在する限り受け子、器としての役割からは逃げられない現実を。
その時、ジーンは思い出したのだ。
「説明はしてくれるんだよな?」
怖いものなんてあるはずもない。不安なんて抱え続けるはずなんてない。
“そうでなければならない”と。
ジーンが問いかけたのはそも疑うこともしていなかった相棒である精霊へ。
「もちろんだよっ」
そんなジーンに対して笑うのは期待を裏切るための前振りなのか。
跳ねるのは張り巡らされた罠を踏まないためなのか。
「最初にこれだけは言っておくね」
いや。いいや。そんな難しいことじゃあない。
「ミィを助けたいって気持ちは一緒だからねっ」
裏なんて最初から無いのだ。
いつも通りのミカがそこにいるだけなのであるのだ。
真っすぐに自身の契約者へと笑いかける精霊の姿がそこにあった。




