第三百六話 それは完全なる世界
交換条件とでも言えばいいか。願いを叶えてくれたら君達の願いも叶えてあげましょう、みたいな。
世界の意思は所詮システムであって圧倒的な力も無ければ全てを意のままにできる魔力も無いのだ。
世界の意思に与えられた力は特別ではあるが故にできることは限定されてしまっている。
あくまでも意思であり、世界そのものでも神そのものでもない。だからこそ頼るのだ。
「完全な世界。穢れのない、いつまでも続くいつまでも変わらない終わりのない世界を創ること」
役割から逃げ続けている神の代わりが私だと。
神により生み出された私のこの願いが神の願いでないはずがないと。
揺らいだのは誰の視界か。ブレた色そのままに半開きになった瞼が中途半端に情報を遮断する。
伝達されるのは光による明暗だけ。もっとも、それ以外に情報を脳へと送ったところで正常に処理できる状態ではないが。
「あぁ、想うだけで……っ!」
それは神秘なる希望の雫。玉座を、床を濡らす快感の証。
歓喜に震えるのは身体かそれとも魂か。その瞳に映るのは描いた奇跡かそれとも登る先の頂きか。
白いキャンバスの上であれば芸術としての評価が下されたかもしれない。
「お、おいっ」
「ちょ、ジーンは見ちゃダメに決まってるでしょ!? こんのドスケベ!」
「待って待って!? どどどどどどうしたら!?」
「……? っ、……?」
混乱はいつ落ち着くのか。突然のことに誰もが慌てふためき、誰が倒したか零れた飲み水が神秘の雫と混じり合う。
チャチャに目を潰され悶絶するジーンの隣ではオロオロした神子が『え? これ処理するのって、やっぱり僕なの……?』なんて周囲をみやり。
あれは妹を捕まえた悪い奴。あれは敵。あれは悪者。と、自身へと言い聞かせるように頭を抱える魅了されかけているリィを見て、神子は諦める。
頼りになるのか頼りにならないのか分からない仲間に向けたのは大きなため息。
うーちゃんのせい。いや、この場合はうーちゃんのおかげと言えばいいか。神子はため息を吐き切る前には立ち上がっていた。
「失礼するよー……っと」
「あぁ、イイっ! イイですぅ!」
「ちょっとそこ何してるの!?」
「拭いてるだけだからね!? 流石の僕でもこんな時にふざける度胸は無いからねっ!?」
うーちゃんのお漏らしを処理する事に慣れていなければ危なかった。
悩まなくとも自然に動いていく手をどこか他人事のように眺めながら、チャチャへのツッコミも忘れない。
そして未だに快楽に喘ぐ世界の意思は……今はまだ放っておくべきだと判断した神子は次に床を綺麗にすることに。
目の治癒に意識を持っていかれている使い物にならない二人と、何に怯えているのかリィと。
湿った匂いに少々顔を歪ませながら魔法でサッサと片付けてしまう神子と。
魔法を習い始めた未熟な者ならいざ知らず、常人の何倍もの時間を生き魔法を扱ってきた神子にとっては難しくもなんともないことだ。
時間稼ぎにもならない掃除を終え、どうしたものかと再び自身の席へと戻り一息。
「こうして振り回される側になるのも久しぶりだな……」
いつだったかも思い出せないくらいには昔の事。
そうだったそうだったと色褪せていた記憶に色を塗り直すにはあまりにも短い休憩時間だった。
「うぅ、まだ目がしぱしぱするんだが」
「自業自得ってやつ?」
「俺は悪くないだろおい」
潰された目がしぱしぱする程度で済んでいるのがおかしいと思います。
チャチャによる愛の力(?)で治癒したジーンの視力はこの先何を視ることになるのか。それはきっとまぁ多分良い未来なんじゃないですかねぇ。
「おいそこ変な事ばっかり呟くなよ。誰に向けて言ってるんだよそれ」
「すまん、つい動揺してしまったようだ」
時間と共に精神を落ち着かせたリィは在るのかも分からない高い高い天井を見上げて。
もう大丈夫だと肺にいっぱいの空気を流し込み気持ちを新たに座り直すことに。
ジーン側はもう切り替えが完了しつつまるこの状況。
一方で世界の意思はだらんと力の入っていない格好のままで目は虚ろ。
誰かが声をかけないと一生このままではないかと心配になる脱力感に見える。
では誰かが声をかければいいだろうという話になるのだが、問題なのは誰が声をかけるのかという点だ。
「ジーン、ほら、その。母親なんでしょ?」
「押し付けんなって。チャチャこそ隙を突くチャンスだろ」
「じゃあミカね。お世話してあげたんだし適任でしょ」
「ふふっ、僕はもう疲れたよ……」
「なら、あんた行ってきなさい。何もしてないでしょ」
「うぐぅそれを言われると苦しいが。苦しいが……っ!」
「こういう時に頼りにならない人ばっかりなんだから」
見なくてもいいものは仕舞っておきましょうと人をつついただけのチャチャが自身の事を棚に上げたところでようやく。
「まったく、余韻にも浸らせてくれないのですか。優しい心というものが無い人達なのね」
押し付け合いをしていたおかげで正気に戻って来る世界の意思。
澄ました顔、といったわけでもない様子。何事も無かったかのよう何も気にしていないかのよう。
世界の意思にとっては気にするような事は何一つ起こっていないのだろう。
何度でも思い知らされる。やはり人ではないのだろうと姿だけは人である世界の意思の気味の悪さを思い知らされる。
圧倒的強者に抱く恐怖じゃない。狡猾な策士を前にした不安じゃない。
「それで、返事は?」
それは未知に対する畏怖だった。




