取引
午後。榊はイッヌと共に現市長の父親である元市長・野島圭介の家を訪れていた。さすがに黒くて目立つNISCの車両は別荘の裏に隠し、カーシェアの小型車に乗り換えている。
榊と野島の二人はニューロゲート事件の当事者どうし顔見知りも顔見知り、お互いに死ぬまで二度と会いたくない相手だった。
元市長の家は市内の高級住宅街にあった。純和風でゆったりとした作り。塀の内側を松が囲み、その更に内側には池に鯉まで放ってあった。そして至る所に設置された監視カメラ。実に費用がかかっていそうな邸宅だ。
藍色の甚平にグレーのカーディガンという如何にも隠居風な出で立ちの元市長。薄くなった髪の毛に口ひげだが眼光だけは鋭い。
応接室で榊を迎える。ちなみに榊は平凡なダークグレーのシングルスーツにノーネクタイ姿だ。
「今になってお会いする事になるとは思いませんでしたよ、榊さん。本日は何用で?」
「今、市内で起こってる捕物はご存知ですね?それに対して午前中に市長が非常事態宣言を出しました。」
野島は口ひげをなでつけて榊を見やる。
「聞いてはいますが、それが?」
「非常事態宣言を取り消すよう、現市長に進言してほしいのです。」
非常事態宣言が発出されたとなれば自衛隊がからんでくる恐れがある。今のところ官邸は甲田が抑えてくれているが何日ももつものでもない。いくらポリーたちの力が優れていても、軍隊相手では何がおこるかわからない。リンの安全性に不安が残る。
野島は目を細める。
「よくわかりませんね。何故そんな事を?」
「この被疑者とされている少女ですが、なんとしても保護する必要があるのです。現時点で詳細はお教えできませんが、災害としての認識は非常に都合が悪い。非常事態宣言は市にとっても危険な判断なのです。」
野島には本当に理解できなかった。何言ってるんだこの男は?
「正直なにもわかりませんが、そもそも私はとっくに引退した身ですよ?息子とはいえ現役の市長を動かす力などは...」
「そんなはずはありません。色々伺っていますよ?ファミリー企業への市からの便宜供与とか。」
「...」
野島は黙り込む。いろいろ思いつく事は多いが、足がつくような証拠はなかったはずだ。しかし相手が悪い。
「そしてこれです。」
榊は小さなメモリーチップの入った透明ケースを胸ポケットから取り出しテーブルに置く。
「それは?」
「ニューロゲート計画の非公開議事録の暗号化キーです。」
野島は驚愕する。まさかそんなものが残っていた?
「そんなバカな。君と内閣は全ての記録を抹消したのではなかったのか?そもそも君が計画を進めていた事も記録されているだろう、そんなもの公開したら君も終わりだぞ?」
榊は冷たく微笑む。
「ええ、そうなるかもしれませんね。私もあなたも一躍時の人になるでしょう。まあ仕事も役職も無く、老い先短い我々です、最後に表舞台で糾弾されるのも一興じゃないですか?」
「ふざけるな!そんな事したら一族が...君の家族だって...」
「そうですね、市長一家も道連れかもしれませんね。少なくとも政治の場からは追われて二度と復帰できないでしょう。ああ、幸い私には家族などおりませんのでご心配には及びませんよ。」
「そこまでするメリットがその少女にはあると?」
榊は初めて本心から笑みを浮かべた。
「そうなんですよ。市のため、国のため、と言うより地球のためかもしれません。それに実に可愛い。こんな孫が欲しかったくらいですね。」
「なんだそれは」
野島は完全に理解を放棄していた。ただ一つ、生涯安泰だと思っていた自分は突然崖の上に立たされていて、谷底に落とされるかどうかはこの判断にかかっている事以外は。
「是非今日中に市長を押さえてください。そうしたら暗号化キーは差し上げます。煮るなり焼くなりご自由に。」




