第9話 無実の罪
XX38年十一月。
空に東雲が両手を広げる時間の暗い執務室。
目覚ましが鳴る直前にイアンは眠りから覚めた。瑤は今、ここにいない。
彼女はひょっとして、本当に慰めに来てくれたのかもしれない。
それはそれとして、自分が唾棄するものは変わらない。
さして惜しくないと思った椅子は必要になった。手放すときは上に登った時か、新世界を開いた時だ。
着替えを持ってきたのはオブライエンだった。白いスーツ、は三着揃えているがイアンが二番目に選ぶものを、秘書はよく知っていた。
早いうちにイアンは黒函共同対策本部に顔を出そうとしたが、区政担当の部下は簡単に状況を口頭説明しながら報告書を押し付けてきた。
イアンは内容を確認する。玄嶺宗が共同対策本部に合流。
『裂蝕斬り』を預かっている武家や宗門は、裂蝕有事の際、率先して解決に当たらなければならない。義務だけではない。有事への介入権や調査権も認められている。
玄嶺宗はその一つだが、たまに有事を拡大解釈する。 適切な距離感を保てているとはいえ、崖縁区最高責任者としては、助かる反面、胃も痛い。
面子より使命を優先した防衛軍の、黒函捜索回収はほぼ終わりに近かった。
襲撃犯、つまりテロリストを追うのは丹凰先生が当たってくれていた。
海はシーセックの海上保安部が封鎖に努めている。
玄嶺宗のコリンは丹凰先生に同行しているのだろうか。私情でカサンドラを追っていないことを願うばかりだ。
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就業開始時間、イアンが事業本部に入って最初にしたのは、法務部門からの報告を受けることだった。
定款の確認。代表取締役不在の場合、取締役による互選での招集が認められている。イアンは取締役だ。招集権の根拠は整った。
監査役にその旨を報告し、記録させた。
取締役会招集通知を出したのは午前中。名義はイアン自身。開催は翌日のリモート。議題の文言は三回書き直した。
「代表取締役の選任について」では駄目だ。それは信任投票を誘発する。「事業継続計画に基づく現状報告および暫定体制の確認について」。
確認、という言葉を選んだ。
イアンの地位はBCPによって既に稼働している。取締役会がするのはその追認であって、新たな決定ではない。言葉一つで後の解釈は変わる。
イアンは通知を送信する指先を見ながら、わずかに口元を歪めた。
招集通知の発送後、社外取締役に直接連絡を入れた。
「明日の取締役会の前に、現状をご報告する時間をいただけますか」
彼との事前通話は三十分だった。イアンは話しすぎなかった。
スカンダ案件との切断、財務の継続性、BCPの根拠。それだけを、過不足なく伝えた。社外取締役の質問への返し方は最小限に抑えた。彼はセレスティ商事の人間であり、アンテロス鉱業におけるCEOの監視役だ。
監視させることと、見せる範囲を設計することは、矛盾しない。
ここまでは問題なくやりきれた。睡眠不足でそろそろ判断力が枯れる。昼食を取った後は急速に眠くなることだろう。
通話を切ったイアンは、空腹に意識を取られた。何を食べるか悩んではいけない。
誰かにメニューを決めてもらいたかったが、オブライエン、そしていつものSP三人組はどちらも今は休んでもらっている。
あらかじめ、出社している幹部たちを昼食に誘っておけば良かった。これは私の失策だ。
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瑤は昨日、トマソン少将を追った結果、彼がカサンドラ大佐に銃撃されたのを見た。
ウチと同じだね。悪い子にはおしおきが必要だもんね。
グラハが乗った車両が襲われる前のイアンの口ぶりだと、グラハの「事故」は軍の誰かに仕組まれたということになる。実際、そのようになった。
ヤオは賢いから、考えるんだ。
この状況は、イアンのグラハ殺しへの関与が否定できない。
瑤はイアンに対する身辺調査をほぼ終わらせていた。カサンドラとの接点はあれど、繋がりは見つけていない。
しかし、イアンが瑤に事前にほのめかしたことそのものが、無関係であるというアリバイ作りにもなりえる。
そういう人じゃないと思うけど、グラハ殺しはイアンとカサンドラの共謀。まだ可能性は捨てきれない。
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午後、イアンは規律局から呼び出しを受けた。形式上は「監査の続き」という体裁だったが、場所は応接室ではなく、下に雀荘が入っている雑居ビルの貸会議室だった。
部屋に入ると、瑤の他に、見覚えのない男が一人いた。年齢は瑤よりずっと上で、灰色の制服に規律局のエンブレム。座り方に隙がないように見える。彼は一度、自分の顎を撫でてから言った。
「ベルスニッケル規律局、弾正官首席補佐のジェイムズ・ロブだ」
瑤は俯いたまま何も言わない。イアンの目から見て、いつもの軽さを抑えている。
「イアン・ブラック。グラハ氏の事故について、いくつか確認したい」
「私にできる範囲でしたら」
「昨日、グラハ氏と君は同じロープウェイに乗った。その車内で、二人だけで話す時間があったそうだな」
「グラハ様の腹心も同乗していました。二人だけではありません」
「内容を聞いている。何を話した」
イアンは少し考えようとしてやめた。この状況に違和感を覚えるが、今は事実を言えばいい。
「軍の避難計画への懸念を伝えました。カサンドラ大佐が避難経路の安全確認と計画策定の両方を担っていたこと。その点に、私は違和感を持っていました」
「その違和感を、グラハ氏に伝えた」
「はい」
「そして、その避難経路でグラハ氏は、黒函の虹蝕獣に襲撃された」
「結果としては、そうなりました」
ジェイムズは手元の書類に視線を落とした。そして顎を撫でる。
「君は、軍の車両に乗らなかった」
「乗りませんでした。グラハ様にも乗らないよう勧めましたが、最終的にはグラハ様の判断です」
「随分と都合のいい忠告だ」
イアンは表情を変えなかった。
「結果が私に都合よく見えることは否定しません。ですが、忠告した内容が事実であったことも、否定できません」
ジェイムズはしばらく顎を撫でながら、黒い瞳でイアンを見ていた。それから、隣の瑤に視線をやった。
「瑤。お前はこの男を、それなりの期間調べたな」
「うん」
「報告書を見た。不正は見つからなかった、人格面でも問題は確認できなかった、と書いてある」
「そのとおりだよ」
「お前の評価では、この男がグラハ氏の死に関与したと思うか」
瑤は顔を上げた。イアンを見た。それから、ジェイムズを見た。
「思わない」
短く、はっきりした声だった。
「調べた限り、イアン・ブラックは目的のために手は汚すけど、こういう汚し方はしない。やるなら自分の手の届く範囲でやる。今回のは……他人の手を借りて、結果だけをもらってる。イアンのやり方じゃない」
「印象論だな」
「うん、証拠はない」
ジェイムズは顎を撫でた。
「規律局は、思う思わないで動く組織じゃない。お前の印象は記録には残すが、調査方針には反映しない。事実を調べろ」
「了解だよ」
ジェイムズが立ち上がった。
「イアン・ブラック。当面、君の通信記録、面会記録、財務記録の開示を求める。協力するように」
とっくに調べているクセに、よく言う。すでに知っていたことに合法性を添えることを、それでうまくやったつもりか。
イアンはここまで考えて、この状況の違和感の正体が見えて来た。確証はないし、それを指摘することもしない。
「もちろんです。必要なものはオブライエンに申し付けてください」
ジェイムズは部屋を出ていった。残されたのは、イアンと瑤の二人だけになった。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……瑤様」
イアンが先に呼んだ。
「さっきの言葉、ありがとうございます」
「お礼はいらないよ」
瑤は耳を少し倒した。
「ヤオが言ったのは、ヤオが調べた範囲での話。それだけ。証拠が出てきたら、ヤオはそっちを信じる。それがヤオの仕事だから」
「承知しています」
「でも」
瑤は一度言葉を切った。
「カサンドラとの繋がりが出てきたら、ヤオは多分、ショックを受けると思う。それだけ、先に言っておく」
イアンは何も答えなかった。それは懸念に終わると、口にすることはあまりにも安い。
瑤は部屋に残るようなので、イアンは先に退室した。
ジェイムズと彼女の言葉にウソを感じなかった。
だが、自分が唾棄するものは変わらない。
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「ヤオの代わりに審問お疲れ様、ジェイムズ君。ところで、顎、撫ですぎだったよ」
「すみません、首席」




