第8話 幸運か窮地か
XX38年十一月。
カサンドラ大佐殿から見れば、私は特許の無償提供に食いついた金の亡者。グラハやトマソン少将と同類で同罪。そういう目で見られていたのだろう。グラハ殺しに幹部たちを巻き込む決心の原因が私だとすれば――考えるだけで胃が痛む。やめておこう。
瑤は確認したいことがあると言って、軍のテントで別れた。
グラハたちが乗った防衛軍の避難用車両は襲われた。運が良かった幹部一人を除き、全員死亡した。
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安置室で見せられたグラハの顔は、想像より整っていた。
幹部の根本は才色兼備で評判のグラハ派の一人だ。かすり傷ひとつで生き延びて、一人は怖いと言って、安置室で私の腕に腕を回して体を摺り寄せてきた。
やめてくれ。
安置室を出ると、イアンはすぐに仕事用のハンドリンクで電話をかけ始めた。根本が張り付いてくるが、構わず続ける。
セレスティ商事の危機管理担当、次にトライピース、そしてセトファーム。内容は同じだった。相手に合わせて言い回しだけ微調整した。感情は使わなかった。
三本目の電話を切り、イアンは窓の外を見た。暮れかかる帆嵐峰は、本社のあるネオンまみれのヘスティア州に比べればひどく暗い。
根本に元気ならば手伝ってほしいと頼むと目を輝かせた。タクシーを呼ぶ間に、簡単に食べられるものを買ってきてもらう。
タクシーの到着を待つ束の間、イアンは状況を整理する。事業本部と本社への指示を、これから明確に出さなければならない。
いや、出したい。
アンテロス鉱業の代表は空席となったが、自分以外に社外取締役を含め取締役は複数いる。面倒事は放り出してもいい――ただ、今日一日だけは野心とスリルに生きる。そう決めていた。
根本と共にタクシーに乗り込みながら、崖縁区の事業本部次席幹部に電話した。本部長は今日死んだ。その事実を一言で伝えると、今夜やるべきことを箇条書きのように指示した。
報道対応は全件保留。警察窓口は一本化。行程表は全て保全。外部からの非公式接触には応じるな。相手が何か言いかけたが、イアンは遮った。質問は明日でいい。今夜は動くだけでいい。
敷地の明かりが、色づいたイチョウ並木を目立たせる。タクシーを降りて社屋に向かい、本社広報に、法務に、内部監査に。同じように電話をかけた。イアンは一時間かけてアンテロス鉱業の神経系に指示を流し込んだ。自分がその神経系の中枢として機能しているという感覚は、不思議なほど自然だった。
次は黒函共同対策本部の設置。合意はすぐに取り付けた。崖縁区住民より会社を優先させたことで、また非難を浴びるだろう。
しかし社内のグラハ派は壊滅した。元スカンダ派にはたっぷり恩を売ってある。もう後ろを振り返る必要はない。
共同対策本部はアンテロス鉱業社屋内の会議室を使った。防衛軍、シーセック、アンテロス鉱業の三者で臨む。
トマソン少将も死んでいた。防衛軍代表者の声は、努めて平静を装っていた。襲撃犯は劫災主教団。港から漁船で縹島へ逃亡したという。シーセックの海上保安部が警告を出したところ、防衛軍の制服を着た者たちから発砲を受けた。
防衛軍代表者が言い淀む。シーセック代表者が畳みかけた。
「防衛軍の中に教団教徒がいたということか。逃亡犯の個体識別はできているのか。できているなら警備ロボでも対応できる。答えろ」
「自分の一存では――」
「何のための共同対策本部だ」
イアンは聞きながら、カサンドラの目を思い出していた。グラハが軍の誰に贈賄したのか、今日はっきりと見せつけられた。そしてグラハは幹部たちと共に死の罠に送り込まれた。では、収賄した側はどうする。
なるほど。カサンドラは劫災主教徒だったということか。
イアンは発言に回った。
「問題は多いですが、そこは後回しにしましょう。黒函の回収進捗と捜索完了地点の共有が先です」
それから防衛軍代表者に向き直った。
「こちらが委譲した権限は、責任者が消えた以上返していただきます。協力はします。避難警報に振り回された市民の感情を、早く慰撫しなければなりませんので」
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夜も遅いが黒函の回収成果、襲撃犯の裂蝕ドーム内逃亡を住民と報道に向けて発表した。羅湾裂蝕ドーム内従業員と縹島~帆嵐峰ロープウェイの休業は社内通達とあわせた。
息抜きに淹れたコーヒーは、アロマが鼻に突き抜けるほど香り高かった。 ラジオを入れると、独立系報道機関がすでにグラハの動静未確認を嗅ぎつけていた。早い。
こちらは親会社からの指示か合意がなければ、自社に関して一切のプレスリリースが出せない。自治区でも会社でも融通が利かないことだらけだ。
執務室の白い明かりが目に刺さる頃、イアンは二本の電話をかけた。
最初は取締役会監査役。
「BCPに従い暫定指揮を開始しました。本日私がセレスティ商事・トライピース重工業・セトファーム三社の危機管理担当および各部門に連絡した事実と時刻を、記録に残してください。取締役会招集権の所在についても、明朝、法務部門に確認させます」
非常時の事業継続手順は定められている。監査役は短く了解した。それで十分だった。イアンが欲しかったのは共感でも助言でもなく、記録そのものだった。
次はトライピースの役員。個人のハンドリンクにかけた。一昨日かかってきた番号は、十五年変わらない。
「グラハ様が亡くなりました。ご忠告のおかげで幸い私はピンピンしております」
「どこにいる」
「私の城に戻っています」
「株主に聞かれたらどやされるぞ」
それだけだった。この男は必要なことしか言わない。イアンも必要なことしか言わなかった。何のことはない腐れ縁だった。
通話を切って、執務室を見渡す。安っぽいクリーム色の壁紙に書類棚。年季が入ってきた机にはPCと電話と、ペン立てとデスクライト。観葉植物はパキラが一本だけ。ねじれた幹が、弾正官様の編み込んだ髪を思い出させる。
共同対策本部は信頼できる部下に任せた。朝までは自由だ。
真実を追う動機と野心が混ざり合い、ここまで登ってきた。スリルも十分楽しんだ。今座っているこの椅子も、さして惜しくはない。
暇になったらレオンの墓参りに行こう。それでいい。
帰宅して、少し眠ればまた次の仕事だ。今日が終わった。
生き延びた。死の罠から逃げ切った。
選択を間違えれば自分も死んでいたかもしれない。そんな思考が取りとめもなく浮かんでは沈む。それを振り払い、家に帰ろうと自分に言い聞かせた瞬間、湧き上がってきたのは――女を抱きたいという生々しい劣情だった。
危機をくぐり抜けた後の、生きている実感がそうさせることは知っていた。
体を摺り寄せてきた根本の感触が脳裏に蘇る。
イアンは今の自分が信用できなくなった。ここでおとなしく仮眠を取ることにした。
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明かりを落とした暗い執務室。
暖色の小さなナイトライトは、安全規程で義務づけられた最低限の灯りに過ぎない。
鍵をかけていたはずのドアが開き、小柄なウサギのシルエットが床に落ちた。影は静かにドアを閉め、再び部屋を暗くした。
「イアン……」
甘く湿った声が響く。
「イアン」
瑤がいた。
三葉の唇が艶めかしくもう一度名前を呼んで、瑤は歩み寄ってきた。
イアンは動けなかった。
「生き延びたね」
彼女は私の値札を確定させに来た。――浮かんだその思考が、勘か思い付きか、自分でもわからない。
「今夜はお仕事いっぱいになって大変だったね。こういうとき、男の人がどうしたいか、ヤオ、知ってるんだ」
イアンは背を向けた。
救い主さま。あの場所で生き延びるためには、男のご機嫌を取る術を身につけていたのだろう。でもそれを、なぜ今、自分に向けてくる。
「かわいいウサちゃんにポフポフされたら気持ちいいよ」
「……瑤様。我が救い主。いけません。貴方は監査組織で責任ある立場です。監査する側とされる側が懇意になれば、利益相反を疑われます」
「ふふっ、大丈夫。イアン、こっち向いて」
イアンは振り返りながら、乞食娘を、ぬいぐるみを抱いて笑顔になった少女を思う。
振り返った先。体を差し出して男から何かを得ようとする女を、一瞬でも見た。自分の判断力が今夜はガス欠だと気づかされた。こういうときは交渉をしてはいけない。
しかし振り返ってしまったイアンは、瑤から目が離せなくなった。優しくも妖しくも見える赤く丸い瞳。瑤は耳をぴんと立てて微笑んでいた。
「ヤオたち『ベルスニッケル規律局』はね、審査・監査のやり方や裁定の基準は弾正官それぞれなんだ」
イアンの心の中に亀裂が入った。
それぞれ。――何を言っている。
規律とは、そういうものではないだろう。
瑤はゆっくりと微笑みを深め、囁くように言葉を重ねる。
「だからそんなの、気にしなくていいよ」
瑤はイアンの手の甲に手を置いた。その被毛に包まれた柔らかな手で、まるで恋人を宥めるようにそっと撫でた。
そうか。幻想だったんだ。
CRESTは。規律局は。あの市場の娘は。
幻想の残骸の上に立って、イアンは瑤を見た。幼さを纏った顔立ちと落ちくぼんだ目が、ただこちらを見ている。
値札なら勝手に貼るがいい。砂上の楼閣など崩れればいい。
イアンは瑤の手を引いて、抱きしめた。瑤の吐息と鼓動を感じる。
「……ルールは血で書かれている、という言葉を知っていますか」
「知ってるよお。急にどうしたの」
「いえ、何でもありません――」
服越しに感じる体温より、ずっと熱いものがイアンの中で静かに燃えていた。




