第20話 慣れる
傍らに立って、手に触れて、名前を呼んだ。
男は「瑤様は、何をお望みなのですか」と尋ねてきた。優しい笑顔と形容していい表情をしていた。
「毎日こんな時間がほしい」と返した。嘘じゃない。自然に口についた言葉だった。
お互い手を握り合った。それから目を見つめ合って、体を寄せあった。
翌朝は、男の目を見てあげなかった。自然に目が逸れるようになっていた。合理的でない動線を、苦痛に感じていない。
話しかけられても、中身のない相槌で返す。男の話し声に、不機嫌な色が少し混ざる。全く違う話題を振ってあげると、男は機嫌を取り戻した。
でも、目は見てあげなかった。
その日の夜、二人でソファに並んで座った。自分から男の横に体を寄せた。肩を抱いてとお願いすると、男はそうしてくれた。その体にもたれかかってから、顔を上げて男の目を覗き込む。ハシバミ色の瞳が丸くなって、それから細くなった。穏やかな笑顔とでも言えばいいだろうか。目尻が下がり、口角はほんの少し上がっていた。
手に口づけを求めると、手を一度優しく撫でて、包み込むように握ってきた。それから男は、体を離して首を垂れて、恭しく口付けた。
翌日の土曜の夜は、跪かせてつま先に口づけさせた。翌日もそうしたが、こちらの足は床から離さなかった。男は床に這いつくばるように唇を寄せた。
月曜の朝は、髪を梳くのを手伝わせた。その間、男は上機嫌だった。いつもどおり、朝は目を見てあげなかった。
その日の夜、男は這いつくばることを拒んだ。「上手に出来たらキスしてあげる」と言うと、男は要求を聞いた。ご褒美に口づけを交わした。
次の日の夜になると、こちらから要求する前に、男は自ら跪いていた。
朝は、男がこちらに配慮する言動が増えてきた。召使いのように働いたら、目を見て褒めてあげた。
夜も朝も、少しずつ、要求を増やした。ご褒美は欠かさなかった。
イアン・ブラックは悪い子だから、目を見ちゃいけない。
ヤオの言うことを聞けば、良い子で賢い子。
彼は不安と引き換えに要求を飲んだりしない。ご褒美で動くのだから、必ずいつか、天秤を水平にする大切さをわかってくれる。
『ママ』の言いつけを聞いて、彼に教育できて、自分は本当に賢い子だ。
XX38年、12月7日、金曜日。
自分は監視されている。そう言うと「妄想だ」「電波だ」と笑われるだろう。実際に監視されていようがいまいが、どちらでもいい。監視されていることを前提に動く。それだけだ。
朝の業務開始時間、CREST自治管理部と連合本部の連名で「次世代警備AIシステム」の施行事前通知が届いた。表向きは前科者や反社組織限定だった既存の監視網を、全住民に拡大するというものだ。プライバシー保護のためデータは暗号化され、犯罪の兆候が検知された時のみ該当者の過去ログを解析できる――という建前だ。
大義名分は十分すぎるほどあった。シーセックだけでは到底抑えきれない劫災主教団の跋扈。スカンダが当時の縹島責任者を通じて、港と船を好きに使わせていた。我々はロープウェイの偽造パスなど小細工を封じても、奴らの悪行を未然に防げなかった。
このAIシステムがあれば、違っただろう。
ところで――先月、「私の愛しい弾正官」である瑤様は、どうやってガブリエル嬢が帆嵐峰に来ることを知ったのか。
飛行船発着場で待ち構えていたという。偶然はありえない。
すでにこのシステムは稼働していて、追いたい人物を好きに追える状態だ。プライバシー保護だと? 笑わせる。
今や自分にとって笑いの殿堂である『ベルスニッケル規律局』。その先鋒の彼女は、夜ごとに共有する時間を求めて来た。自分はその要求を飲んだ。
その後、まるで恋人たちのような一時を過ごした。癒されながら、毒に侵されていることを自覚した。
今朝の彼女は、前の夜のしおらしさは何処へやら。こちらと目を合わせないゲームを楽しんでいた。
夜、二人でソファに並んで座った。彼女は体を寄せてきた。
互いの体温を感じ合った。要求があり、応えた。己の冷えた心は手放さなかった。
日に日に、彼女の要求はエスカレートしていった。昔話になるが、やり口が、大学時代の最初の交際相手に似ていた。「死んでやるんだから」と言い出さない分、弾正官様の方がましかもしれない。
要求は、少しずつ呑む。段階を踏んで、依存を見せる。支配される歓びを知ったような顔をする。
「貴方なしでは生きられない」
「私は貴方に心酔しています。見目麗しく、峻厳なる弾正官。貴方に跪けることが私の悦び」
この台詞を言う日を、自分は楽しみにしている。ウソは言わない。ただ、内心の片隅にある小さな本音を、前に出すだけだ。
目的を果たす理由――ルールを血で書くことを知らないお前等の、血の色が見たい。それだけだ。
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最初の怒号は熱狂だった。本気で怒りを叫ぶ者が何人もいた。
時間が経てば余興になる。人は正義ではなく、面白さで群れる。
XX38年、12月14日、金曜日。
「俺らが虹蝕緩和剤、もらい続けてるのは事実だろ」「イアン・ブラックに親を殺されたって言えるヤツはいいよな。親の本当の死因なんか、どうでもいいんだから」「確かに借金、背負わされたよ。でも三か月前に払い終わってる」
「お前だって面白がって叫んでたクセに、良い子ちゃんぶるなよ」「それな。今更冷笑系かよ」「日和見。風見鶏」
「ならばこれからも、面白がって言えばよかろう。皆、今は、たいした恨みもないんじゃろ」
ロープウェイ駅で幾度か発生した突発デモは、終結した。
使役ロボット『コヨーテ』としては稀有な存在である玄甲――帆嵐峰で尊敬を集め「先生」と呼ばれる彼の、鶴の一声だった。
集まって叫ぶのはやめておく。個々で勝手に言うのは自由。「死ね」は言われる覚悟で言うこと。これだけが決め事になった。




