第19話 誠実な欺瞞
私の救い主は、あの弾正官様ではない。
XX38年、12月6日、木曜日。
「デュフフ、ウィル氏。流石でござる! こちらは毒デバフの深度が三になるやもしれませぬ。いやいや、心配ご無用。A砦の逃げ切り予定は続行の所存。シー氏が拙者の身を案ずるなど、これは明日、雨! ……ほう、それはやむなきにござる。……何と頼もしい! 左様な策があったとは」
自室で夕飯を済ませた瑤は、イアンの部屋のドアの外から、聞き耳を立てていた。聞こえてくるのは、オンラインゲームプレイヤー間で、昔に流行した話し方だ。
イアンは週にニ、三回、自室のPCでゲームをしている。間隔は不定期だ。
今日もドアの前では、大した情報は得られそうにない。彼が遊んでいるうちに風呂に入ろう。それから、今日も話があると言って、リビングに呼び出そう。
あの男の、心のドアの隙間に、足をかける。
イアンは机の前から立ち上がり、ドアに張り付けていた熱源センサーを外して、ビデオスラブのパッケージに片付けた。机上のモニターの中で、キャラクターが室内で待機している。
部屋に鍵はかけてあるが、それでも不安はある。彼女は一度、鍵がかかった執務室に入って来た。ひょっとすれば、木製扉程度なら壊してしまうかもしれない。
踏み込まれるにも、心の準備があるかないかは大いに違う。
いつ、踏み込まれてもいいように、私は設計している。
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「イアン、困まるよね。――崖縁区自治の監督機関をやっているアンテロス鉱業の『経営権』を、ヤオたちが取っちゃうなんて、イヤだよね」
壁掛け時計は、間もなく未明を指す。瑤の言葉を、イアンは無言で聞いていた。
二人は部屋着で、昨夜と同じ配置で向かい合った。三人掛けソファの中央に瑤はゆったりと腰かけ、ローテーブルを挟んでイアンが一人掛けソファに座っている。
正面のイアンを微笑み見つめ、瑤は続けた。
「自治区区政に不正があったら、ヤオたちは原因の排除完了と正常化まで、特別監察に入ることになるからね。監察されるのは――アンテロス鉱業、全部かも」
彼女の声は少しトーンが下がった。
「規律局メンバーは皆、優秀だから、隠し事は全部見つけちゃうよ」
イアンはなおも黙って聞いていた。
昨夜の彼女のパターンから考えると、次はこちらに安心材料を与えてくる。
表情を笑顔から凛々しい顔へと、瑤の表情は切り替わった。
「なんて、ね。ヤオは悪い子にはしっかりおしおきするけど、言いがかりつけるようなこと絶対しない。ヤオは証拠を信じる」
『悪い子にはおしおき』か。
自分はセトファームの言い分を信じたわけではない。しかし、状況はあまりにも彼女が二人の人間に危害を加えたことを思わせた。それを置いても規律局の、罪を償わせる術に、妥当性が一切ない。
人を消して解決する問題は、一つもない事案にしか見えなかった。
以前彼女の口から、証拠が出たらそっちを信じる、と出て来た時は嬉しかった。今では、その証拠で何を断じられるのかと思うと、軽口にしか聞こえない。
「……それよりもね、キミに伝えておきたいことがあってさ」
ここまで言い、眉を下げ、口を結んで瑤は俯いた。
「ヤオ、実はいろいろあって、小さい頃から家族がいなくて。……大裂蝕災の生き残りなら、そんなに珍しいことじゃないってわかってるんだけど。最近、自分は寂しかったのかなって、思うようになって」
弱々しくも、芯のある言葉だった。顔を上げた瑤は、潤んだ瞳でイアンを見た。
イアンは己の内が混乱しているのを感じた。感情を切れと自分に命じても、そのスイッチに手が届かない。
瑤は立ち上がり、丸い尻尾を揺らして、イアンの傍らに立った。上目遣いでイアンの顔を覗き込む。
柔らかな手が、あの夜のように触れて来た。
その手を握りたいと思い、同時に、心無い言葉で突き放したいという考えがよぎる。
瑤はイアンの瞳と、その手を交互に見ていた。
赤い瞳と伏せるまつ毛を目の前に、イアンの手は少しずつ、瑤の手を包むように動いていた。
「イアン」
瑤の唇が艶めかしく、名前を呼ぶ。
――私の救い主は、私の名など知らない。そして私は、私の救い主の名を知らない。
目的を思い出した。弾正官様には「イアン・ブラックは手の内にある」と思ってもらう。
決して、あの日、かける言葉を間違えたあの娘に、したかったことをするためではない。
ここは、男と女が毒のナイフで刺し合う空間。
暖かな家庭とは、ほど遠い。
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「イアン・ブラックは謝罪しろ!」
「……えっと、もっと短く」
金曜の朝。出勤前や登校前に、玄嶺宗の寺に寄る人間はそこそいる。『気を練る』ためだ。大地を踏みしめ、ゆっくり重心を移す。手は遠くに飛ぶ小鳥を追うように、弧を描く。
一連の動作の後、ヘソの下に気を集める合図として、掛け声を求めたコリンは困惑した。
「せっかくの気が、体から抜けちゃうよ」
「何てこった。イアン・ブラックめ、辞任しろ」
講堂を前にした中庭で、動きながら採掘員たちが崖縁区最高責任者を非難していた。心なしか、茶化しを堪能しているように見える。コリンも話しながら動きを止めない。
コリンの目の前には採掘員四名と、学生が二名いる。香炉を挟んで向こうには、范の動作に合わせて気を練る老人男性やスーツの女性がいる。あちらの集団は、掛け声無しのルールでやっている。
冷え込む季節に入って来た。兄弟子にあたる范の背中は、被毛の下で筋肉が動き、白い吐息は厳かにさえ見える。トラの尾は、范の呼吸に合わせて、静と動を繰り返す。
コリンは毎朝それを観察するのが、ちょっとした趣味になっていた。
しかし、最近流行りの抗議活動は、ついに採掘員の日常に浸透していた。ロープウェイ駅から近いとはいえ、ここでそれをされると厳かな空気が崩れる。
コリンは「イアンさんは、そこまで悪い人じゃない」と言おうとして、飲み込んだ。
「ここでは『大地に根を張り、空と繋がる感覚』を楽しんでほしいな」
動作は緩慢なく言った。呼吸の間は少しずれるが、練気を楽しんでもらうのがコリンのモットーだ。
採掘員の二人は笑みを浮かべ、短く謝ってから気を練ることに戻った。学生二人は、この流れを楽しんでいたのか、講堂の屋根の向こうの空を見ながら、口角を上げていた。
一方で、別の採掘員の一人は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
イアン・ブラックを擁護する人間に、この流行りは面白くないだろう。
電海ネットのSNSまで、この話題がトピックになっている。
ノヴァソフィア全てが、劫災主教団ではなく、イアン・ブラックで崖縁区に注目する日が来るのかもしれない。




