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18/22

第18話 規定変更


 XX38年、12月5日、水曜日。


 自分の朝食の器を置くとき、瑤はわずかに体をひねった。イアンの正面に立たず、半歩ずれた位置から器を滑らせる。それから食卓に着く。


 平日のこの時間が、同じ空間で過ごす可能性が最も高い。頻発するわけではない。それでも目を合わせずに済む角度を、瑤はもう体で覚えていた。

 すでにパンやら加工肉やらサラダやらを食べていたイアンが口を開く。


「おはようございます、瑤様。冷蔵庫のサラダ、お召し上がりください」


「いらないよ。食事は自分で用意するって言った」


 豆乳を注いだシリアルボウルにスプーンを差し込む。


「自分のついででしたが、承知しました。――瑤様が朝にサラダを召し上がっているのを見て、私も健康習慣として取り入れようと検討中です」


 イアンの声は後になるにつれ、何故か楽し気だった。


「ヤオはお肉がいいの。昨日のサラダは気まぐれ」


 座るまでの動線は、この十日間で二度目の微調整だった。最初は真正面から器を置いていた。次に横から。今は、斜め後ろから回り込むようにして置く。工程は増えている。減ってはいない。

 合理的ではない、と瑤は思う。二歩多く歩く。角度を計算する。それだけの手間を、瑤は今日も支払っている。視線の先を常に器かテーブルの木目に固定することも考えた。結局、目の前の男の手つきを、所作を、たまに見る。


 目を見なければいい。それだけの話だ。なのに、見ないことのほうが、見ることよりも労力を要していた。

 夕飯は大抵、自室で食事を取っている。朝は我慢だ。そう考えている瑤にイアンは不意に声をかけてきた。


「ところで今日の瑤様、そのアップの髪型もお似合いです。麗しい」


 出勤時はサイドを編み込みで纏めて、後ろは流すことにしている。休日に買った髪留めに似合うと思って、今日はアップスタイルにしていた。瑤は黙って紅茶に口をつけ、間を置いてから言った。


「朝食で会うたびにおためごかしは好きにすればいいけど、キミはヒマなの?」 


「おお、瑤様。お(ぐし)のセットに時間がかかっているのであれば、お手伝いさせてください。スタイリングには少々心得があります。平日毎朝でも構いません」


「どうしてそういう話になるのかな」


 瑤の返答にイアンは笑いながら、食べ終わった自分の皿を持って立ち上がった。


 こういう男だ。約束と取り決めは守る。使った食器は食洗器に入れて洗う。そして――ガタガタ揺れはじめた食洗器を、イアンの指が一時停止ボタンで留めた。瑤がシリアルボウルの最後の一口を飲み干したタイミングだ。

 キッチン側から食卓に手が伸びてきて、空の器を取り上げる。ボウルを飲まされた食洗器がまた震えだす。

 こういう、男だ。


「自分でやるルールじゃないの?」


「もちろんです。今回は食洗器の効率のためです」


 相手の負担を先回りして取り除こうとする。

 恩を積み立てさせ、いずれ回収する。さっきのサラダにしても、髪の話題に関しても、だ。

 媚びに油断しないでと、『ママ』に教えてもらった警戒の型に、イアンの行動は面白いように、当てはまる。


 恩を積んでいる段階までは。

 回収する気配が今のところ、一度もない。


「シリアルボウルを洗って差し上げたので、正式CEOにしてください」


「…………洗ったのは、キミじゃなくて食洗器」


 ――その座が乗っている天秤の皿に乗せたものが、食器を食洗器に入れること。

 『ママ』の言葉。自分の信条――


 ――思考が大きく混線している。違うことを考えよう。


 彼は実際に過去、救済といって人々に恩を売り、それから全てを巻き上げた。甘い罠で多くの人を己の犬にした。


 そんなイアンのやり口。持ち上げ方は雑だった。世辞にしても慇懃無礼かと思えるほどで、狙いが透けて……見えているつもりだった。彼はCEOにしてくれ以外、最初から何もなかった。


 かわいい。


 そう思いかけて、瑤はその単語を頭の中で握りつぶした。

 人物評価の再提出を規律局に求められている。そこに個人的な感情は邪魔になる。

 何よりイアンは監視対象であり、――ただの、十把一絡げの企業人。人を騙す悪い子。


 目を見ちゃダメ。彼の目を見ちゃダメ。これは大切な『ママ』との約束。彼を見る必要なんて、ない。


 壁掛け時計を見ると、のんびりと考える時間がないことに気付く。ダイニングの向こうの廊下から顔を出したイアンが声をかけてきた。


「お先に失礼します。夕飯のメニューに希望があれば、メールで16時までにご連絡ください。では」


 耳が良いのは困りものだ。聞く気になれば、ウインクした音まで聞こえる。


 瑤は唸り声のような返事を短く出した。玄関へ向かうイアンの足音を、長い耳が回って追いかけていた。


 規律局員が毎朝拾ってくれる車の中で、瑤はイアン・ブラックについて、改めて考えていた。


 さっきのあの男の言葉で、天秤を蹴り飛ばされたような気分だ。そうだ、不愉快なんだ。価値のある人間ではない。

 しかし、さっきの言葉。聞いた瞬間、自分の思考が真っ白になった。皿洗いとCEOの価値が水平になるわけがない。馬鹿げている。頬と口角が上がる感覚がして、両手で隠しながら押さえた。


 不愉快なのに、かわいい。

 悪い子なのに、楽しい。

 二つの文が、瑤の中で並んだまま、どちらも消えなかった。


---


 夕飯は、食べたいものを伝えなかったせいか、先週と同じくハンバーグだった。しかし、ニンジンの風味が上がっていた。

 二人で食卓に、向かい合って座っている。黙って食べている中、瑤は視線を強く感じた。

 そういえば先週は、一度、イアンの目を見た。なぜ『ママ』との約束を破ってしまったんだろう。おそらく、自分がそうすることで――何か、したかった。

 イアンが何か言おうとした呼吸の音が聞こえた。瑤は遮るように声を出してしまった。


「食べ終わったら、お話しする時間ある?」


 僅かに間があった後、目の前の男は「もちろんです。喜んで」と返してきた。それから明日の天気だとか、株価だとか、雑談を振ってきた。適当に相槌を打って返した。

 喜んで、か。

 かわいいね。


 今までに媚びを売って来た企業人とは全く違う男、イアン・ブラック。


 彼の顔を見た。彼の目を見た。機嫌が良さそうだった。

 そうだ、先週は急ぎすぎた。ゆっくりでいい。それでいいはずだ。


---


 思い描いていた配置は、この家に来た初日と、同じようで違う。なぜその絵図面を引いたのか、自分でもわからない。


 三人掛けソファの中央に瑤が腰かけ、一人掛けソファにイアンを座らせた。一人掛けの位置を、ローテーブルとテレビの間、つまり瑤の向かいにするように言った時、自分の声のトーンが下がっていた。

 椅子を動かす背中から、機嫌の良さが抜けていくのが見えた。


「時間くれて、ありがとね」


 得意な茶目っ気の声で、瑤は目の前のイアンの顔を見て話す。「いえ」と声にしたイアンの表情に、少し機嫌が帰ってきた。

 続けて今度は甘い声で話す。そう、甘い声で。


「まだキミさ、規律局のこと、よく知らないでしょ」


「……勉強不足で恐縮です」


 眉間の縦皺が一瞬険しくなった後、申し訳なさそうに、イアンは眉を下げて言った。次のリズムは、次の言葉は、考える前に口が開く。


「ベルスニッケル規律局がその気になれば、CRESTの誰でも無職にできる。誰の椅子も、誰の未来も、簡単に奪える。――でもね、ヤオの言うことを聞いておけば、その心配はしなくていいんだ」


 少し声のトーンを下げて、それから優しく言った。優しく、甘く、続ける。

 ――そう、知っている。自分はこの形を。続きが自然に喉から溢れる。


「安心していい。キミは、ヤオの庇護下だよ」


 おためごかしが出てくる前に、瑤は畳みかけた。


「こっちに来て」


 椅子の上で神妙な顔をしていたイアンは、体の前で組んでいた指をほどいて立ち上がった。テーブルを回りこんで瑤の傍らまで来た。立ち止まらせた。


「うん、そこで。いいね。こっちに座らないでね。でも、跪かなくて、いい」


 世辞か軽口か、慇懃無礼な文句が得意な男は、何も言わない。ただ黙って、静かな面持ちで瑤を見下ろしていた。

 瑤は笑顔で、座ったままイアンを見上げていた。胸の内で手順が、作法が、わかる。

 その理由を探しながら、自分の足を高く持ち上げた。


「口づけて。ここに」


 つま先をイアンに差し向けた。


 しばらく黙っていたイアンは「腰を折るより、この方が早いです」と言って、床に片膝をついた。

 瑤の柔らかな被毛に包まれた足は、イアンの表情を追うように下げられた。


 差し出した足、つま先に、男は静かに唇を寄せる。

 口付けた男の様を、瑤は他人事のように見下ろす。


「賢い子だね」


 手を伸ばし、上体を前に乗り出して、瑤はイアンの髪を撫でた。


「光栄です」


 ではCEOにしてください、という軽口には、続かなかった。


 撫でる手を止めて、重心をソファへ引き戻すと、イアンは立ち上がった。瑤は他人事のままそれを見ていた。――男は瑤を見なかった。


 キッチンへと歩き、背中からイアンが言う。


「そうそう、瑤様。ハウスキーパーさんからお願いがありました。『もう少しだけでも部屋を整頓してくださらないと掃除が難しいです』と」


「……ふーん、そういうこと言うんだ」


 不意を突かれて、余計な間が入る。瑤の座っている向きからキッチンは背後になる。振り返って声をかけるか、振り返らず様子を伺うか、迷った。


「言いますよ。ところで、コーヒーを淹れますが、飲みますか? ほかに飲みたいものでも、ついでにお入れしますよ。ああ、瑤様に尽くせる。何たる悦び」


 判断を下すより、イアンの返事の方が早かった。

 これは、明日の夜が楽しみだ。


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