第17話 契約の締結
XX38年、11月25日、日曜日。
「わかってるよね。ヤオが何しに来たか」
イアンの家に初めて足を踏み入れた瑤は、玄関口で切り出した。その目は花瓶の花や、ウオールデコのパネルを見ている。
七階層あるコンドミニアムの二階。規律局の調べでわかっていることは、イアンは家族を持つつもりで、ここの2LDKの部屋を契約した。そして、契約直後に家族計画が白紙となったのが一年前。
交際していた女性曰く「子育ての価値観が違った」そうだ。双方、合理的な判断として婚約破棄に至っている。
そして、独り者としては広すぎる間取りでイアンは生活していた。
玄関口でイアンは片膝をついて、迎えた瑤の言葉に答えた。
「もちろんです」
私服の瑤は深緑のワンピースを纏っていた。意識とは関係なく耳が揺れているのが分かる。目は奥の廊下を追っていた。
「キミの経歴が見つからないことは仕方ない処理だったけど、そうはいかなくなっちゃった。」
「ええ、承知しております。申告内容を信じていただけないのは残念でしたが。さ、玄関口もなんですし、中へ」
手を大仰に振って入るように促すイアンに、瑤は素っ気なく答えた。
「情報はあればあるほどいいからねー」
「それまで私はたっぷり貴方にゴマをすれます! 楽しい日々になりそうで嬉しい限りです。納得したあとはどうか、アンテロス鉱業正式CEOの座に私をご推挙いただきますようお願い申し上げます」
廊下を進みながら、イアンの言葉に、瑤は目を細めた。
この男は規律局にそんな権能があると、どこで知ったのだろう。頼まれるでもなく、そうしてやろうと考えたこともあった。もうそれは過去のこと。
一所懸命に媚びを売ってくる企業人は皆同じ。天秤に乗せられた地位を取り出すために、阿り、諂う。それで向こうの皿と水平になると信じている。
笑みを顔に張り付けたイアンが「こちらが瑤様のお部屋になります」と、せっかちに瑤の名のネームプレートを付けたドアを開けた。
濃いピンクのカーペット。窓にはワインレッドの別珍カーテンと、レースの白カーテン。ベッドのヘッドボードは地味な木製だったが、シーツはフリルがたっぷりあしらわれていた。それと、猫足の椅子と机。その上には、傘のついたランプがあった。
イアンはドアと瑤の横に立っていた。瑤は部屋を無言で眺めたあと、イアンの足を勢いよく踏んだ。
リビングでイアンは熱い緑茶を瑤に出した。そろりと口に運び飲む瑤。
扇形の居間は、その弧に窓が並んでいる。壁はベージュの漆喰の下に木製パネル。 布張りの地味なソファはそれなりの座り心地で、その正面にテレビ。下のテレビボードには再生機器とビデオスラブ。重厚な木製の棚にはオーディオ機器とレコードが並んでいた。ダイニング側に、ウイスキー棚とワインラックを兼ねたキャビネットがある。
ありきたりなモダンスタイルだ。すぐに値札が貼れる。
イアンは瑤の斜め向かいの一人掛けソファに腰かけた。
同居のルール確認は事務的なものだった。お互いのプライベート空間には立ち入らない。使った食器は食洗器に入れて洗う。洗濯機は使用後、速やかに衣類を取り出す。冷蔵庫内の名前を書いていない物は共用扱い。風呂の順番は早い者勝ち。来客を迎える場合は、必ず事前に報告。深夜のドアは静かに開閉する。ハウスキーパーの清掃の妨げにならないよう、整理整頓を心がける。問題や懸念事項が生じた場合、双方とも遠慮なく指摘し合い、協力して解決に当たる。
「そして、これは提案ですが……週に一度でいいので、私が作った夕飯を食べてください」
座ったままイアンは、上体を前に乗り出して言った。瑤は茶碗から顔を上げて、無言のブラウン管を見た。
「必要感じないよ。断る」
「作っているところに『食べたい』と言われても対応できません」
「そうはならない」
淡々と答える瑤の言葉を無視するように、イアンは続けた。
「お好きなものは」
「いらないって言ってる」
ローテーブルに茶碗を置いて、瑤は声を上げながらイアンを見た。
彼の口元は笑っていた。目は? ――目は見てはいけない。これは約束だ。
「やっとこちらを向いてくれましたね」
静かな、穏やかな声だった。だから何だ。ありきたりな部屋で、ありきたりな企業人が、当たり前のように媚び売りをしている。
しかし、監査対象から手料理を食べてくれと言われたのは初めてだった。同居も初めてだった。
少しだけ我慢すればいい。面倒な提案や要求をしのぎ、必要なら適宜接触すれば、イアン・ブラックの情報が増える。
天秤を水平にしなければ真価は取り出せない。――これは自分の信条だ。
視線の先には笑った口元があり、柿色の襟付きシャツの下にグレーのカットソーが見えて、前ボタンは留めていて。膝の上に、彼の角ばった手があった。
その手から、どのような料理が飛び出すのか。気乗りしない。しないが、面白い媚び売りが見られるかもしれない。
「何曜日?」
イアンの手から棚に目を移して、瑤は口を開いた。
「水曜日に。アレルギーや苦手なものはありますか」
笑みが深まる気配がした。何故そう感じるかは、耳がいいからだろうか。おそらく声色でそう判断している。
「特にない。お肉いっぱい出してね」
「承知しました」
立ち上がりながらイアンは、家の鍵を差し出した。膝上に肘をついて、顎を手に乗せていた瑤が、空いているほうの手で受け取る。見もせずに広げた掌に、金属の感触が置かれた。
ウィークリーミッションだと言って、イアンは出掛けて行った。調査報告書によれば、日曜日はジムで運動している、とあった。
尾行は付けていないが、このCREST自治区で会員証を使えばその記録は取れる。張り付いてまで調べ上げる必要はない。
‐‐‐
出勤時間、帰宅時間、二人はバラバラだった。たまに食事がダイニングテーブルで鉢合わせになった。イアンが自分の飲み物のついでで「飲みますか」と瑤に聞くたび、瑤は素っ気なく断った。
最初の水曜日が来た。
夜、瑤はイアンの手料理が出来上がるまで、リビングで過ごしていた。自室でチェックしていた報告書の内容を、ソファの上で振り返っていた。テレビはついているが、内容は見ていない。
今日また、イアンを非難する抗議行動がロープウェイ駅であった。三度目だ。彼は報告を受けても意に介していないのか、単純に知らないのか、時折鼻歌が聞こえる。考えていたところで食卓に呼ばれた。
メインディッシュは、挽肉をこねてまとめて焼いた物――ハンバーグだった。
テーブルに着いた二人は、黙々と食事を口に運ぶ。先に口を開いたのは瑤だった。
「デモがあったの知ってる?」
「把握しております。最高責任者ですから。まさか瑤様が、わたくしめを案じてくださるとは。不肖、イアン・ブラック。身に余る光栄です」
付け合わせのレタスを口に入れた後、正面を見れば、悦に浸っているような顔をしている男がいた。皿に目を戻す。視線を感じるが、気にしない。
「そういうのじゃない。所感は」
「上に立つ者への批判があるのは、その社会が健全だと思っております」
イアンはナイフでハンバーグを丁寧に切り分けていた。瑤もハンバーグにナイフを入れる。口へと運ぶたびに、肉と同時にニンジンの味と香りがする。
「そんだけ?」
「それだけです」
危機感のない男のすました返事。会話が途切れたので、瑤は少し考えてから、本題に入ることにした。
「キミの経歴なんだけどさ、信じてないワケじゃないんだ。ただ、申告内容がもっと詳細だと、こっちもありがたいかなって」
「あれ以上のものは出せません。大裂蝕災で『後ろ暗い過去』を振り切った人間は、いくらでもいるでしょう。真っ当にやりなおしている者の、何を掘り返そうと言うのです」
「CRESTは、その後ろ暗い過去を糾弾したり、解雇や解任の理由にしない。知ってるでしょ」
「そう言っているのは存じております。しかし、本当にそうしないかは存じておりません」
「……じゃあさ、イアン」
名前を呼びながら瑤は、長いまつ毛を下げた赤い瞳で、イアンの目を見た。ハシバミ色の瞳は丸くなった。それを確認して瑤は続ける。
「たまには一緒のお布団に入ろっか」
「遠慮しておきます」




