第16話 適正距離
日曜。
久しぶりのヘスティア州だった。ストロング家のご当主は矍鑠としていた。あとは偶然、主要株主の幹部にも会った。そう、偶然だ。
翌月曜。
シーセックから、強制捜査の結果と概要が区政部に届いていた。「ニジギリを飲める形にした薬」が押収された。捕まったのは末端だけ。組織の全容や今後の計画は不明。もともと末端しか残っていない前提だったので、それでいい。
XX38年、11月20日、火曜日。
社外取締役への定期報告の通話中のイアンは、オブライエンから「瑤が戻ってきた」と書かれたメモを見せられた。
グレーの制服の男性二人を伴って、執務室に瑤が入って来た。通話中のイアンに一瞥もくれず、応接セット代わりに置いてある椅子の一つに腰かける。
瑤の服装は以前と変わらぬ黒スーツだったが、腰には警棒を思わせる赤い棒きれを下げていた。
「監査対象がここの全部に拡大したから」
内装を見回しながら瑤は、にべもなく言う。通話を終えて、瑤の前に来たイアンは立っていた。同じく立ったままの制服の男が、黒の通達ファイルを差し出す。
CREST連合本部公式通達。
制服の男が、抑揚のない声で写しを読み上げた。
「本監査はCREST公認監査士法第十三章七条およびベルスニッケル規律局運営要綱に基づく正当な手続きです」
それだけだった。理由も、期限も、範囲の内訳もない。
イアンは文書に目を落とす。CREST自治憲章、CREST法。どちらも条文としては存在するが、運用の主体は常にひとつだけだ。CREST最高意思決定機関――そこが決め、そこが施行する。異議を挟む機関は制度上存在しない。
「説明会への出席と、書類の提出は」
「通達どおりに」
質問に、制服の男は定型文で返した。それが説明のすべてだった。
イアンは書類を一枚めくる。監査範囲拡大の根拠として記載されているのは、月曜日に発生した抗議活動だった。今日は火曜だ。
「素晴らしく仕事の早い機関ですね。デモの翌日には拡大が決定とは」
誰に向けたでもない口調で言った。制服の男は表情を変えなかった。瑤も答えなかった。
瑤はすまし顔のまま、立ち上がるまで一度もイアンの顔を見なかった。 目も、口元も。壁の内装と同僚だけを見ていた。制服の二人を連れて執務室を出ていく後ろ姿を、イアンは見送った。
瑤の態度はいつもと違った。それは置く。切り替えねばならない。
手順は決まっている。崖縁区秘書室、および本社管理部門の法務・総務・広報。イアンはまず即時対応体制の構築を指示した。通達文書の精読と初動分析。次に取締役会への報告。社内への情報展開。正式通達の発出。
手順はいつもと同じだった。緊急時ほど、手続きは事務的であるほうがいい。
翌21日、水曜日。
説明会当日、瑤は規律局員二人と社屋を歩いた。堂々とした足取りだったが、前を歩く瑤は愛嬌のある笑みを浮かべていた。
監査という重い名目とは裏腹に、社屋内で瞬く間に話題になった。
「かわいい……」「監査の指揮官とかマジかよ」「本当にいたんだ」
瑤の小柄なウサギの姿は、以前までも噂になっていた。それが、大の男二人を引き連れて眼前に現れたことで、事業本部は浮かれ騒ぎのようになった。
熱い眼差しを送る社員に、耳をぴんと立てていた弾正官は手を振って応えた。その振る舞いに、周囲はため息と歓声にあふれた。
すれ違う社員が二度見をする。写真を撮りたいと言い出す者まで現れた。
翌日。
「子供みたいだな」
誰かが何気なく、そう漏らした。
瑤の長い耳が、ぴくりと動いた。足が止まる。連れの規律局員も、周囲の社員も、一拍おいてようやく異変に気づいた。音が止まり、空気が変わっていた。
笑顔だった瑤が、ゆっくりと振り向いた。声を発した本人は、目が合った瞬間に凍りついた。
赤い瞳にあったのは殺気だった。
圧を感じたのか、周囲の何人かがあからさまに一歩後ずさった。廊下に沈黙が落ちてから、弾正官は笑顔に戻って歩き出した。
その日の午後、区政部の資料室では紙資料の強制押収をめぐり、激しい攻防が発生していた。
夕方の執務室。それらの報告書を眺めてから、イアンは膝の上で指を組んだ。腰かけている椅子を回して、窓へと視線を向ける。
一昨日、この部屋で通達を突きつけてきた瑤は、終始イアンの顔を見なかった。感情の色ひとつ浮かべず、事務的に概要を一言で告げて去った。
昨日と今日で、弾正官様は愛嬌を振りまき、周囲を魅了したかと思えば、視線一つで人を凍らせる。
全て同一人物。それはいい。
――しかし、以前までの彼女ではない。
かわりに、「先日偶然聞いた話」とよく似ている。愛らしい姿のウサギが愛嬌を振りまいて、弾正官として現れた。
その後、二人の人間が消された。
その二名は、監査法人に虚偽報告をするよう指導され、安全検査虚偽報告の「罪」で「おしおき」となったそうだ。
立ち上がったイアンは、両手をポケットに突っ込む。若い頃のクセが久しぶりに顔を出した。
近づいた窓ガラスの先は、濃紺と紫の空。眼下には黄葉の植木と、アンテロスの心臓たる工場。白い壁は空の色に溶け始める。
振り返った執務室の机。イアンの目の前には、正規の報告書と非正規報告書と並んで、黒の通達ファイルがあった。弾正官様が初めて現れたときに受け取った書類では気にも留めなかった、その最後。
ベルスニッケル規律局 総帥 エレナ・ゴースト
夜の静琳堂。漢方薬局の店主、玄甲は早めに店を閉めた。
今朝、二度目の突発デモが起きた。このままでは騒ぎは大きくなる。あの律儀な若者の身に、危険が及ぶ。
ロープウェイ駅の営業時間終了が迫る。丸みを帯びた小さなボディは、弾みながら夜道を駆けた。
23日、金曜日。
事業本部社屋のエレベーターホール。社員たちの目がある場所で、イアンは堂々と切り出した。
「瑤様、ホテル住まいは不便でしょう。どうぞ我が家のゲストルームをお使いください」
SP三人組を引き連れて、規律局員たちの進行方向に立ち塞がる形だった。三人組は引き締まった表情だったが、対照的にイアンは、朗らかに両手を広げていた。
周辺に居合わせた社員たちが目を見開いた。
「お、いいね」
瑤が明るく答えた。社員たちがさらに目を見開いた。二人の局員は一瞬、肩を震わせた。瑤が続ける。
「月々の家賃、水道費、光熱費、通信費、その他経費は? ごはんは自分で用意するから食費は除外ね。あと獣人用のボックスドライヤー置くスペースある?」
「スペースはご安心ください。月々の経費は概算ですが」
イアンはハンドリンクに素早く入力して見せた。
「こちらになります」
「そんなもんか。半分だすね」
「ありがとうございます。やはりCRESTに属する者はこうでなくては!」
どよめきと黄色い声が周囲から上がった。
周囲からも、そして彼女からも視線を感じるが、弾正官様は顔を見ていない。決して、目が泳いでいるわけではない。どこかしら観察している。
規律局員たちは立ち去るそぶりを見せたので、イアンたちは行く手を空けた。イアンは恭しく頭を下げながら片手を胸に添え、もう一方の手を行先へ差し向けた。
周囲に笑みと愛嬌を振りまきながら、瑤は制服二人と共にホールを去る。
なぜ私には、その愛嬌を振りまかない。
――愛しい死神よ。我が災厄よ。どちらが先にくたばるか、楽しみだな。




