第2話 四面楚歌なら八面六臂
XX38年十月。
オペラグラスを畳んだ。
企業連合CREST傘下、アンテロス鉱業の社屋中層階。イアン・ブラックは窓から正面広場を見下ろしていた。崖縁区北の縹島を包む『羅湾裂蝕ドーム』の採掘現場の非正規採掘員たちが、今日もデモを続けている。
人数は昨日より増え、気炎も上がっていた。
「今日は一段と集まってますね」
黒髪のハーフオールバックに、眉間に刻まれた深い縦皺。白いスーツを着こなした長身の男──イアンは静かに独りごちた。
プラカードの統一感。トランジスタメガホンは採掘員がわざわざ自腹で用意するものでもない。明らかに背後に扇動者がいる。
後ろに控えていたSPの青井にオペラグラスを返し、イアンは踵を返した。
「労災補償金と賠償金が欲しいみなさんの感情の慰撫に行ってきます。お三方は待機でお願いします」
イヌ獣人のSP三人組──青井、武藤、キャンベルが同時に耳をぴんと立てた。
「イアンさん一人で行くんですか!?」
「アイツら、ありもしない薬害の証拠とか言い出してるらしいですよ!」
「ヘタすりゃ殴られちまいますよ!」
イアンは立ち止まり、静かに振り返った。
「彼らに配布している虹蝕緩和剤で人が倒れた。メーカーにご迷惑をかけないよう、事態の把握まで箝口令を敷きましたが、それゆえ強い反発を招いてしまいました。これは私の失策です」
「非のない社員に暴力が向く前に、私が出るべきです」
三人が何か言いかける前に、イアンは続けた。声に苛立ちが混じり始めた。
「彼らは……『CRESTは信用ならない』だの何だのと、自ら非正規雇用を選んでおいて」
話を聞きながら武藤が小声でキャンベルに言った。
「イアンさんの眉間のシワってやっぱ……怒り、だよな」
「だよな」
半歩引いた三人をよそに、イアンの声のトーンが上がる。
「いざ労災のフローが違うと文句をギャンギャン……。権利ばかり欲しがる前に、待遇改善の提案をしてくださいよ!」
言い切ってからイアンは我に返り、深々と頭を下げた。
「すみませんっ、声を荒げてしまいましたあ」
こういうとき、イアンはとことん自分を小さく見せようとする。SP三人組は慣れたものだった。顔を見合わせ、青井が盆に載せた茶を持ってきた。
イアンは一息に飲み干し、表情を切り替える。
「ありがとうございます。一人は録画を。残り二人は、私が手を出されたら助けに来てください」
「かしこまりー!」
三人の尻尾が大きく振れた。
イアンは社屋の正面玄関、大きなガラスの自動ドアを颯爽とくぐり、デモ隊へと向かった。結局、大きな衝突はなく交渉は終わった。
ただし記録媒体は社内の女性陣に奪われ、戻ってこなかった。
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翌日の夜。海の見える高台、帆嵐峰の深夜の路地。北の海には、気まぐれに虹色を纏う裂蝕ドームが黒く浮かぶ。イアン・ブラックは石畳を踏み、静琳堂の扉の前に立っていた。
二回ノックし、合言葉を待つ。
「穿」
「山甲」
扉が開き、60センチほどの自立型使役ロボット──コヨーテの玄甲が迎えた。丸みを帯びた弾力のあるボディと、頭部には犬のような耳が付いている。
「営業時間外にすみません、玄甲先生」
「この時間を指定したのはワシじゃ。入りなさい。お茶を用意した」
店内は薬草の香りに満ちていた。棚に並ぶ無数の引き出しと瓶が、少し暗い電球の明かりを受けて浮かんでいる。壁の一角には星晶の欠片をはめ込んだ吊るし飾りがあり、淡い光を放っていた。ニジギリの浸食を受けないこの鉱物は、お守りとしても人気がある。
イアンは椅子に腰を落とし、向かいで椅子の上に立っている玄甲の手さばきと、並んだ茶器を見ていた。
「私なんかのために恐縮です」
「お前さんのその謙譲グセ、なんとかならんか」
熱そうな鉄瓶を持ちあげながら玄甲が言う。
茶碗が差し出され――といってもコヨーテの手は短いので、イアンは丸テーブルに体を乗り出す形で受け取った。
「美味しいです。香りと熱さが体に染み渡るようだ」
玄甲は穏やかに笑いながら、旧文明の宰相の逸話を語り始めた。どれほど良策を講じても恨む者はいる──と。
イアンは茶碗を静かに置いた。
「多くの人の生活を預かっています。何か起きれば恨まれるのも仕事なのでしょう」
アンテロス鉱業が配布している虹蝕緩和剤の健康被害騒動は、劫災主教団の細工が原因だった。
裂蝕ドームの中で採掘員を働かせている。彼らとその家族の大半は大裂蝕災で被災して、軽度の浸食障害を抱えながら生きている。虹蝕緩和剤は彼らの生命線なのだ。
「生活を預かるのは命を預かるのと同義です。ですが、私はその宰相と違い、コソコソしていますので」
電子表示の瞳がにこやかになった。そして静かにイアンを見つめた。少しの間の沈黙を置いて、玄甲がぽつりと言った。
「胃の痛みはどうじゃ?」
「え、ええ……あれ?」
イアンは意識を向けた。痛くない。先ほどから、痛くなかった。
「痛くない! ありがとうございます、先生!」
玄甲は小さく頷いた。
店を出る際、玄甲は扉の前で見送りに立った。
「お前さんの話を聞いていると、痛みをうまく分け合える側近か頭脳役が必要じゃな。どうじゃ、太公望を釣るのに玄嶺宗の丹凰先生に占ってもらうのは?」
イアンは苦笑いを浮かべて、間を置かず答えた。
「遠慮します。劫災主教団の工作員を追い詰めてくれたお礼を贈ったのですが、その……あっさりと突き返されてしまったばかりでして」
「そうか。ではせめてここで見送るゆえ、少しの間でも胸を張って帰りなさい」
イアンは深く一礼して、夜道へ踏み出した。
玄甲は扉の前に立ったまま、その背中が暗がりに消えるまで見送った。
「请多保重,凡事顺心。」




