第1話 最悪の出会い
XX38年十一月。
白のスーツに袖を通した瞬間、少しだけ背筋が伸びるのをいつも感じる。
イアン・ブラックはコンドミニアムのエントランスを出て、いつものようにSPの二人に囲まれながら出社の車へと向かっていた。黒髪のハーフオールバックに、眉間に深く刻まれた二本の縦皺とハシバミ色の瞳。白スーツの背は朝の光を浴びて、一本の刃のようになる。
「おはようございます、イアンさん!」
「イアンさん、今日も凛々しいっすね!」
武藤とキャンベルが尻尾を振りながらはしゃぐ。青井は運転席近くで周囲を警戒していた。イヌ獣人の三人とも、CREST保安機構、別名『シーセック』から派遣された護衛だ。
いつもどおり武藤とキャンベルに導かれ車へ進もうとした、その瞬間、黒塗りの高級車が追突せんばかりの勢いで横づけしてきた。
武藤が大声でコールする。「左に車両!」
運転席のドアのすぐそば、横づけの高級車に一番近い青井が車内に滑り込みながら叫ぶ。
「カバー!」
エントランスより車の方が近い。キャンベルはイアンを押し倒すように伏せさせる。武藤はイアンに体をよせてから引っ張って、車の後部座席に押し込んだ。イアンの体に張り付いていたキャンベルも押しながら車に入る。武藤がドアを閉める。青井はエンジンをふかして発進準備を完了させていた。
数秒の静寂。敵性行動が見られない。
武藤が警戒しながら高級車に一歩近づいたとき、後部座席のドアが開いた。子供のような小さな影だ。
「はいはーい。訓練ご苦労さま」
丸い尻尾を揺らして車から降りて来たのは、小柄なウサギ獣人の女性だった。赤く丸い瞳。尻尾と同じ明るいオレンジ色の髪は、編み込みでまとめて、先はふんわり垂らしていた。黒いスーツに身を包み、長い耳をぴんと立てている。
赤い瞳が周囲を一巡した。
後部座席から頭を上げたイアンの心臓は跳ね上がった。
――生きていた。彼女が。
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応接室。彼女の年齢は十代前半か後半か二十代か、小柄な獣人はわかりにくい。苦労を物語るような落ちくぼんだ目は、値踏みするように見てくる。胸元には小さなバッジ。CRESTのものともう一つ、枝編みの籠のようなエンブレム。
「ヤオちゃんって呼んでいいよ。あ、呼ばなくてもいい」
先に口を開いたのは向こうだった。
「ベルスニッケル規律局、弾正官の瑤。まあ、名前なんてどうでもいいね。内部告発者、イアン・ブラック。はじめましてだよ」
イアンは立ったまま答えた。
「イアン・ブラックです。お掛けになってください」
「もう座ってるよ」
確かに座っていた。
「では私も」
向かいのソファに腰を落とした。今朝の騒動でスーツは少し汚れたが、洋服ブラシでどうにかなった。黒スーツの瑤の目線の高さに合わせて、イアンは背を曲げた。
ベルスニッケル規律局。初めてその名前を知れた。CRESTに秘匿された自主規制組織があると聞いていたが、実態は掴めていない。出てくるのは噂話だけだ。
「規律局が来るとは思っていませんでした」
「そう? 内部告発があれば来るよ。ヤオたちのお仕事だもん」
「告発内容に心当たりはありますか、と聞くべきでしょうか」
「聞かなくていい。どうせ全部調べる」
瑤は足を組んだ。すまし顔だ。
「イアン・ブラック。キミってさ、ここの最高責任者なんでしょ。なんでこんなにゴタゴタしてんの、ここ」
イアンは少し間を置いた。
「私の力不足です」
「ふぅん」
それだけ言って、瑤はバッグから書類を取り出した。イアンの前に滑らせた。
「監査期間中、キミはヤオに協力する義務がある。非協力は裁定対象。わかった?」
「承知しました」
「へえ」
瑤は値踏みするような目を細めた。
「じゃあ次、キミの経歴。大裂蝕災以前の記録が見当たらないんだよね。これはどういうこと?」
イアンは答える前に、この審問を長引かせるか少し考えた。
「大裂蝕災の混乱で、記録を失った人間は少なくありません」
「知ってる。自己申告でいいものだけど、どうして聞いてるかわかる?」
「……スカンダの件でしょうか」
「正解」
瑤は手元の方の書類を一枚めくった。
「記録のない人間が崖縁区最高責任者をやってて、共同CEOが逮捕される前夜にロープウェイを操作して裂蝕界に人を送り込む。ヤオとしては放置できないよねえ」
CEOの一人、スカンダの件は自分が通報者だったので、株価の下落は最小限に食い止められた。ついでに、取締役の椅子ももぎ取った。あのときの判断は、少なくとも自分にとっては正しかった。
しかし、通報前のロープウェイ稼働が職権乱用であることは疑いもない。正論だ。
「私の経歴について、何でもお答えします」
「今日は聞かない」
瑤は書類を閉じた。
「しばらくはキミの身辺調査をさせてもらうよ。じゃあ今日はここまで。また来るね」
立ち上がりながら、思い出したように付け加えた。
「社食と座銀飯店、どっちが美味しい?」
イアンは答えに一瞬詰まった。
瑤は悪戯っぽく耳を少し倒し、答えようとしたイアンを置き去りに、にやりと笑って応接室を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、イアンは静かに息を吐き、天井を仰ぐ。一度背もたれに深く寄り掛かったが、力を貯めるように、蛹になるように、体を丸めた。
拳を強く握り、彼女の生存という感傷に浸る。
六年前、その時の彼女の歳は十五か十六か、それとももっとか。猛勉強をして頭角を現して、立派な人生を歩んできたのだろう。
審問は引き伸ばせなかった。彼女が覚えていないのか、覚えていないフリをしていたのか、わからずじまいだ。雰囲気で根拠もなく判断するならば、彼女は覚えていない。
部屋を出ていく背中と、かつて市場の雑踏に消えた背中、揺れる尻尾が脳裏でピタリと重なる。
これは最悪の『出会い』として機能する。イアンの勘はそう告げていた
明日また弾正官様が来たら、あの値踏みするような目で見てくるだろう。規律局とやらのメンバーが来た理由の内部告発。告発の内容。きっかけ。
──戦いは、一ヶ月前から始まっていた。




