第一章 vs労働組合
XX38年十月。
オペラグラスを畳んだ。
企業連合CREST。その傘下企業であるアンテロス鉱業の社屋。中層階から見下ろすと、正面玄関前の広場がよく見えた。
崖縁区の北の島を包む裂蝕ドーム。そこの採掘現場に雇われている非正規の採掘員たちが、今日もデモのために集まっている。昨日より人数が多い。気炎の上げようからして、このまま放置すれば社屋になだれ込まれる可能性もある。
「今日は一段と集まってますね」
イアン・ブラックは独りごちた。
プラカードを眺める。大きさが揃っている。フォントは一種類しかなく、デザインも似たり寄ったりだ。それからトランジスタメガホン。採掘員がわざわざ自腹で用意するものでもない。この群衆を束ねている何者かがいる。劫災主教団の匂いがした。それがわかれば十分だった。
「オペラグラスありがとうございます」
黒髪のハーフオールバック。眉間に深く刻まれた二本の縦皺がハシバミ色の瞳を鋭く彩る。
イアンは後ろに控えていたSPの青井に返しながら、踵を返した。白いスーツの背が窓からの光を浴びてすっと伸びる。体格の良いSPたちと比べても遜色ない背丈と、そこそこの肩幅。
ジャケットの襟元を直しながら、窓際の廊下を進む。
「労災補償金と賠償金が欲しい従業員のみなさんの感情の慰撫につとめてきますか」
「お三方は待機でお願いします」
三人が同時に耳をぴんと立てた。犬の獣人である彼らは、CREST保安機構から派遣されている。
「イアンさん、本当に一人で行くんですか!?」
「アイツら、ありもしない薬害の証拠とか、とうとう言い出したらしいじゃないですか!」
「昨日も取り合わなかったんだし、もうほっときゃいいですよ!」
「ヘタすりゃ殴られちまいますよ!」
イアンは立ち止まった。
「彼らに配布している虹蝕緩和剤で人が倒れた」
声は静かだった。
「虹蝕緩和剤メーカーにご迷惑をかけないよう、事態の把握まで箝口令を敷きましたが、それゆえ強い反発を招いてしまいました」
「これは私の失策です」
彼らの要求は「イアンを出せ」。これほどわかりやすい要求もない。ここの最高責任者たる自分が出るべき場面だ。それ以外の判断は現時点で存在しなかった。
「ぶっちゃけ放置するのもそろそろまずそうですし」
「ヘタすりゃ殴られる?」
イアンの口元がわずかに動いた。
「非のない社員に暴力の矛先が向くよりよっぽどいいですよ」
それから続けた。少しずつ、声に何かが混じり始めた。
「それより『CRESTはキライ』だの『CREST関連企業は信用ならない』だの、自ら非正規雇用を選んでおいて」
こぶしが固く握られていた。青井、武藤、キャンベルの三人が、互いに目配せして半歩引いた。
「いざ、労災保険給付の受け取りフローが違うと分かれば文句をギャンギャン喚きたて――」
声が上がった。
「こちらとしてもなるべく快適に働いてもらいたいですよ! 福利厚生改善が後手だったのは認めますが、権利ばかり! 欲しがるばかり! 不安があるなら待遇改善提案してくださいよ! あと社員になれば昇給も昇進もあるんですよ!」
武藤が小声でキャンベルに言った。
「イアンさんの眉間のシワってやっぱ……怒り、だよな」
「だよな……」
イアンは一度、口を閉じた。それから三人に向き直り、深く頭を下げた。
「すみませんっ。声を荒げてしまいましたあ」
こういうときの彼は謙虚というか、とことん自分を小さく見せようとする。SP三人組は慣れたものだった。顔を見合わせ、青井が盆に載せた茶を持ってきた。
「いえいえ、イアンさん。お茶をどうぞ」
イアンは茶碗を受け取り、一息に飲んだ。熱さが喉を通り、胸の奥へ落ちていく。それで十分だった。腰の低い、遠慮がちな空気が、静かに別のものへ切り替わった。
「ありがとうございます」
今度の声は違った。
「一人はこの場で録画を頼みます。残り二人は、もし私が手を出されたら警備員と協力して助けに来てください」
「かしこまりー!」
三人の声が揃った。尻尾は大きく揺れていた。
社屋の正面玄関、大きなガラスの自動ドアを颯爽とくぐって、イアンはデモ隊へ向かった。
「警備員さん、十メートル下がってください」
武藤とキャンベルが背後で囁き合うのが聞こえた。
「イアンさん、カッケー」
「凛々しいっ!」
特に衝突はなかった。交渉は粛々と終わった。ただし録画の記録媒体は、女性が多い部署にあっさり奪い取られて帰ってこない。




