第12話 傀儡王国
XX38年十一月。
朝から雨が降っていた。白のスーツを纏ったイアンは、いつものようにイヌ獣人のSP二人、武藤とキャンベルのエスコートでコンドミニアムのエントランスを出た。
出社の車の運転席近く、SP三人組のもう一人である青井が黒い傘を差し、三角の耳を立てて周囲を睨んでいる。
そしてその前方。あの日、彼女を連れて来た黒塗りの高級車が停まっていた。
傘を差しながら、長い耳と丸い尻尾を揺らして後部座席から瑤が降りてきた。
「おはよ。ヤオね、今から本部に一時帰還なんだ」
イアンに話かける瑤の声は雨音を一時裂いた。キャンベルがイアンに差している傘の布はパタパタと後から冷たい音を立て続ける。イアンは低く尋ねた。
「いつごろお戻りになるんですか」
「二日か三日かな。多分そんなにかからない」
背の低い瑤はイアンを見上げる格好になる。イアンはひとまず半歩引きながら膝を曲げた。
メール一つで済む用件を、わざわざ顔を見に来た弾正官の背筋と耳はぴんとしていて、口角は少しあがっていた。そして視線は、迷いなくイアンを見ていた。
キャンベルが一緒に屈んでこないように掌を向けてから、イアンは瑤の前で片膝をついた。膝の布地が水を吸う感触がした。
こうすれば確かめられる。
瑤はわずかに目を丸くした。しかしすぐに凛とした表情を取り戻し、茶目っ気さえ覗かせる弾正官の顔に戻った。イアンはしばらく瑤の赤い瞳を見つめて、跪いたまま、待った。
雨音の中で、彼女が言った。
「監査を甘くしてもらおうと、ヤオに跪く企業人は珍しくないんだよ」
瑤は笑顔で言った。
「でしょうね――」
イアンは薄く笑った。
秋の桔梗のような端麗なる弾正官様。貴方のおかげで生き延びられました。しばらくお姿が見られないのは寂しい。そして――何か思い出せませんか。
喉の奥で全ての言葉が止まった。
しかし、立っている彼女の前で膝をついて見せた。彼女が抱いていたぬいぐるみが足りないが、これで確定でいい。もう十分わかった。
弾正官様は、あの日を知らない。
「お気をつけて」
「ヤオが不在の間も優秀な規律局メンバーがキミのこと見張ってるから、腑抜けたことしないよう、せいぜい気を付けることだね」
ご機嫌そうなままの瑤を載せて、黒塗りの高級車は雨の向こうに走り去った。
イアンは少しの間、立ち上がれなかった。
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リモートの画面に、取締役会の顔が並んだ。
状況報告は簡潔にした。死者、BCP開始、株主報告済み、監査役への記録依頼、招集権の確認。監査役が補足した。
社外取締役が質問した。BCP暫定期間終了後のプロセス、スカンダ案件への対応。イアンは準備していた言葉で返した。株主との協議、コンプライアンス部門への委任。社外取締役はそれ以上掘ってこなかった。記録に残る言質を得たからだ。
取締役の一人が、社外取締役の後に発言した。その順序をイアンは見ていた。場の空気を確認してから口を開く人間だ。「BCPに基づく暫定体制は適切な手続きを踏んでいる」。トライピースの意向の代読だった。
社外取締役の表情が、わずかに動いた。セレスティへの報告内容を頭の中で更新した瞬間だ。
議決の文言は「確認する」だった。社外取締役は賛否を表明しなかった。沈黙による不反対。イアンはその沈黙を、受け取った。
口角が上がるのを見られないように下を向いた。
ああ、社外取締役様。昨日の報告に抜けがあったようで申し訳ない。会議後の報告能書きは、また一転することになります。全員の反応を同時に見たいですから。
「暫定CEOとして任期の間、規律局の監査は入っておりますが、誠心誠意勤めさせていただきます」
笑みを貼り付け、顔を上げたイアンは言った。
リモート会議は実に便利だ。目を見開く人間の顔が全て正面にある。
大株主のご意向で送り込まれたポストにいる者と違って、ただ一人、しがらみのない監査役だけが「知識不足で恐縮ですが、その『規律局』について教えてください」と口を開いた。
「ベルスニッケル規律局、CREST監査部門の関連組織だそうです」
イアンは返答する。規律局は秘匿組織でありながら、存在を口止めされていない。自然に噂が広がるのを望むのなら、そうしてやろう。
議決は済んだと短く言い残して、リモート会議から消えていく取締役たち。残された監査役は残ったイアンに尋ねた。
「どういうことなんです」
「さあ。私にはわかりかねますが――この会議も規律局に監視されていると思われたかもしれません」
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黒函共同対策本部は、アンテロス鉱業CEOグラハ及び幹部五名を、故意の殺害と発表することで合意した。防衛軍はカサンドラ大佐の名を出さない条件を突きつけ、丹凰だけがそれに異を唱えた。
トマソン少将を含め、犠牲者は皆、劫災主教団の暴虐の被害者という綺麗な物語が出来上がった。
事実、そうではある。
ただし、グラハとトマソン少将の贈収賄関係は、綺麗に闇に葬られた。
カサンドラ大佐殿。――恨みで私刑などせず、証拠を揃えて告発すれば良かったものを。人を見下す目で見た貴方は今、全ての罪を背負わされ、グラハやトマソン少将が犠牲者として英雄視すらされる未来に、一言も反論できなくなった。
対策本部に交代で詰めていてくれた区政担当の一人がテレビに出たいと言い出したので、記者会見に代理として出席してもらうことにした。我が社の株価を守るヒーローの身だしなみのために、秘書室から数名、応援に来てもらった。
丹凰も弟子の范に出席を押し付けていた。彼にメイクは不要だろう。
「ぼうや、ちょっとつきあえ」
丹凰の言葉にイアンは顔をしかめた。
本部の休憩スペース。バックレスソファに腰かけていたイアンに、丹凰が声をかけながら正面に腰かける。
紙の手帳から顔をあげて、イアンが静かに返す。
「私は坊やと呼ばれるほど若くありませんが、丹凰先生からお声がけくださるとは珍しい。何でしょう?」
モルタル壁と衝立と、ブラインドのかかった窓。壁の時計は早く昼食を取れと急かしてくるが、株主と社員向けの意思表明に、追悼の部分が決まったばかりだ。早く書き上げてしまいたかった。
丹凰は伝統的な羽織にパンツスタイルで、足を組み直しながら低く言った。
「弟子たちと、劫災主教団の次の手をプロファイリングしている」
「……是非ご拝聴したいところですが、その情報はシーセックや裂蝕観測局とも共有していただきたく思います」
「ぼうやの考えを聞いておきたくてな」
「私の相談料は10分、一万デールです」
たっぷりマスカラを塗ったまつ毛をわずかに下げて、丹凰が睨むように目を細めた。イアンはすまし顔で受け流した。
シリアルバーを片手に、シーセックの警部のウシ獣人男性が加わってきた。ここで何度か見た顔だった。
「防衛軍の方がいないので丁度いいですね」
彼と丹凰の情報は合わさった。以前に起きた、虹蝕緩和剤の配布ルート汚染。捕らえた教団員によると、医者のフリをして偽薬を撒く計画だったという。
隠れ蓑のロビー企業が割れたので今日中に摘発するとのことだが、丹凰はこのシーセックの作戦に混ざりたいらしい。
「三分だけ時間をください」とイアンは言った。
状況を整理しなければ、判断できない。
共同対策本部は記者会見発表をもって解散。黒函の捜索回収作戦終了に伴い、防衛軍は撤退。
防衛軍の本来のスポンサーであるノヴァソフィア行政府市民は、誰の金でCREST自治区で活動しているのかと、批判をそろそろ始めるだろう。
こちらはこちらで、シーセック不要論が煽られる前に、さっさと防衛軍には出て行ってもらいたい。
利害は一致している。
そして、防衛軍撤退直後にシーセックがしくじるようなことは、あっては困る。
しくじろうが成功しようが、実行される計画がどこかにあるとしたら――
「なったんだろ? CEOに」
「はい?」
不意にかけてきた丹凰の言葉に、イアンの返答は素っ頓狂な声になった。




