第二話「アルシャーンという少年・2」
その馬の事は僕でも知っていた。英雄の馬ケルヴァディオン。普通の馬と違ってその背に乗る事が出来るのは歴史に名を刻む事が出来ると言われる程えり好みが激しいという。だからその背に乗る事が出来れば誰でも英雄に慣れる素質があるという。
そんな馬が今僕を見下ろしている。先程まで感じていた圧は感じない。ただただこちらを澄んだ瞳で見てくるだけだ。
「っ! ぅ、ぁ……」
何かをしないといけないのだろうけど体が動かない。声も出ない。隣で倒れている死体のせいもあるのかもしれないけど先ほどまでの圧力を知っているから恐怖で体がすくんでいるのだろう。それに体力的な限界も近いのかもしれない。半日もの間飲まず食わずで走ってきたのだから。
「……」
ケルヴァディオンはそんな僕を静かに見ている。この馬は一体何をしたいというのだろうか? これだけ丈夫な体をしているし普通の馬と違って肉も食べるのかな? だとすれば僕も食い殺されるという事なのか。英雄だけが乗れる馬の餌となるのは死因としてはどうなんだろう。どうせ死ぬのならこういう風に後の英雄の為の栄養になった方が良いのかな、なんて考えていた時だった。ケルヴァディオンは俺に背中を向けるとそのままその場に座ったのだ。まるで“乗れ”と言わんばかりに。
「……え?」
意味が分からない。ケルヴァディオンは英雄しか背に乗せないというのに。これではまるで僕がその英雄みたいじゃないか。ケルヴァディオンは相も変わらずにこちらをジッと見てくる。そこにこちらを害してやろうという感情は感じられない。本当に俺が背に乗るのをただただ待っているようだ。
「……ぁ」
そこまでして、ようやく僕の緊張の糸は途切れたみたいだ。助かる事が出来たという安堵でまた腰が抜けそうになるけど今はそんな場合ではない。このままここに居たらまた追ってがやってくるかもしれないのだ。
「ごめん、もう少しだけ待っていて」
ケルヴァディオンにこちらの言葉が伝わるのかは分からない。だけど一言だけ声をかけて僕は隣で死んでいる兵士の体をまさぐった。この時代の兵士ならば貴重品は持ち歩いていると思ったからだったけどその通りで閃珂地方という遥か東で作られた貨幣が入った布袋が見つかった。これがどれだけの価値があるのかは分からないけど街に入る事が出来ればこれで買い物もできるだろう。
それと短剣を拝借する。持っていた槍は長すぎて僕では扱えない。腰に差していた短剣出十分だ。それと食料が入った袋。切り詰めれば5日は持ちそうな量だった。
「お待たせ、で良いのかな?」
そこまで死体をあさってようやくケルヴァディオンに向き直る。そこには相も変らず座ってこちらを待っているように見えるケルヴァディオンがいた。僕はゆっくりと近づいて背中をさすってみる。
ごつごつとした見た目からは想像もできない程柔らかい皮膚の感触。表面に短く生えた体毛がごわごわとしている。ケルヴァディオンが乗せる人を選ぶだけで誰でも触らせる馬なら分からないけど少なくとも触らせてはくれたようだ。
僕は意を決してケルヴァディオンの背中に手を置き跨る。きっと僕の思い違いながらここで僕は蹴り殺されるだろう。しかし、ケルヴァディオンは俺を背中に跨る事を許してくれ、体重を乗せる事も出来た。思い違いでもなんでもなく、ケルヴァディオンは僕の事を認めてくれていたようだ。
僕が乗ったのを理解したケルヴァディオンはすくっと立ち上がると俺が逃げてきた方向とは反対側に歩き始めた。鞍と言った補助する物を装着していないのにその背中は驚くほど揺れず、乗り心地も最高だった。流石に英雄の馬と呼ばれるだけあって凄いらしい。
「でも、逃げるにはまだ遅いから少し早くしても、うわぁっ!?」
とはいえこのままでは俺の村を襲ってきた騎兵たちに追いつかれてしまうだろう。だからケルヴァディオンにお願いするように話してみたのだがこちらの言葉を理解しているようでケルヴァディオンは急に走り始めた。その速度は驚くほどに速い。オープンカーで疾走しているかのようだ。馬でもここまで早く且つ安定して走る事は出来ないだろう。
景色は次々と変わっていく。辛うじて道だった道からも離れ平原や荒野を疾走するケルヴァディオンはとても速かった。
一体どれだけ走ったのだろうか、ケルヴァディオンはとても広大な湖にやってくるとその湖に沿って走り、暫くして減速して完全に止まった。周囲を見れば比較的に過ごしやすそうな場所となっていた。鬱蒼とまではいかないまでも適度に生えた木々に落ち着く事が出来そうな岩場、底が見える程の浅瀬、恐らくだけどケルヴァディオンの住処なんだろう。
ケルヴァディオンは再び座った。それを見て俺は背中から降りれば立ち上がって浅瀬で水を飲み始めた。……半日近く水すらも飲んでいない為にケルヴァディオンの豪快な飲みっぷりに僕も我慢なんて出来るわけもなく一緒に水を飲む。半日ぶりの水はとてもおいしく感じる。割れそうな程に乾いた唇に潤いが戻り、カサカサしていた喉は水分を得たことで踊り狂いそうな程に喜んでいるのが分かる。
人体の8割が水分で構成されているという。そんな大切な水分を補給したことで僕は漸く生き返る事が出来たように思える。そのタイミングで腹もなり、空腹であると訴えてくる。早速だけど死んだ兵士から奪った食料を食べる。保存食のようであまりおいしくはないけどこの状況だとごちそうだ。食べ過ぎないように注意しないといけないな。
ふと、その時ケルヴァディオンにも挙げた方が良いのだろうかという思いがよぎった。英雄に相応しいとは思えないが僕をここまで運んでくれた事に変わりはない。村からも大分離れたし追手が来ることはないだろう。来たとしてもそれは大分先の事になる。そのころにはもっと離れていると思うから危機は完全に去ったと言っていいだろう。
だからケルヴァディオンにお礼をしたほうがいいのかと思ったんだが問題はケルヴァディオンが何を食べるのか知らない事だ。ケルヴァディオンは一応馬に分類されるだろうから馬と変わらないのかもしれないがこの体躯ならば肉を食べていても不思議ではない。保存食の中には干し肉も一枚だが入っていたので食べさせて見てもいいのだろうか?
僕は回復してきた脳内でケルヴァディオンの方を見ながらそんなことを考えるのだった。




