新年の約束 ①
古賀さんの演奏会の翌日も、仕事は変わらずある。
私はいつもと変わらない時間に起き出し、自室を出た。
しんと冷えた廊下を行くと、いつもならその先に温かい灯りが漏れている。
けれど、今朝は暗いままだった。
私は、リビングのドアを開けた。
リスさんはまだ起きてきていない。タイマーで点火されたストーブだけが薄闇の空気を温かくしていた。
私は、ストーブの設定温度を少し落とすと、厚いカーテンを開けた。
硝子の向こうは、まだ真夜中のようだった。
リスさんが降りてくる前に、躰を温めるための飲み物を支度してしまおうと、キッチンに立った。
私が、ぱたぱたとあちこちを開け閉めする音が二階へ響いたのだろう。
リスさんが階段を降りてきた。
リビングのドアが開いた。
「……来春さん……おはようございます」
「おはようございます、リスさん」
リスさんは、髪もパジャマも暖かそうにしていたが、夕べの今朝で、どこかいたたまれないような風情だった。
私は、努めて明るく言った。
「リスさん、温かいシャワーをするといいですよ。顔も一緒に洗えちゃいますから!」
リスさんは恥ずかしそうに顔を上げると、浴室へ向かった。
すっかり身支度を調えたリスさんが、再びリビングにやって来た。
まだ髪を結んでいない。ドライヤーも半分ほどしか掛けていないようで、いつもはふわふわな巻き毛が、背中に湿って落ち着いていた。
「どうぞ」
「……」
リスさんと私は、食卓に並んで座った。
「いただきます」
リスさんは、柚の香りの、湯気の沈んだ飲み物をこくりと飲んだ。
私たちはつかの間、黙々と飲み物を啜った。
ずっと低い音を立て続けていたストーブが、カチリと音をたて自然に消えた頃、とうとうリスさんがぽつりと言った。
「…………いつかいなくなるのが…………怖いんです」
私は、カップをテーブルの上に置いた。
同時に、リスさんが言った。
囁くほどの小さな声で。
「……古賀さんが……」
リスさんがこの言葉を言うのに、どれほどの時間を必要としたのだろうかと思った。
私は、手を伸ばし、隣に座るリスさんを横から抱きしめた。
「…………そうですね。ほんとに、そうですね……」
突然の出来事で、両親に先立たれたリスさんの気持ちは、同じようにして祖母に育てられた私には、痛いほどよく分かる。
「…………でも、リスさん、リスさんには、みっちゃんたちがいて、私にはおばあちゃんがいたから、その幸せも分かってる……」
リスさんは、俯いたまま、ただ静かに頷いた。
「……古賀さんは、たぶん、ずっとこのまま待ってると思います。リスさんが、すぐに変わらなくても、ゆっくり変わっていくのを、ずっと待ってますよ」
リスさんは、私の肩に預けた頭を傾け、半信半疑な様子で頷いたのだった。
人の歩む速度は一定ではない。
急に急ぎ出したり、歩調を緩めたり。自分自身の中でも予測できずに、小さな日々は大きな流れに鏤められる。
そんな人と人が、たまたまどこかで一緒に立ち止まることがあるのだとしたら…………。
リスさんの体温が、私の腕の内側で、緩やかに増幅していく。
リスさんの肩を撫でつつ私は、リスさんと古賀さんが、そうやって互いの速度を確かめながら、互いの理解を望みながら僅かずつ、距離を縮めた道が続けばいいのにと願った。
私たちは、何も変わらないようでいて、昨日とは違う自分を抱え、家を出た。
工場へ入ってしまえば、することは流れに乗って山のようにあった。
今日からクリスマスのパンもショーケースに並べるし、リスさんが注文していた、午後からはベッカライウグイスのエコバッグも届く予定だった。いつもの仕事に加え、駆け足で初売りの準備も整えていかなければいけない。
リスさんは、発酵機と冷蔵庫を空けるなり、驚いて声を上げた。
「来春さん、これ全部、昨日……」
私は、おどけて胸を張った。
「ふふーん。やりきりましたよ」
リスさんが、笑った。
「すごいですね!もう独立できますよ?」
「え……」
私は困り、リスさんはまた笑った。
リスさんの笑顔を見るのは、なんだか随分久しぶりな気がした。
やはりリスさんには、工場とお店の空気がよく似合う。リスさんは、ベッカライウグイスに息吹を吹き込むと同時に、明るい彩りの粒子を、この場所で呼吸している。
昨日とは打って変わって、冬の快晴に外は目映いほどの光りが溢れた。積もった雪の表面が、乱反射しているのだ。
クリスマスを目前に、ベッカライウグイスはますます活気づいてきた。
お客さんたちは、もみの木パンと、もう三十年以上続いているサンタクロースパンを喜んでくださり、ストーブの前では短いひと時をコーヒーで愉しんでくださった。
私の名字を知っている常連さんたちからは、「来春さんの季節だね」と声を掛けられた。子どもの頃はからかわれるのが嫌だったが、今は温かい気持ちになる。時間は、不思議だ。
カランコロン
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ!」
だいちゃんたち家族がやって来た。しかも、珍しく平日に、お父さんも一緒である。
「だいちゃん!久しぶりね。大きくなったんじゃない?」
だいちゃんは、もう指をくわえてはいなかった。
お兄さんと色違いの帽子を被り、真冬のジャンパーの釦を首まできちんと留めている。背中に紐を渡したミトンの手袋は、履かずに手首から提げている。
子どもの成長って著しいんだな、とリスさんと私は同じ気持ちに胸を打たれた。
ところが、だいちゃんのお母さんがどこか元気がない。
小さな溜息を吐いてから、私たちへ話し出した。
「リスさん、来春さん、うち、もう転勤が決まってしまって……」
予期せぬことに、リスさんも私も一瞬言葉を失った。
「髙橋さん、この街にいらしたの、今年じゃありませんか?!」
「十二月ですよ?!」
驚く私たちに、髙橋さんは心底疲れ切った様子で言った。
「そうなんです。もう、信じられなくて。毎日わたわたで……」
そんなお母さんとは反対に、お父さんとお兄さんはウキウキと楽しそうにショーケースの中を覗いている。
「それは……たいへんです」
引っ越しの荷造りに加え、引っ越し先ではだいちゃんたちの転入の準備や生活の手配など、既に始まっている怒濤の日々がしばらく続くに違いない。リスさんと私は、心から同情した。
「お引っ越しは、いつなんですか?」
だいちゃんは、お母さんの足下に体重を預け、くっついている。かと思うと、お母さんの足を踏んで、その上にすっくと立った。髙橋さんは、平気の平左で答えた。
「年明け早々なんです」
私たちは、楽しそうなだいちゃんを見ながら、言葉もなく頷くしかなかった。
お母さんは、そんなだいちゃんの頭を撫でながら言った。
「もともと、この街であった短期プロジェクトの仕事で派遣されてきたので、引っ越しは最初から織り込み済みだったんですけど、いざそのときが来ると本当にたいへんで……子どもたちが…………。だから、……うん、決めました!」
急に、髙橋さんはしがらみをかなぐり捨てたかに、すっきりした表情になった。
「私たち、ここに残ります!」
ショーケースの前にいただいちゃんのお兄さんが、お母さんの宣言を聞いて、隣のお父さんを肘で突いた。
「パパ、一人で引っ越すの?」
お父さんは、「何言ってるの?」という表情で息子を見てから、お母さんを見た。
「あなた、私たち、三月になってから引っ越すわ」
「ええーっ!何言ってるの?!」
お父さんは、突然顔を上げてこちらを向き直った。シャツの胸に、明らかな赤茶色の染みがついているのが目についた。
リスさんと私が、その染みに釘付けになっていると、髙橋さんが手のひらを口元に寄せ、私たちに向かって小さな声で言った。
「あの人、撥水加工が必要な人なの。指摘すると、『白い絵の具を塗れば分かんないよ』って笑うのよ」
リスさんと私は、相槌を打った。
「なるほど。……息子さんは、たいへんですね」
「だいちゃんは、こんなに可愛いのに……」
ショーケースの前では、先ほどの髙橋さんの発言などきっぱりと忘れ、お父さんとだいちゃんのお兄さんが仲良くじゃれ合いながら、パンを選び始めたので、私は飛んでいって応対した。
カランコロン
「こんにちはー」
弘子さんとさくらさんである。
二人とも、目を細めたりしばしばとさせていた。
ショーケース奥のスツールに座って休憩していたリスさんと私は、立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「今日は、眩しいわー」
お天気の話題かと思えば、さくらさんと弘子さんはすぐに聞いてきた。
「りすちゃん、昨日、どうだった?」
「古賀さんの、コンサート」
「え……」
リスさんは、ショーケースの奥でみるみる顔を赤くすると、いたたまれずに工場へ引っ込んでしまった。工場は、リスさんの安全地帯である。
弘子さんとさくらさんは、笑顔で顔を見合わせた。
「ふふふ」
「あはは。楽しかったみたいね!」
楽しかったのかどうなのかは分からないが、私への反応とはまた違ったリスさんの様子に、昨日とは違う、何か別の予兆があるようで、午後からのベッカライウグイスはほのぼのと賑わいだした。
カランコロン
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ。あら」
たいちゃんとみっちゃんという、珍しい組み合わせである。
「そこで、会ったの」
たいちゃんが言い、みっちゃんは
「そう」
と言うなり入り口でコートを脱いだ。たいちゃんはのコートの下は、清楚な私服で、もう冬休みなのだと思った。制服の濃い色とは違う、ミルク色のブラウスとカーディガンが、たいちゃんによく似合っていた。
今日のカウンターは大盛況である。
私は、みっちゃんたちのカップにコーヒーを注ぎ、たいちゃんにカフェオレを運んだ。
「たいちゃん、弟さんのお誕生日には、何を作ったの?」
私が尋ねると、弘子さんたちもにこやかにたいちゃんを見る。
「今年は、特製お子様ランチとフルーツケーキです」
さくらさんが、乗り出した。
「たいちゃん、お菓子作り上手だって、リスさんも来春さんも言ってたわよ」
たいちゃんが、照れて笑った。
「フルーツケーキのクリームは、カスタードと生クリームを混ぜたものにしてみたんです。リスさんが作ってるみたいな!」
ふんふん、と頷く面々が、温かくたいちゃんを囲む。
カランコロン
ゆっくりと重たい扉が押し開けられた。
「こんにちは」
カウンターのみんなが、一斉に振り返った。
声だけで、それが誰であるのか、その場にいた人は全員分かっていた。
その人は、それほど、もうベッカライウグイスには欠かせない存在だったのである。
古賀さん!
「いらっしゃいませ!」
今日の古賀さんは、もう紙袋を手にしてはいなかった。
リスさんから貰った、ウグイス色のエコバッグに、嵩張る楽譜を詰め込んで、それを肩に掛けていた。
やって来るなり全員の視線を浴びたので、古賀さんは戸惑った様子を見せた。
「こんにちは」
古賀さんが、カウンターの方へ挨拶をすると、みんなはにこやかに迎えた。
「こんにちは!」
けれど古賀さんは、どことなく沈んだ様子だった。
いつもならば、まずいの一番に工場のリスさんを目の端に留め、確認するのに、今日は、そんな様子もない。まるで、リスさんを避けているかのようである。
なぜだろう。
私は、古賀さんに尋ねた。
「古賀さん、今日、お仕事は?」
古賀さんは、無理に笑顔を作った。元気もない。
「一区切りついたので、ちょっと休憩なんですけど、夕方からまた行きます」
古賀さんは、ショーケースの端から端まで見回って、注文を済ませると、いつもの席へ向かった。
カウンター席は、ぽっかりと右端だけが空けられて、主を待っていた。
みっちゃんは、変わらずのんびりと、カウンターの左端から小さな雪の庭を見ていた。
弘子さんとさくらさんは、ウグイスあんパンを食べながらコーヒーを愉しんでいる。
そして、たいちゃんは、古賀さんから目を離さなかった。
古賀さんは、肩に掛けたバッグをカウンターの上に下ろすと、右側の壁に立てかけた。
そして、息を吐くのと一緒に腰を下ろしたのを見るやいなや、たいちゃんは、右側に肘をついて重心を掛け、古賀さんへ向かってぐんと乗り出した。
「古賀さん、何かしたの?」
小声で尋ねた。
古賀さんは、バッグから楽譜を取り出そうとしていた手を止め、たいちゃんを見た。
そして、どうにも不安げな様子で、告げた。
「…………特には、何も……悪いことはしてないと思うんですけど……」
そう言いつつ、何か思い当たることがあるような口ぶりである。
「じゃ、何もしてないから、ダメになっちゃったの?」
たいちゃんは、相変わらず核心に切り込む。
古賀さんは、うろたえる。
そんな二人を、みっちゃんたちは横目で見ていた。
「…………ダメになっちゃった、か…………」
とうとう古賀さんは、右手で額を抱えるとがくっと下を向いた。
「…………分かってます。せっかくたいちゃんには色々アドバイスしてもらったのに、すみません。そうですね、やっぱり、リスさんには悪いことしました。無理に誘ったりして……」
古賀さんから左手の総勢四名の視線が、並んで注がれた。
古賀さんの注文を手に、カウンターへ向かっていた私も入れると、五人である。
全員が、古賀さんの言う意味を理解できずにいた。
私は、たいちゃんと古賀さんの間から腕を伸ばし、そっとサンタクロースパンののったお皿と、熱いコーヒーの入ったカップを置いた。
「古賀さん、どうぞ」
けれど古賀さんは、何かに苛まれるかに顔を伏せてしまった。
その腕の隙間から、くぐもった声が漏れた。
「来春さん…………リスさん、多分、僕がいるとお店に出にくいんじゃないでしょうか。しばらく、また演奏会で忙しくなるので、次……、次にもし僕が来たら、また以前みたいに……」
「え、古賀さん、どうしてそんな………待ってください」
私には、なぜ古賀さんがそんな風に考えるのか理由が分からなかった。
工場のガラス戸が開く音がした。
今度は、一斉にみんながそちらを見た。
リスさんは、全員の視線を浴びて、目をしばたかせた。
が、にっこりとカウンターへ笑顔を向けた。
「こんにちは。今日、お天気いいですね!」
それから、右端に蹲る、古賀さんの背中に気づき、ぎょっとした様子を見せた。
リスさんは、口元に指をあてて、緩やかに視線を彷徨わせた。何か考えているようだった。そして、古賀さんはそのままに、休憩しようとコーヒーサーバーを持ち上げ、自分のカップに注ぎ入れた。
そこで、あっ、と気がついたように顔を上げ、古賀さんの背中に向けて声を掛けた。
「古賀さん?演奏会のチケット、ありがとうございました」
言いながら、「古賀さん、どうかしたの?」と問いたげな目を私たちに向けた。
古賀さんはといえば、ようやく首は持ち上げたものの、リスさんを振り返りもせずに、俯いたまま応えた。
「……いえ」
いつもならば、リスさんから話しかけられたら有頂天……とまではいかないが、満面の笑顔になるところである。
おかしい。
その場にいた、誰もが思っていた。
リスさんは、休憩しようと、奥のスツールに腰掛けながら言った。
「…………私、あまり音楽を聴いたことがなくて、分からなかったんですけど、とっても素晴らしいんですね」
「え?」
古賀さんが、ある種の疑念と哀しみを貼り付けた顔をリスさんの方へ向けた。
押し出された声が、掠れて口から漏れた。
「……リスさん、来なかったんじゃ…………」
「え」
「え?」
「えっ?」
カウンター席の面々がどよめく。
リスさんが、ショーケース奥のスツールに座ったまま、ひょこっと顔を覗かせて言った。
「あの、私、途中からになってしまったんですけれど、聴きに行きました……よ?」
古賀さんが、困惑した顔を見せた。うわずった声しか出ない。
「ええっ?!」
リスさんがいいわけ混じりに説明した。
「あの、……すみません、初めは行く気持ちになれなくて、友達にチケットを譲ってしまって……でも、行ってみたら、当日券がぎりぎり残ってて……一番後ろだったんですけど」
「えーっ?!」
古賀さんが目を剥いてのけぞり、あわや椅子ごと倒れそうになった。
リスさんが驚いてコーヒーを置くと、レジ横のカウンターを跳ね上げ、急いで出てきた。
「大丈夫ですか?!」
古賀さんは、かろうじてカウンターに両手を付いた姿勢で、躰を支えていた。
リスさんは、壁に斜めにぶつかった椅子を直した。
前傾姿勢の古賀さんの唇が、必死に訴えた。
「僕、僕……違う人が座ってるのを見ました!袖から、リスさん、来てくれるかなと思って、見たんです!そしたら!」
「ああ、友達の、か」
「ぼ、僕、絶望して、でも、でもしっかり弾かなければと思って!」
「ええ、とっても、素敵でした、どのきょ」
「ほ、ほんとですか?!」
「はい。どの曲も」
古賀さんの顔から急に血の気が引き、みっちゃんがとうとう救助にやってきた。
「あははっ!」
「ふふふっ!」
さくらさんとたいちゃんと弘子さんの陽気な笑い声が響き、みっちゃんとリスさんに支えられた古賀さんは、やっとのことで肩で息を吐き、椅子に座らせられた。
その夕方、たいちゃんは、帰り際に私へ向かって
「やっと、ですね」
と言い、私も
「ほんとうに。でも、まだ当日券ですから」
と返した。
「ふふふ、でも、そろそろですよ」
とたいちゃんが、訳知り顔で言うので、
「きっとそろそろ、ですね」
私も、同意して頷いた。
いやいや、やれやれ、とみっちゃんたちも、古賀さんを残してベッカライウグイスを引き上げた。
リスさんは、お客さんが誰もいなくなったので、古賀さんの隣にちょこんと腰掛け、音楽のことやピアノのことを尋ね始めた。
古賀さんは、優しい目でリスさんを見つめながら、聞かれたことに丁寧に答える。
夕刻へ向かうベッカライウグイスの窓は端から曇り始め、ふと聴こえるはずのない音楽が暖かな空気と共に、耳を撫でた気がした。
私は、二人をカウンターへ残し、工場へ向かった。




