リスさんと演奏会 ②
ベッカライウグイスⅡ、残すところ、こちらを含めあと三話(予定)となりました。
本当に、長くなったな、と思います。
なによりも、読んでくださる方々
(♡を送りたいです!失礼でしたら、すみません)
には、感謝の気持ちでいっぱいです。
読者の方々が、伴走してくださり、ここまで来ることが出来ました!
一緒に走る風景を、楽しんでいただけたなら、とっても嬉しいです。
読んでくださり、ありがとうございます!!
リスさんは、焦る様子ひとつなかった。
時計すら、見ていないのかも知れない。
その素振りはどこか異様で、いつもとはまるで違う、凪いだ冷たい瞳で私を一瞥した。
私は、あまりにも感情を欠いた表情を目の当たりにして、萎縮した。
まるで、自分から自分を排除してしまった、それは、抜け殻に似ていた。
「来春さん、やっぱり降ってきましたね」
柔らかな声は確かにリスさんのままなのに、けれどその横顔は冷徹だった。
リスさんは、どうしてしまったというのか。
私は、誘導されるように、窓へ目を向けた。
既に固くなった昨夜の雪の上を、新しい雪があっという間に覆っていった。
見上げたならば、空は、たっぷりの氷の欠片を含み、重たげに濁っていただろう。
雪が降り積もるように、私の頭の中に、たいちゃんの言葉が幾重にも重なって体積を増した。
――リスさんを、甘く見てはいけない。
リスさんは、レジ横のカウンターを跳ね上げ、ショーケースの奥へと向かった。
工場へ、行ってしまう。
私は、声を上げてリスさんを呼び止めた。
「リスさん、古賀さんが待ってます!」
全員が、私を通してリスさんの背を見た。
さしものリスさんも、立ち止まらずを得なかった。
リスさんの背中で、尻尾のような巻き毛が静止する。
ゆっくりと私を振り返ると、リスさんは困ったように言った。
「……来春さん、私……お年賀のクッキーを作らないと」
リスさんの、自然に振る舞おうとする意志に矛盾する、あまりにもとってつけたような素振りに理解が追いつかなかった。
私が何も言えずにいると、弘子さんが後ろから問いただした。
「古賀さんが、そう言ったの?待ってるって」
弘子さんの言い方は私に確かめているようでいて、半ばリスさんを咎めて聞こえた。
リスさんはいつもと変わらない含みで答えた。
「いえ、そうは……」
私は、リスさんに向かって、真っ直ぐに言った。
「古賀さん、きっと待ってます」
みっちゃんが聞いた。
「リスさん、古賀くんの演奏会のこと?」
リスさんは、言いにくそうに視線を床へ落とし、声を絞り出した。
「ええ…………でも、行けそうにないから、隣町の私の友達に声を掛けたんです。チケットは受付で預かってくれてるっていうし、この前、そうしてもらってきたんです」
あの時、と思った。リスさんが、シーリングの袋を買ってきたと言い、私が気づかぬうちに出掛けた時に。
「リスさん、それは行かないとダメだ」
みっちゃんが、きっぱりと立ち上がった。
「え……」
リスさんが、一瞬にして絶望的な表情を見せた。
「その友達が誘われたわけじゃないでしょ。リスさんに来て欲しいわけでしょ」
リスさんが眉を寄せてたじろいだ。
「人が、頑張って、努力して伝えたことを、無碍にするような子に育てた覚えはないよ」
みっちゃんは、静かに言い、リスさんは、悄然と立ち尽くした。
弘子さんが、優しく諭した。
「そうね。リスちゃん、今からだったらまだ間に合うでしょうから、早く用意してらっしゃい」
さくらさんは、床に吸い付いたように動かないリスさんに、じれたように言った。
「もう、そのままでいいわ、大丈夫。コートは?」
「早く、コート着て」
みっちゃんは、そう言うとお店を出て行った。
私は急いで、工場のロッカーから、リスさんのコートを持ってきた。
弘子さんが受け取ると、リスさんに着せかける。
みっちゃんが、車を回してきた。
カランコロン
お店の扉から、みっちゃんが覗いて言った。
「リスさん、送るから」
リスさんは、頑なに動かなかった。
リスさんは、私に助けを求めるような目を向けた。
だが、私にはリスさんを助けられない。できるのは、明るく送り出してあげることだけだった。
「リスさん、いってらっしゃい!」
私は、肘を掴んで、その背を押した。
リスさんは、みっちゃんに連れて行かれるようにしてベッカライウグイスを出ていった。
あっという間の出来事だった。
それから、弘子さんとさくらさんは、黙って溜息を吐くと、二人並んで温かいコーヒーを一杯だけ飲み、帰っていった。
みっちゃんは、真っ直ぐ家へ戻るだろう。
私は一人、ぽつんとベッカライウグイスに残された。
薄暗い外は、鈍い光りを閉じ込めて、明るい雪が降り増した。
私は、カウンターの上の明かりを点けると、自分のために入れたコーヒーを啜った。
まるで重さのない雪が、ふわりふわりと地面を埋めていくのを、どこかに欠落した大事な時間が見える気がして、黙ってそれを見ながら。
雪はやがて、息苦しいほど密度を増し、暗がりを白い礫で埋めていった。
私は、ストーブの具合を確かめると、看板を下ろすために外へ出た。
顔に雪が吹き付けられる。
抱えた踏み台を立たせると、柔らかな雪が窪んだ。
その下には、固い圧雪が隠れている。
濃紺の中に、雪が掛かって、古い板金の文字が消えそうに見えた。
看板は、ひどく凍てついていた。
リスさんがお店を閉めるときは、毎日こんな気持ちなのだ。
夜が忍んでくる中で、ひとりぼっちでお店を閉めるのは、この上なく寂しい。
私は、踏み台から落ちないよう、注意深く、ガタガタと看板を取り外した。それが済むと、慌ただしく踏み台を畳み、重たい扉を体で押して、お店の中へ引き上げた。
私は、自分にできることをするしかない。
気持ちを奮い立たせながら、お店のシェードを下ろして歩いた。
ストーブの火を止め、カウンター上の明かりを消した。
ベッカライウグイスは、ダウンライトだけが薄く色づいた景色に変わった。
とりあえず、お店はこれでいい。
工場へ入ると、この一年余りをかけて、リスさんから教わってきた配合や注意を書き付けてあるメモ帳を、ロッカーから取り出した。
リスさんが、明日の仕込みのために動かしていたミキサーはもう止まり、大きなボウルの中では、発酵がゆっくり始まっていた。
私は、調理台を消毒し、滑らかに攪拌された生地を出した。
これは、低温発酵用の、食パンの生地だ。
私はいつもリスさんがするように、それを分割してまとめると、発酵機へ入れた。
発酵機には、もうハードロール用の生地が入っていた。
私は、冷蔵庫からイーストを出すと、ミキサーのボウルを洗った。バターや小麦粉を計測し、もう一種類の生地のミキシングを始めた。これを冷蔵庫へ入れてしまえば、明日は大丈夫だろう。その間に、もみの木パンに必要な、抹茶のクランブルを、書き留めて置いたメモの通りに作っていった。
機械が働いてくれている間に、お店へ出ると、私は工場からの薄明かりの中、ショーケースを綺麗に掃除した。
すべてが終わると、私は、立ったままあちこちを見回して、確認した。
お店のダウンライトを落とす。
いつも置かれている場所から工場の鍵を持ち出すと、私は、外へ出て戸締まりをし、リスさんの家へ向かった。
先ほどよりは、雪の密度が薄い。
みっちゃんの家の駐車場には、うっすらと雪がのった車が止っていた。みっちゃんが、帰ってきているのだ。
その夜、私は、みっちゃんの家へ夕食の差し入れには行かなかった。
みっちゃんに会うと、きっとリスさんの様子を聞いてしまうだろう。私は、それが知りたくなかった。
あの時の、あまりにもいつもとかけ離れたリスさんの様子を、もう一度話に聞くのは嫌だった。
私は、いつもリスさんがしているように、翌日のスープを作り、二人分の簡単な食事を作った。そして一人で食事を済ませると、自室で、静かに本を読んだ。
もう、今夜は、リスさんに挨拶をすることなく眠ろうと思い、浴室を使った後は温かい部屋着に着替えた。
ソファに身を沈めていると、静寂の中で、玄関の鍵の開く音がした。
そっと、ドアが閉められ、リスさんがコートを脱いでハンガーに掛ける気配が、冷たい廊下から伝わってきた。
リビングのドアが、静かに開いて閉められた。
そっとしておいた方がいいと思うその一方で、リスさんと一緒にいたい気持ちが勝ってしまった。
特に、話をしたいとか、何かを聞きたいとかそんな理由ではなく、ただ近くに座っていたい、そんな気持ちで一杯になったのだ。
それは、一年以上、リスさんと一緒にいた私の、大切にしてきた気持ちだった。
リビングへ向かうと、ドアのガラスからは、明かりが漏れていた。
私は、静かにドアを押した。
リスさんが、背を向けて、ソファに座っている。
「……おかえりなさい、リスさん」
リスさんの後ろ姿に声を掛けると、リスさんは、疲れきった、陰りのある表情を私に向けた。
「……ただいま、来春さん」
リスさんは、食事をしていないだろう。
私は、いつもリスさんがそうしてくれるように、とりあえずスープを温め直し、お湯を沸かすと湯気の出る少し甘い飲み物を作って、食卓に運んだ。
「リスさん」
私に呼ばれると、リスさんは素直にやって来た。
黙ってテーブルの前の椅子に腰掛け、湯気に目を潤ませた。
ストーブの燃焼音が、床に沈む。
時計の音がこんなにも大きいとは、知らなかった。
その沈黙を破ったのは、リスさんだった。
「私、何も持たないで出掛けてしまって、みっちゃんが、タクシー代を持たせてくれて、それで帰ってきたの。…………子どもみたい」
リスさんは、両肘を自分で抱え込み、ぽとりとその手に涙を落とした。
「私、……古賀さんが何を考えているのか、今までよく分からなかった。
……古賀さんは優しいお客さんで、いつも仕事の都合がつけばここへきてくれて、……古賀さんは、いつも…………。
でも、今日、ピアノを聴いて、もしかしたら…………古賀さんは……」
リスさんは、肩を震わせた。
私は、リスさんが泣き止むのを待って、何度もその背をさすった。
「でもね、……来春さん」
リスさんは、まるで、見つめている空間に、否むことの出来ない、こわばるほどに固まった悲しい塊が潜んでいるような、辛い表情を貼り付けて、私を見た。
私を見ると、それはすぐに歪み、崩壊する代わりに、取り返しの付かない時間が刻まれた別の悲しみが浮かんだ。
リスさんは、突き上げる嗚咽を堪えきれず、身を震わせて泣いた。
「…………私は、古賀さんとは……違う。違う生き方をしたいと思う」
リスさんは、古賀さんとは交錯しない生き方を、悲しんで、それを飲み込んでいるみたいに見えた。とても、無理に……。
私は、ただ、リスさんの隣に座り、リスさんの背をそっと撫でながら床に目を落とすしかなかった。
けれど、リスさんに分かってもらいたかった。
「……リスさん、……古賀さんは、これからもずっと、リスさんのところへ来ると思います。いなくなったりしないで、ずっと……」
だから、怖がらないで。
私は、リスさんの幸せを願っている。心から。それがどんな形であったとしても。




