リスさんと演奏会 ①
ベッカライウグイスは、あっという間に、クリスマスと年の瀬とお正月という、三つ巴の坩堝へと、巻き込まれていった。
リスさんは、私の練習作であるアイシングジンジャークッキーを透明なセロファンの袋に入れると、細いリボンを付けてカウンターに飾った。
みっちゃんまでもが、「よく出来てるね」と褒めてくれたのが、なんとも子どものように手放しで嬉しい気持ちになった。
月に一度、土曜日に訪れてくださる、あの優しいお客さんは、凍った地面と雪の中でもベッカライウグイスを訪れ、クッキーを目に留めると褒めてくださった。
「あら、かわいい」
「試作品なので、もしよかったらですが、ご自由にお持ちください」
リスさんと話してそう決めていたので、私は声を掛けた。
「あら、ダメよ。おいくらなのかしら?」
売り物のつもりは全くなかったのだが、土曜日のお客さんのご厚意で、ジンジャークッキーは引き取られていった。
それからは、購入希望のお客さんがリスさんに声を掛け、残りもすべて値段がついて引き取られていった。
私がいちから作ったものが売れるのは、初めてのことだった。しかも、それがお菓子とは。
わくわくする嬉しさと気恥ずかしさを同時に抱え、私はなんともいえない喜びに浸った。
なにより、一番最初にお買い上げくださったのが、土曜日のお客さんであったことは私の素敵な思い出になった。
リスさんと私は、閉店後も工場で過ごす時間が増えた。
所謂、年末の残業である。
灯りと暖房を落としたお店内と、皓々とした電灯に照らされオーブンの熱が籠もる工場とは、対照的だ。
店頭に出すクリスマスのパンや初売り用のパンの試作、そして年末までに完成させるお年賀用のクッキーの試作を次々にこなしていくと、あっという間にクリスマスがやって来そうな気がした。
もう、自分たちに染みついたバターの匂いにはお互い全く気づかなかった。
お休みも返上で工場に籠もり、羊のクッキーを焼き上げてはアイシングを施し、できあがると乾燥剤を入れてシーリングした。
私は作業に没頭する余り、リスさんがいつの間にか出掛けても気がつかない日もあった。リスさんは、声を掛けてから、足りなくなったシーリングの袋を補充に出掛けたという。そう聞くと、この時期は、眠る時間しか離れることがなかったので、私は不思議な感覚を味わった。
そんな毎日だったので、お店にやって来たたいちゃんが切り出すまで、私は自分の不手際に気づかなかったのだった。
暖かな店内で、たいちゃんはカフェオレを飲みながら休み、リスさんは工場でクッキーを量産していた。
外は暮れ始め、お客さんは馴染みのたいちゃんしか残っていなかった。
私は、年末の大掃除が少しでも楽になるようにと、たいちゃんの邪魔にならない程度に、埃が立たない程度にあちこちを磨いた。
それが終わると、今度はお店のパソコンで、リスさんに言われていた材料の発注を始めた。ここに漏れがあると、年末で業者さんもお休みになってしまうので、大晦日にリスさんとスーパーやデパ地下を回るはめになってしまう。私は、もう一度、真剣に内容を確かめた。
そんな時だった。
唐突に、たいちゃんに言われたのだ。
「ね、来春さん、古賀さんのコンサートっていつなんですか?」
私は、手を止め、顔を上げた。
「えっ?」
そうだ。
本番に向けてなのだろうか、忙しくなった古賀さんの姿を、ここのところ見かけていなかった。
リスさんと私は、かわるがわる工場に入っていたし、リスさんがチケットを受け取った時点で、私はすっかり安心してもいた。
が、リスさんは明らかに私よりもずっと忙しいだろう。
十二月に入ると、定休日も返上で、怒濤のような作業に追われていた。
「いつ……」
私は、呆けた顔をたいちゃんに向けたのかもしれない。いつもきらきらと明るい、たいちゃんの表情が曇った。
「私、駅ビルとかで古賀さんのポスターをよく見るんですけど、古賀さん、もう演奏会が迫ってますよ。しかも、三つ」
「三つ……」
たいへん。どうしよう。
私は、業者さんへの注文を後回しにすると、パソコンで検索しだした。
「あった。たいちゃん。三つ……S響と、別のオーケストラと、ピアノリサイタル?」
たいちゃんが、冷静に言った。
「来春さん、リスさんが誘われたのって、どれだと思います?」
「え……と」
どれだろう。私は答えに窮してたいちゃんを見た。
たいちゃんは、自信たっぷりに断言した。
「ピアノリサイタルですよ!それ以外ありえません」
「え……どうして」
「だって、他のはオーケストラで、しかも演奏するのは古賀さんじゃないじゃないですか」
確かに。
「古賀さんは、自分の演奏をリスさんに聴いてもらいたいに決まってます」
なるほど。
「そうね」
私は、もう一度、パソコンの画面に目をやった。
古賀さんのピアノリサイタルは……。
「待って。たいちゃん。明後日?!」
たいちゃんは、泰然自若として頷いた。
「そうです」
たいへん。
「リスさん、……美容室……」
「行かなくていいです」
「え、……そうだ、明日から爆弾低気圧の影響がって、天気予報で」
「早めに出れば大丈夫です」
たいちゃんの落ち着きに引き摺られ、私も、まだ時間はある、と気がついた。
「問題は……」
たいちゃんは、職場の上司のようだった。私は、オウム返しに呟くしかない。
「……問題は?」
「リスさん、それを知ってますか?」
「え」
「忘れてませんか?」
「……まさかぁ」
私は笑った。
「来春さん忘れてたじゃないですか」
鋭い。そして、笑いを引っ込めた。
「まさか……」
私は、パソコンの上の壁にあるカレンダーを見た。
仕入れや、パンを店頭に出す日、1000枚に及ぶお年賀クッキーを作る予定が、リスさんの字で記されている。
明後日……。だが、そこにはアイスボックスクッキーを仕込む本数しか書かれていなかった。
たいちゃんが、カウンターからやって来た。
「来春さん、リスさんに言った方がいいです」
「えっ」
「さり気なく。リスさんが行きたくなるような感じで」
私は、たいちゃんに気圧されながら言った。
「……リスさん……行くと思いますけど……」
たいちゃんは、「い・い・え」と声を出さずに首を真横に振って見せた。
「そうか……なぁ……」
「来春さん、リスさんを甘く見ちゃダメです」
「……甘く見てはいないわよ?もちろん」
「来春さんも、古賀さんも、リスさんのこといまいち分かってないんじゃないかって思うんですけど、私」
そう言うと、たいちゃんはカウンターの席へ戻っていった。
軽い体でどさっと椅子に腰掛けると困ったように言った。
「明後日、弟の誕生日なんです。私、明日からケーキ作りやデザート作りで、来られないんですよ」
たいちゃんは、言葉尻に不信感を滲ませた。
私は、それを払拭するよう努めた。
「分かったわ、たいちゃん。明後日は、私も気を付けてリスさんを時間通りに出掛けられるようにするから。ちゃんと、仕事を空けて、リスさんを送り出すから、ね?」
私がそう約束すると、たいちゃんはやっと安心して帰っていった。
翌日、私は、課せられた任務を遂行すべく、頭の中であれこれ算段した。
古賀さんの演奏会当日は、クリスマス用の二種類のパンがお店に並ぶ予定の日だった。
一つはもみの木パンで、もう一つは、リスさんのお母さんの代から作られている、赤い鼻をしたサンタクロースパンである。
垂れ下がった目はレーズンで、赤い鼻にはドランチェリーを飾る。天然色素で着色された赤い帽子を被ったサンタクロースは、優しく、懐かしい。
白い髭のメロンパン生地はほろほろで、中にはチョコレートクリームが入っている。
リスさんと私は、前夜から、他の下ごしらえとともにチョコレートクリームやメロンパンのクッキー生地の製作に追われた。
さらに、リスさんがベッカライウグイスを留守にするということは、できるだけ二日分まとめて下ごしらえをしておく必要があった。
それは、楽に解決した。
私が、チョコレートクリームやクッキー生地を一緒に作りたいと希望し、その結果、倍の量が出来上がったからだった。
私は、入念に配合のメモを取った。
古賀さんのリサイタルを翌日に控え、眠りにつく頃には、部屋の窓硝子が音をたて始めた。予報通り、爆弾低気圧は街の空に辿り着いたのだろう。
私は、使命感を抱えながら眠りに落ちた。
早朝、風はすっかりおさまっていたが、玄関を空けると、暗闇にもはっきりと分かる波模様に押し寄せられた雪が辺りを埋め尽くしていた。
工場へ向かうには、リスさんと、膝まで積もった雪を漕いでいかなければいけなかった。
工場へ入ると、いつも通りの朝の仕事が始まったが、私はリスさんの家の物置に既に用意してあった雪かき道具を引っ張り出し、家の玄関から工場までの雪にまず道をつけた。それから、いつもは丁寧にする掃除もおざなりに駐車場へ飛び出すと、とりあえず車一台分の駐車スペースを作った。
「来春さん、代わりますから、中へ入ってください!」
リスさんに声を掛けられ、私は汗ばんだ首元を拭うと、一度お店の中へ戻って一息吐いた。
リスさんが用意してくれていたコーヒーカップを手に、カウンターで休憩しながら、果敢に駐車場のスペースを広げていくリスさんを見守った。
少しずつ明けていく空の下、乾いた空気の中で、リスさんの尻尾のような大きな巻き毛が奮闘して見える。ほんのりとした血色の頬が、白い息に取巻かれて揺らぐ。
私はリスさんを好きになった古賀さんを思い、リスさんは規則的に腕を動かし、雪を積み上げていく。
躰が温まると、私もすぐに席を立った。
工場で、オーブンのタイマーが鳴った。
仕事は順調だった。
雪は積もっていたが、悪天候ではなかったのでお客さんたちは次々とベッカライウグイスを訪れてくださった。
100本限定でナンバリングされたシュトーレンも、残すところあと10本ほどになり、智翠さんは上機嫌で1番の刻印を持ち帰り、古賀さんはあれからベッカライウグイスを訪れてはいなかった。
みっちゃんは、用事もないようで、いつものようにカウンターでのんびりとクリームパンを食べながらコーヒーを飲んでいた。
午後からのパンも焼き上がって、そろそろリスさんを古賀さんの演奏会へ急き立てる時刻だと思うと、私はどきどきしだした。自分のことではないのに、心臓が自分のことだと感じさせた。窓の外を窺い、密かに、タクシーの電話番号を確認した。
カランコロン
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
赤間さんである。いつもエプロンにサンダルを履き、やって来る赤間さんであるが、季節に合わせて上着や外套を嵩増ししている。今日も、バッグなど持たずに、ただ落ち着いたグレーの、毛足の整ったコートを身につけていた。
だが、赤間さんは、いつものようにパンを注文しなかった。
入ってくると、すぐにカウンターの方を窺ったのだ。
「すっかり降ったわねー。寒いわねー。ちょうどいいところにいた、みっちゃん」
突然赤間さんに名前を呼ばれ、みっちゃんはどきりとして振り返った。
「ね、あなた、床屋さんの安井さんが行方不明だって、知ってたでしょ」
行方不明?
その場にいたリスさんと私は、思いがけない言葉に顔を見合わせた。
「知ってたって……」
みっちゃんは、言葉を濁した。
「もう、二、三週間もお店を閉めたままなのよ?それとも、病気で……?」
赤間さんは、言い募った。
床屋さんの安井さんは、ご近所一帯の男性の散髪をほとんど担っているといってよかった。みっちゃんしかり、…………そういえば……。私はふと、記憶の隅に引っかかった話を思い出していた。
リスさんが赤間さんへ言った。
「この前、砂金さんが来たときに、三ちゃんも行ったら閉ってたって言ってましたけど……」
「この前って?」
「三週間くらい前?」
「じゃあ、そのときからなのよ。うちの人が、いつものように安井さんのところへ予約の電話を掛けたのが二週間前で……それからずっと繋がらないの。みっちゃん、あなた、いつ行ったの?安井さんのところ」
みっちゃんは、飄々として答えたが、どこか面倒そうな面差しだった。
「三週間くらい前だよ」
「安井さん、いつもと変わらない感じだった?」
「ああ、全く」
みっちゃんは、砂金さんに聞かれたときには、確か「安井さんも風邪くらいひくよ」と答えていた。けれど、もしそれで寝込むのならば、目と鼻の先にある赤間医院へまず行くだろう。その赤間医院の赤間さんが、行方不明と心配しているのである。
「何か、あったのかしら……」
心配そうに眉を顰めたリスさんに、赤間さんが言った。
「私、来るときにも通りすがりにお店を覗いたんだけど、真っ暗なままで。看板も止ってるし、上に住んでる安井さんのことは全く……」
カランコロン
「こんにちはー」
弘子さんとさくらさんである。
私は、条件反射で二人を迎えた。
「いらっしゃいませ」
二人は、赤間さんを囲んでカウンターに集まった私たちを、不思議そうに見た。
「どうしたの?」
「何か、あった?」
リスさんが、床屋さんの安井さんのことを説明した。
さくらさんは、この近所だが、特に聞いた話も心当たりもないという。
赤間さんは、安井さんの事情を訴えた。
「安井さん……お店を一週間以上お休みしたことはないのよ。あそこのお店は、先代……といっても安井さんの血縁の人ではないのだけれど、譲って貰ってそのまま安井さんが引き継いだの。それから、何十年もずっと、一週間以上お店を空けたことはなかった……。
みっちゃんだって、分かってるでしょう?この辺りの人は、みんな安井さんに切ってもらってるんだから、安井さんがいないって、分かってたんでしょう?」
みっちゃんは、愛想なく言った。
「安井さんだって、旅行ぐらい出掛けるよ」
「お得意さんを放って、三週間も出掛けたりしないわよ!」
赤間さんは、心底安井さんの安否を心配しているようすだった。
「みっちゃんに聞いてみて、分からないようだったら、年内に誰か立ち会いの人を入れて、お店に入ってみようって、うちの人と話してるの。もし、二階で、一人で倒れていたりしたら……」
誰もが、息を止め、凍りついた。
「大丈夫」
みっちゃんが、赤間さんのよくない推測を、明瞭に遮った。
「やっぱり、みっちゃん、安井さんのこと、心当たりあるのね?大丈夫なの?安井さん、元気にしてるの?」
その場にいる人全員が思っている言葉で、赤間さんはみっちゃんを問い詰めた。
「ああ。元気だよ」
「本当に?」
「元気だ」
それは、明らかな希望である。
が、では床屋さんの安井さんは、どこで何をしているというのか。
しかし、赤間さんはそれ以上追及をせずに、諦めて言ったのだった。
「……分かったわ。お店に入るのは、もう少し待ってみるわね。でも、誰にも何も告げずぽっかりいなくなるなんて、どう考えても心配だから、年が明けても姿が見えないようなら、みっちゃん、あなたも一緒にお店へ行ってくださいよ!」
「ああ、分かった」
みっちゃんは、赤間さんや私たちを安心させるように頷いたのだった。
それから赤間さんは、幾つかパンを注文し、それを受け取ると帰っていった。
行方不明……。
あの時、たいちゃんはみっちゃんに話していた。
安井さんの友人のミノさんと、たいちゃんの言う蓑先生は同一人物なのだろうか。
ベッカライウグイスには、何かを隠した不穏な沈黙が流れたが、一人だけそれに囚われない人物がいた。みっちゃんである。
みっちゃんは、雪に覆われた庭に目をやったまま、誰にともなく言った。
「安井さんはね……本当は、床屋さんになるつもりはなかったんだ」
私たちは、黙って耳を傾けた。
「安井さんは、ずっと、自分にまつわることを話しながら、注意を促してた。日常によくある落とし穴みたいなものだっていってたよ。それが……ここ何年か、ずいぶんあちこちと手広い場所で話すようになって、……それは消息を掴みたかったからなんだ。友人の、ね。
やっと手がかりを見つけて、探しに出掛けたんだよ。だから、安井さんが探していたものが見つかれば、きっと帰ってくると僕は思ってる。それには、待ってるしかないんだ。ただ、待ってるしか、ね」
みっちゃんが待っているのは、安井さんだけではない。私たちはそれを知っていて、誰も口にはしなかった。
「あ……」
突然、現実が、私の目の前に落ちてきた。
ベッカライウグイスにいた全員が、私を見た。
私は、絶望的に時計を見た。
「リスさん!演奏会!早く!」
振り返ると、リスさんは、見たこともないような落ち着いた目で私を見ていた。




