十一月のベッカライ ①
古賀さんが、とうとうリスさんを演奏会へ招いた。
目覚ましの音で、私は真っ先にそのことを思い出し、むくりと起き上がった。
小さな溜息を吐くが、自分の緩慢さからはすぐに抜け出せない。
起き抜けの体温が、冷たい室内の空気に奪われてから、ようやく本当に目が覚めてくる。
辺りは、真夜中と変わらない。
私は急いで洗面所へ入り、灯りを点けた。
さくらさんが作った青いタイルの寄せ集めが、深海のように弱く煌めく空間の中で私は身支度を整える。
髪を結ぶと、首の皮膚がそそけ立つ。冬である。
自室を出て、暗く冷えた廊下を行くと、リビングドアの硝子から、皓々と灯りが漏れているのが見える。
溶けるような安堵の中で、私は、静かにドアを開けた。
「おはようございます」
「おはようございます」
リスさんは、キッチンで、朝食のスープを密閉容器に注いでいた。私を見て瞬きをすると柔らかく微笑んだ。
「今日は、芽キャベツとタマネギのコンソメです」
早朝からのひと仕事を終えた後にいただく、リスさんのスープはいつも栄養いっぱいで、温かい。
リスさんは、昨日の朝となんら変わらない。
そして、スープ容器を持ち上げた。
「さ、仕事に出掛けますか」
「はい」
私たちは、真っ暗で冷たい朝の静けさを、鼻孔に満たした。
何かが変わっていそうで、けれどなにも変わらない、平和な一日の始まりだった。
私は、横で、昨夜仕込んだ発酵機から出したパン生地を、優しく揺り起こすようにしてから分割を始めるリスさんを見やった。
分割された生地に私は手を伸ばし、ころころと丸めていく。
リスさんは、よく油の馴染んだ食パン用の大きな型を調理台へ滑らせるようにして置いていった。
私は、冷蔵庫から取り出したバターの塊を、その型に塗りつけながら、確かに昨日あったことを思い出していた。
リスさんは、あの時、古賀さんを見上げて一瞬驚いた表情を見せた。
すぐに視線を飛び交う雪虫へと戻すと、少し逡巡している様子だった。そして、言ったのだ。
「これから、年末にかけて、お店が忙しいんです。初売りの準備もあるし……」
にべもないという答えではなかった。それまでのリスさんならば、言下に、はっきりとした理由で断っていたからだ。
古賀さんは、そこで無理を通そうとはしなかった。
「もし、時間があって、来られたらで構いません」
さり気なくそう言った。その緩やかな反応に、リスさんは安心したのか、不確定ながら応えたのだ。
「じゃあ、もし行けたら……」
リスさんは、古賀さんを見上げ、古賀さんはその約束に優しく頷いたのだった。
あの時私は、リスさんの人生に用意された分岐点を見守りながら、リスさんの幸せを願った。ほんのりと、あたたかくなっていく気持ちが、リスさんの道しるべを照らす灯りになることを心から願った。
けれど、なぜだろう。私には、リスさんの気持ちや約束は、儚いもののように思えて仕方がない。
リスさんは、どんな人生の幸せを望んでいるのだろうか。
その一方で、私は智翠さんのことを考えていた。
新年に、智翠さんが「リスのことを好きなだけではダメだ」と言った意味を。そして、智翠さんは、昨日のことを知らない。
リスさんは、成形の終わったパンから、二次発酵の適温になっているオーブンへと、次々に入れていった。それが終わるとすぐに、お昼に焼き上げるための材料を計測し、ミキサーを動かし始めた。
私は、お店に回ってガスストーブを点け、掃除を始めた。
モップを固く絞り、力を込めて拭き上げていく。磨かれた焦げ茶色の古い床からは、冷気が立ち上り、足下が深々と冷えていく。それが、結んだ髪に露わになっている首元まで一息に駆け上がり、私は震えた。息を吐くと、白い煙がうっすらとすぐに消えた。
工場から顔を出したリスさんが、私を見ると、何も言わずにやって来て、ガスストーブの温度を上げた。
少しすると、じんわりと頬が温まってきた。
お店のシェードを上げると、遠くで夜明けが始まったのが分かった。
私は、外套を着て外へ出ると、薄暗い駐車場を軽く履き上げた。もう、落ち葉もどんぐりも松ぼっくりも、吹き溜まることはない。あらかた落ちてしまったのだ。息が凍えた。集めた砂埃とほんの少しの茶色い松葉を回収し、私はお店へ戻った。
お店の空気は、すっかり暖まり、私は縮まった肩を緩める。
「来春さん、お疲れ様です」
朝食の温かいスープと、調理されたパンを、リスさんが運んでくる。
私たちは、カウンターに並び、幸せな湯気に取り囲まれる。
焼けた小麦とバターの匂いに、コーヒーの香りが混じる。
隣でスープを啜っていたリスさんが、私の方を向いて言った。
「来春さん、アイシングの練習頑張ってますね」
苦手なアイシングは、リスさんから手取足取り教わって、まさに修行中であった。
「難しすぎます。たいちゃんの方がずっと上手に出来ると思う……」
私は、尻つぼみの声になった。
リスさんは、冬の朝も朗らかだ。
「ふふふ。来春さん、うちへ来て何年ですか?」
私は、斜め上へ視線を揺らした。
「……一年と七か月ほど……」
「たいちゃんは、ああ見えてすっごく年季が入ってると思いますよ。来春さんは、たった一年と七か月で製パンをマスターして、製菓も上々じゃないですか。自信持って!」
そう言われると、自分の不器用さを知っているだけに、私は唇を引き伸ばして少し困った。
「お年賀用のクッキーは、来春さんの力にかかってる……」
リスさんは、真剣だった。
「え……」
「今年は、来春さんにもたくさん作ってもらおうと思ってるんです!」
リスさんが私を見て、にっこりと笑い、私の頭の中には、綺麗にアイシングされたクッキーが、調理台の上に所狭しと並んでいる年末の風景が蘇った。
リスさんは、元気よく立ち上がった。
「練習に、ジンジャークッキーで、オーナメントを作りませんか?お店に飾りましょう!」
そうだ。
古賀さんがリスさんを誘い、リスさんが演奏会へ出掛けても、ここは変わらないのだ。毎日、リスさんとパンを焼き、お客さんを迎える。
十一月、ベッカライウグイスのクリスマスの季節の始まりである。
その夕刻、私たちはくすくすと笑いながら、ベッカライウグイスとリスさんの家を何度も往復し、クリスマスの飾り付けを始めた。
先日の定休日、私たちは待ちに出掛け、ベッカライウグイスを飾るための買い物に勤しんだ。
クリスマスといえば赤と緑に金銀とカラーが決まっているが、そこに毎年のテーマカラーを決めて盛り込もう、と二人で考えついた。
私たちは、いち、にの、さんでそれぞれが思い描く色を口にしたが、偶然の一致をみて吹き出した。リスさん曰く、だいちゃんを思い出すとその色になったそうで、私はたいちゃんを思い出してその色になったと伝えた。
黄色だった。
リスさんと私は、手芸店を周り、黄色いリボンや、テーブルクロスにするためのモアレ生地や、ワイヤーやビーズを購入すると、翌日は二人で楽しく作業した。リスさんも私も、ちまちましたものを作るのが大好きだった。
たちまち、様々な飾りが出来上がり、今までの赤と緑のクリスマスらしい飾りに混じって、お店がどんな雰囲気になるのか、楽しみだった。
閉店したベッカライウグイスへ運び込んだ大小の箱を、私たちは開けていった。
去年見た、懐かしい飾りが次々と出てくる。
リスさんは、入り口の横にある焼き菓子のテーブルに、ミシン掛けした黄色いモアレのクロスを広げた。モアレのクロスは上品に、辺りを明るく華やかにした。その上に、さらに小さな緑色のクロスを掛ける。
「黄色にして、大正解でしたね」
「ほんと!」
その上には、時間をかけて作り、ひとつひとつ丁寧に包装した今年のシュトーレンを並べた。雪で薄化粧したミニチュアの山が、山脈の群生のように見える。横には、クリスマスらしい、木でできた大小のもみの木を飾った。
カウンターにも、別の小さなもみの木を、大小のせ、黄色のビーズで作った飾りを付けた。さらに、雪の被った小さな家の置物ものせる。椅子には、この時期だけ使う、樫の木の葉やどんぐりが描かれた生地の、カバーを掛けた。
大きな嵌め殺しの窓や、細長い窓の桟には、サンタクロースやプレゼントの包みを配置しいていった。
ベッカライウグイスは、もう、隅々までクリスマスを待つ様子に変わったが、肝心の飾りはこれからだった。
いよいよ、一番大きな箱を開けて、二人がかりでツリーを建てた。
ツリーは、リスさんの身長ほど高い。
リスさんのご両親が買いそろえたという、ガラス製の飾りを、細心の注意で枝につけていく。ガラスは、透明な球の中に、美しい物語の世界を閉じ込め、その動物や風景もまた、ガラス細工でできていた。
「ふぅ」
一番繊細な作業を終え、私たちは腰を伸ばした。
もみの木には、ワイヤーで形作った黄色いリボンもつけた。
そして、最後に、リスさんは両手で大きな星をてっぺんにのせた。
「できた!」
私たちは、拍手した。
翌日、訪れたお客さんたちは、皆さん、クリスマスのしつらえを愉しんでくださった。
ベッカライウグイスでは、冬の間、訪れてくださるお客さんすべてに温かいコーヒーをお配りし、お客さんたちはそれを手に、しばしガスストーブの前で暖まるのが憩いの風物詩だった。
お客さんたちは、木枯らしに吹かれた指先を温めながら、嵌め殺しの大きな窓から庭を眺めたり、他愛ない会話を交わして笑ったり、それがリスさんや私をほっとした安心感で満たした。
カランコロン
「こんにちは!」
「いらっしゃいませ」
智翠さんが、重たい番重を抱え、白い息を吐きながらやって来た。律儀に、必ず一度お店で挨拶をしてから工場の方へ番重を持って行く。
リスさんが、それを迎える。
「智翠、見てみて、クリスマスになったわよ」
「おっ。いいなー。俺のところは、クリスマス、ないからなぁ。もうすぐ、ザ・暮れって感じになるだけだよ」
水琴庵は、和菓子の老舗である。クリスマスは似つかわしくなかった。
「あ、でも、母さんが来春さんの飾りをお店に飾ってさ」
なんですって?!
私は、ぐりんと首を回して智翠さんを見た。
「あの、店の大暖簾の横に。母さん、看板の横に飾るか大暖簾の横か大分迷ってて、そっち側にしたみたい。それが、唯一の華やかさになったよ。ありがとう、来春さん!あ、お茶も、美味しかった!父さんもお礼を言ってたよ。ごちそうさまです」
智翠さんは、丁寧に頭を下げた。
あれが水琴庵の、あのお座敷に招かれる入り口の、大暖簾の横にあるなんて、……あってはならないことである。
私が言葉を失っていると、リスさんが、番重を持ったままの智翠さんに、お店の中を案内し始めた。
「来春さん、器用なのよ。このビーズ飾りも、あのリボン飾りもね、来春さん作よ」
「へーっ」
智翠さんは、リスさんに連れられてクリスマス飾りを見て回った。
「ほんとだね」
そして、入り口の横に戻ってくると、シュトーレンの山に目を留めた。
「あっ」
「えっ?」
「うちは、ナンバリング1番でお願い!」
急に振り返った智翠さんに、リスさんは吹き出すように了承した。
「そうね。分かったわ」
それぞれの、幸せの在処に埋められている宝物を見つける術は、簡単ではないのだろう。遠のいたり、隔たりを狭めたりしながら、同じ時間を別々に、私たちは生きている。




